第1話「夜に蔓延る煙」
石畳は昨夜の雨で濡れていた。
ガス灯の明かりは薄暗い昼を照らしていて、煙突から吐き出される煤煙が空を灰色に染め続けていた。
灰色の空は溶けて地面に降り注ぎ、小雨となり街までも灰色に染め上げる。
通りを歩く人は皆、疲れた顔をしている。
電柱のカラスが、まるで何かを見透かしているかのような、不気味な視線を降らせている。
ビシャッ
貴族用の蒸気馬車が水溜まりを跳ね上げた。
「…香水くせぇ」
(全く…中は地獄だろうな)
通りの端では新聞売りの子供が、雨音をかき消すように怒鳴っている。
「南区でまた死体だ! 斧で頭をかち割られたんだってよ!」
……酷い街だ。
だが、ここに住む奴は酷いことに慣れる必要がある。
俺は人波から外れ、狭い路地裏に入る。
右に道を2回曲がると、いつもの店が見えてくる。
チリン
「いらっしゃい」
いつもの景色だ。
壁にはさまざまな種類の銃がかけられていていて、店主の後ろの大きな棚にはあらゆる弾薬が並んでいる。
それらを、2個しかない白熱電球が照らしている。
カウンターでは無愛想な店主が拳銃を磨いていた。
南区では珍しい、自動拳銃だ。どうせ壊れても部品が買えないからな。
「.455口径の弾を30発」
俺がそう言うと店主は拳銃をカウンターに置き、棚から箱を取り出して言った。
「2シリング」
俺はポケットから銀色のコインを2枚取り出す。
「毎度あり」
———◇———
俺は一直線で事務所に戻る———筈だった。
「強盗だ!誰か捕まえてくれ!」
果物屋の店の男が怒鳴る。
声がした方を振り返ると、こっちにバッグを持った男が走っていた。
だが、人々は目もくれない。面倒ごとが嫌いな奴らばかりだ。
「…はぁ…腐ってやがる」
俺は軽く足を伸ばす。
ズドン!
バックの重さが加わっていたのかでかい音を出して強盗が転び、金を地面にばら撒いた。
「くそっ…おい!この金はやる!助けろ!」
唾を飛ばしながら強盗が怒鳴る。
「…地面を舐めた金なんかいらねぇよ」
俺は強盗が言っていることを無視して事務所に足を向ける。
———◇———
街の真ん中にある時計台が21時を指した頃。
「ターゲット確認。おまえから見て2時の方だ」
俺はヘイルにトランシーバーで連絡をとる。
作戦は簡単だ。ヘイルが遠くから足を打ち抜いたあと、俺が路地裏に引きずって頭を吹っ飛ばす。
俺はタバコを取り出す。
事務所では吸わないようにしてるから、最近ずっと吸っていなかった。
タバコは……正直臭い。
でも仕事柄、何か寄りかかれる物がないとな。
ライターの火がタバコに触れた瞬間、赤色の鈍い光が灯る。
「フゥ……」
カッコ付けて肺まで煙を吸う奴がいるが、それは間違いだ。
肺にやったら黒くなっちまう。
———なぜか、ヘイルから返事がない。
「おいヘイ…」
ズドン!!
———ターゲットは普通に歩いている。足は撃ち抜かれていない。
なんなら、銃声を聞いて逃げ出そうとしている。
(どう言うことだ…?あいつは外すような奴じゃ…)
「おい…まて————
俺は足に力がなくなり、壁沿いにずるずると腰を落とす。
火薬の匂いが鼻につく。
石畳の隙間に赤色が広がっていく。
散々見た色だ。間違える筈がない。
「血…」
視線を落とすと———腹が赤く染まっているのがわかった。
致命傷だ。
「くそっ…何処か…ら…」
その時、道の奥から足音が響いた。足音はどんどん大きくなり———
俺の目の前で止まった。
ガシャッ
俺の目の前に血が付いた銃が落とされる。
マルティニ=ヘンリー。
俺が…ヘイルにプレゼントした銃だ。
銃にべっとりついた誰かの指の跡を街灯の僅かな光が映し出していた。
チャキン
目の前に、もう一つの物が落とされた。
ライターだ。名前が刻まれている。
Lucien Hale
ヘイル……
「くっ……ふひ、くふっ」
目の前のやつは、何か愉快な物を見たかのように笑った。
「くっ……ふひ、くふっ」
ポケットから少し遅れて同じ音が鳴った。
こいつ、ヘイルのトランシーバー盗みやがったな。
———クソが。
俺は銃を懐から取り出す。
そして暗闇の中、感を頼りに心臓に銃口を向けた。
ダンダンダンダンダンダン!
