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さくらまで……

「夢ってさ、時間の流れが違うところに触れることって、あるらしいよ」

 詩乃は、瞬きをした。

「……え?」

 予想していた言葉と、まるで違った。

「さくらさんって、神様とかそういうの信じる人だったっけ」

「信じてるっていうか……神様って言われると、ちょっと違うんだけど」さくらは少し肩をすくめる。「私もたぶん、予知夢を見てるんだよね」

「えっ——」

 さくらは友達の中でも優等生タイプで、論理的なことしか言わない。それなのに……

「大体、事が起きる二、三ヶ月前に見るの。子供の頃から、ずっと」

 近所の犬がいなくなる夢のことから、過去の事件、天変地異にまつわる夢まで。さくらの声は低く、静かで、だからこそその言葉は本気だ。

——多数の犠牲者を出した船舶事故。そして大地震のこと。

 誰よりも現実的なはずのさくらが、そんなことを話している。現実と夢の境目が、また少し、溶けていく気がした。

「すごい……なんで今まで言ってくれなかったの。そんな話、一度もしなかったじゃない」

 こんなことが、自分だけに起きていたわけじゃなかった。その事実がじわりと、胸の奥に沁みこんでくる。

「当たり前じゃない、変な人って思われたくないもん。でも特別なことじゃないのよ、みんな気づいていないだけ」少し間を置いて、さくらの目が細くなった。「——それより、何かきっかけでもあったの?」

「……まだ、話していないことが、あって」

「無理して話さなくていいよ。ただ、つらいときはいつでもそばにいるから」

 その言葉が、胸のいちばん柔らかいところに触れた。詩乃は潤んだまま、小さく頷く。決意というより、もう限界だった。

「こうなったのには、理由があるの……」

 引っ張りたいわけじゃない。ただ、どこから話せばいいのか。自分の中にある言葉が、まだうまく形にならなくて。

「ある人に出会ってしまって……それからこんなことになってしまったみたいなの」

「それって——誰に会ったの?」

 口の中で言葉を少し泳がせた。薄く開いた唇の隙間から、ようやく声が落ちる。

「母のリハビリの先生」

 顔が上げられない。

 母の生死に関わるような場所で、よりによってそんな人に出会ってしまうなんて。こんな大事な時期に。それなのに——動けなくなるなんて。

「でもね、抱きしめてもらったし手も繋いでくれたけど、キスもしていないし体の関係もないから」

 慌ててそれだけを伝えたところで、もう止められなかった。堰を切ったように言葉が溢れ、出会いのことから、真宮に言われた言葉まで、ぜんぶ。

「それでね、やっぱり主人への気持ちを取り戻さなきゃって思って、無理に速水さんへの気持ちを抑えたの。そしたら……そしたら……私……悲しくて……動けなく……なっちゃっ……て」

 言い終わる前に、また涙が込み上げてくる。

「ごめんね。こんなこと人に話すべきじゃないってずっと我慢してたんだけど……あのタイミングで電話がきたから、話していいんだって思えて」

 唇はもうかさついているのに、涙だけは枯れない。途切れ途切れの言葉を、さくらはずっと静かに、頷きながら聞いていてくれた。

「そんなふうに無理に抑えちゃだめだよ。誰にだって忘れられない人はいると思うし——詩乃ちゃんちみたいにまだ仲がいいのって、実は珍しいんだから。普通はもう空気みたいなもんだし、旦那のことが好きだなんて、私なんて何年も考えたことないかも。そんなもんだって」

 普通の夫婦がどういうものか、詩乃にはわからない。一緒に買い物に行けるだけで幸せで、好きでいることが当たり前だと、ずっとそう思ってきたから。

「好きって気持ちは、忘れなくていいのよ」

「え……まだ好きって思っていてもいいの? だって主人よりも好きになっちゃったんだよ」

 忘れようとするたびに、愛しさが悲しみに変わって体の奥から溢れてくる。

「ありがとう」

 浮気の話を、否定もせず聞いてくれただけで。それだけで十分だった。

 けれどその温かさも、一瞬のとまり木に過ぎない。忘れなければ何かが起きる——その感覚だけは、皮膚に貼りついたように離れなかった。

 だって私の思考は、叶ってしまうから。

 お願い、神様。もう速水さんとは関係ないから、何も起こさないで。

 好きなのに、嫌いにならなければならない。

 そばにいたいのに、離れなければならない。

 心と理性が、どこか遠い場所でバラバラに引き裂かれたまま——詩乃はまた、動けなくなっていった。

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