第5話「獣の匂い」
「…………」
「…………」
「グゥ………」
あれから1時間は立っただろうか。
窓側の座席では、安心しきったヘイルが小さな寝息を立てて眠りの中に落ちていた。その通路側には、帽子を被った女が腰掛けている。
俺は扉に寄りかかりながら、明かり取りから外を眺めていた。
列車が進むにつれ、窓の外の風景は南区の灰色から、「西区」のそれへと塗り替えられていく。
南区よりも…さらにドス黒い色だ。
南区とは違う匂いの煙が鼻につく。
「あなたもわかるんですか?……この煙の匂い」
女は窓の外を見ながらポツリと呟いた。
「あぁ。…鼻が敏感なんだ」
……この世界には、「獣人」と言う種族がいる。人に、耳と尻尾が生えただけ……ただそれだけの違いだ。それを良いことに、人々は差別し、奴隷として家畜以下の扱いをしている。
特に、この西区では獣人の奴隷売買が盛んだ。
その事実を証明するかのように、列車の速度が落ちるにつれ、車窓の向こうに巨大な奴隷市場の檻や、鎖に繋がれた獣人たちの姿が次々と後ろへ流れていく。
表情と目は……全員同じだ。
唯一違うとすれば…希望を持ってるか、とっくに諦めたかだ。
西区の煙には、…その匂いが混じってる。
遠くの車両から、子供の楽しそうな声が聞こえる。
…………1等車の方からだ。
女は耐えかねたように、窓から目を離す。
「あなたは……獣人のこと…どう思ってるんです?」
…頭の中に、埃を被ったいろんな記憶が駆け巡る。
「……昔…猫を飼ってたことがあってな。でも…俺は猫になんの躾もしなかった。いや、出来なかった」
「どうしてです?」
「……猫ってのは…隠し事はしない。嫌なことは嫌って言う。嫌なことをしてしまっても…明日にはまた同じように鳴く。…自分よりずっと…偉いって思ってな。躾できる立場じゃねぇなって」
「隠しごとは…やっぱり…ダメですか?」
女は微かに頷くと、何かを躊躇うように視線を落とした。
「…私は…」
俺は女の言葉を遮る。
「別に隠しごとがダメってわけじゃない。嘘ってのは、他人や、自分の命を守れる。……だが、人間ってのは、他者を蹴落としたり…気持ち悪い笑顔でお世辞とかの方が多いだろ?」
女は顔を伏せる。
「おまえも…それはわかってるだろ?」
返答はなかった。列車がレールを叩く規則的な音だけが、二人の間に重苦しい沈黙として積もっていく。
「——そういえばおまえの名前、聞いてなかったな。…俺はgray——いや、サイラスだ」
女は悩んだあと、絞り出すような声で言った。
「私の…名前は……レトロです。よろしくお願いします」
女は、まっすぐに目を向けた。
「……grayさん」
「………そう呼びたいなら、構わない」
———◇———
ガタンゴトン——ガタンゴトン———ガタンゴトン————ガタンゴトン
車両の音がゆっくりと鈍くなっていく。
「———着きました?」
ヘイルが瞼を擦りながら顔を上げた。
「いや、西区だ」
ヘイルは好奇心に満ちた顔で窓の方へ視線を注ぐ。
「西区ですか…一体どんな————」
ヘイルの言葉が止まる。
列車の外ではボロ布を纏った女の獣人が鎖で繋がれ、………まるで家畜のようだ。
「酷い…なんで…こんな…」
ヘイルがポツリと言う。
困惑と怒りが混じった顔がガラスに反射している。
そういえば、こいつは獣人を見るのが初めてだったな。
「おい!!さっさと歩けよ!!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「頭下げんな!!くっせぇ臭いがするだろうが!!」
ドガッ
奴隷の体が地面に転がる。
「…何する気だ」
ガタッ
奴隷が殴られると同時に、ヘイルが立ち上がる。
「やめた方がいいよ」
女は俯いたまま言う。
「一人だけ救っても……意味ない。今もまた、誰かが首輪をつけられてるんだから」
ガタン、と大きな衝撃とともに列車が西区の駅に停車し、乗降用の扉が重々しい音を立てて開く。
「でも…放っておけない」
ヘイルは女の静止を無視して、開いた扉から外へ飛び出した。
「やめてください」
ヘイルは鎖を持っている男に話しかけた。
「あぁ?おめぇには関係ねぇだろ!!」
その時、男は気持ち悪い笑みを浮かべた。
「おい獣…こいつを殺せ」
「や…やだ」
その時、空気が固まった。
「嫌だ…だと?」
男が信じられない様子で言った。
「…獣風情ごときがか?」
目が血走っている。
「早く殺れぇぇぇぇ!!!!!!」
男は奴隷の肩に手を置く。
獣人の体が跳ねる。
「それとも…おまえのお母さんみたいにしてやろうかぁ?」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
奴隷は涙を浮かべ、全身を震わせる。
〈生きて……死なないで……〉
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
獣人が、鋭い爪でヘイルに飛びかかった。
だが、ヘイルはそれを軽く避けると、顔面に拳を叩き込んだ。
男へと。
ドカン!!
男の体は床に叩きつけられ、鈍い音が駅に響く。
獣人が呆然とした顔でヘイルを見つめる。
「大丈夫?」