俺は6発の弾丸を全て打ち込んだ。
チリンチリン…
地面に6個の鉄の塊が落ちる。
「まじ…か」
俺は手探りで地面を探る。
(なにか…この状況を…)
俺の手に何かが当たった。馴染みのある形だ。
(.455口径の銃弾…どうしてこんなところに……いや、そんなことどうでもいい)
俺は体で隠しながら弾を込める。
チャンスは1発。
街頭の光が振り上げられた斧を照らす。
『東区でまた死体だ! 斧で頭をかち割られたんだってよ!』
…あれか。
斧を振り下ろした瞬間…俺は顔面に銃弾を叩き込んだ。
ガシャン
二つに割れた仮面が落ちる。
珍しく雲が晴れ、月明かりが差し込む。
「——!」
…強盗だった…今朝の。
男の脳天には、真っ赤な穴が空いていた。
ドサッ
男は仰向けに倒れた。
ポタッ——ポタッ———
その時。
冷たくなり始めた俺の腕に、雨粒が落ちた。
ザァァァァァァァ……
雨は、あっという間に激しくなった。
ジュッ———
吸っていたタバコの火が音を立てて消えた。
「はぁ…」
後悔か、疲労か、苦痛か。
いろんな物が混じった溜め息をついた。
隣の大通りから、次々と窓を閉める音が聞こえる。
「…………なんでフィクサーになんかなったんだったかな」
親は、物心ついた時にはもういなかった。
親は貧乏だったか、奴隷だったかは、もう覚えてない。
顔も、声も。
ただ…はっきりと覚えているのは、人生が変わった、あの日だ。
その日は、今と同じ激しい雨が降ってた。
全身びしょ濡れで、空き家の隣にある薪入れの中で、お菓子を頬張ってた。
そこが、俺の家だった。
ガキの頃の俺は腐った、カビの生えたパンを食べるのがどうしても嫌だった。
あぁ……だからいつもお菓子屋のゴミ箱を漁ってたんだったけな。
その日はいつもよりも冷えて、死ぬと思ってた。
———思ってたんだがな。
———◇———
寒い。
辛い。
死ぬ。
最後に食べたのが、カビの生えたパンじゃなくて良かった。
そもそも、今まで生きてたのが奇跡だったんだ。
それでも僕は、自分の親を恨む。
「こんな…物がついてるから」
これのせいで、僕は死ぬんだ。
今まで、いろんなところで働こうとしたけど…ダメだった。
精肉店。
文房具屋。
映画館。
お菓子屋。
新聞配り。
———靴磨きまで。
でも、全員言うことは同じ。
『臭い』
「なんでだよ…みんなと、変わんないじゃないか」
僕は金髪の親子が真っ赤な傘を刺しながら、新品の青い長靴を履いた子供を、虚ろな目で見つめた。
あぁ。
僕は、羨むことしかできない。
その時、僕の視界が歪んだ。雨か、涙かはわかんない。
「いいなぁ…」
上擦った声は雨にかき消されて、誰にも届かない。
欲しかった。
賞味期限が切れてないお菓子。
新品の服、靴、おもちゃ。
誕生日に食べるケーキ。
あったかいご飯。
———愛も。
全部、全部欲しかったんだ。
「欲張り…だよね」
その時、雨が止んだ。
いや、止んだんじゃない。
でも、僕の目の前の水溜りの波紋は消えていた。
視界に入ったのは、綺麗な革靴だった。
———◇———
そこで、俺の記憶は途切れた。
「誰だったか…」
大事な人だ。俺の人生を変えてくれた。
なのに———なぜ、思い出せないんだろうか。
まるで…固い錠が降りているかのように。
「このリボルバーも………」
フィクサーになった頃からの……
いや。その前から持っていた。
いつ買ったんだっけか?
いや、貰ったのか?
俺は、周りにある物全てがわからない物ばかりになっていることに気づいた。
「忘れ……てるのか?」
大切なことすら忘れるようなやつは、惨めに死ぬのか。
その時。
街頭に照らされた、金髪が視界の端を横切った。
元々赤だったらしい、色褪せた傘を差している。
「いいなぁ……」
上擦った声は雨にかき消されて、誰にも届かない。
俺は、何も変わっちゃいなかった。
背伸びした口調も、態度も、目つきも。
結局はただの飾りだ。
俺は腐った、カビの生えたパンを食べるのがどうしても嫌だったあの頃から———
「変われなかったんだな」
その時。
マルティニ・ヘンリーから血が消えたことに気付いた。
———雨で流れたか。
ヘイルに、これを渡した時のことが脳裏に浮かぶ。
「…雨が降って良かった」
………涙がわかんないからな。
———◇———
瞼の裏には何もない。
痛みも。
雨音も。
血の臭いも。
全部、消えた。
これが死後の世界か。
天国なんて場所は、俺には似合わない。
地獄なら知り合いも多そうだ。
……首が痛い。
重たい瞼を擦り、机に突っ伏した体を起こす。
目の前には、書類の山。2ヶ月前に来た依頼。
頬には紙が張り付いている。
窓の外では、灰色の霧が街を覆っている。
ギシッ——ギシッ——
木の軋む音と共に階段を降りてくる気配がした。
「おはようございます、grayさん。夜中もずっとやっていたんですか?」
こいつは俺の助手だ。いかにもお人好しの顔をしてる。
その時、頬に張り付いていた紙が剥がれ落ちた。
朝の買い物リストだ。
「…朝…だと?」




