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バラバラと崩れてゆく

 心と体、理性がバラバラになり、身体はますます重く、動かなくなっていった。

 そんな中で、母の退院の日が決まった。

 本当なら、喜ばしいはずなのに。速水ともう関わるのが辛くて、見舞いに行くことに限界を感じていたタイミングだった。これからは自分が母を支えなければならない。その責任が、更に肩にのしかかってくる。

 退院の手続きを終え、母の荷物を抱えて廊下を歩き出したとき、母がふと立ち止まった。

「リハビリの先生にも、挨拶していこうか」

 そのたった一言なのに、胸が掴まれたように苦しい。

 リハビリ室には行かないつもりだった。顔を見たら、きっと泣いてしまう。何もなかったように振る舞える自信がなかった。

 けれど母は何も知らない。ただ、毎日励ましてくれた先生たちにお礼を言いたいだけなのだ。

「……そうだね」

 小さく頷いた。

 母の歩調に合わせて、ゆっくりと廊下を進む。リハビリ室の前に立つと、ガラス越しに中の様子が見える。

——いるかもしれない。

 そう思っただけで、鼓動が早くなる。けれど母は迷うことなく、車椅子から前のめりに座りまっすぐと見ていた。

「お世話になりました」

 まだ少し呂律の回らない口で、母が丁寧に頭を下げる。室内のスタッフたちがこちらを振り向いた。

「退院おめでとうございます」

 あたたかな声がいくつも重なる。そして、その中に——速水の姿があった。

 胸の奥に押し込めていたものが、溢れそうになる。視界が揺れた。

 だめ。泣いたらだめ。

 必死でこらえているのに、涙は勝手に溜まっていく。

「……ありがとうございます」

 声が震える。けれど周りの誰も不思議には思わない。母の退院が嬉しくて、娘が泣いている。そう思われているに違いない。ただ一人速水は何も言わず、静かにこちらを見ていた。

  まるで誰かの人生を遠くから眺めているように、自分が現実の中にいる気がしなかった。

 そのとき、廊下の向こうから賢哉が歩いてくるのが見えた。

 迎えに来てくれていた。それだけのことなのに、胸の奥がざわめく。

「お世話になりました」

 賢哉は速水の前に立つと、迷いなく頭を下げた。

「妻がずっとお世話になっていたようで。母も、随分元気になりまして」

 穏やかで、誠実な声だった。

 速水は少し姿勢を正し、「こちらこそ」と返した。

「お母さまも頑張られましたし、奥さまが毎日そばにいてくださったことが、一番の力になったと思います」

 二人の会話が、静かに続く。

 詩乃はその少し後ろに立ち、ただ聞いていた。何かを言う場所などない。

 賢哉は速水が何者なのか、知らない。速水は賢哉が詩乃の夫だと、今この瞬間に初めて顔を見ている。そして詩乃だけが、この二人の間に何があったのかを知っていた。

 賢哉が笑顔で礼を言うたびに、その言葉が胸の内側に静かに刺さる。責める声ではない。ただ、あまりにも普通の、夫の姿だった。

「行こうか」

 賢哉が振り返り、詩乃に手荷物を受け取る。いつもと変わらない、賢哉の優しさ。

 速水とは、もう目を合わせなかった。合わせたら、何かが終わる気がした。それとも、何かが始まってしまったのだろうか?

 どちらなのか、自分でもわからないまま、賢哉と並んで廊下を歩き出す。

 二人分の足音が、静かに重なる。

 それがひどく、遠かった。


     

 

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