パンドラの箱
「離れなさい 」
人は一言で殺せるのかもしれない。
真宮に言われたあの日から、悲しみが身体をむしばむように動かなくなってゆく。
隠しきれない悲しむ姿に、賢哉も気付いているようだが、何も触れない。
賢哉に労わって欲しいわけじゃない。真宮の言葉を神の言葉だと受け止めたのは私。
重たい身体を引きずり朝食の準備や洗濯、掃除をこなすとソファーにうなだれた。
ぼんやりと宙を眺め、部屋に残る速水の残像を空に描く。
速水さん……
何度も呟き影を追うが、とうとう見失ったように朝から動けなくなってしまった。
ゆっくりと起きて来た賢哉は、ソファーで横たわる姿を横目に、自分で朝食のパンを焼き始めた。
食器を片付ける音。
ネクタイを結ぶ音。
そのたびに起き上がろうとするが、身体はまったく動かない。やがて、玄関で靴を履く音が聞こえてきた。
(見送らなきゃ……)
賢哉を裏切り、コントロール出来なかった速水への想い。その裏切りを懺悔するように、せめて賢哉には今できる限りの事をしいたいと思うのに、心と身体が繋がらない。
すると、棚の上から着信音が鳴った。どこかで間宮かもしれないという思いに、ソファーからなだれ落ちると、這って携帯に手を伸ばす、
「おはよう!」
電話をかけてきたのは近所のさくらだった。時々一緒に買い物に行ったりランチをしている。
そのタイミングを逃さず立ち上がると、よろけながら玄関で賢哉を見送る。
「何かあった?」
さくらは敏感に私の変化を感じたようだ。
「昨日メッセージ送ったけれど、既読にもならないから、何かあったのかなって」
このタイミングで差し伸べられた手を掴めば何かが変わる、そんな予感に着替えを済ませ家を出た。
「顔色悪いわよ。いったいどうしたの?」
近所のカフェだからと言って、化粧もせず、長い髪をただ無造作にまとめただけの姿が気になったのだろう。
けれど、こんな自分に配られた優しさに涙が溢れる。これまでだってさくらには、仕事の愚痴や悩みをいつも相談してきた。大切な友達だからこそ、こんな事態になってしまった事を話せないと思ってきたけれど。
「相談したいことが……」
とても一人で抱えられる大きさではない。
「落ち着いて、どんな話だって聞くわよ」
嗚咽し言葉に出来ずにいる私を見かねた声がする。
「んぐ……ありが……う」
何から話していいのかわからなかった。速水のこと、そして不思議な世界。カップの中のコーヒーを見つめ小さく息を吐いた。
「ねえ、……変な話してもいい?」
「ん? どうしたの」
「多分、引くと思うんだけど」
そう言うと、さくらは少し笑った。
「大丈夫だよ。私、意外と何でも聞けるタイプだから」
「うん……私ね、思春期の頃からちょっと不思議なことがあって」
うまく言葉にできない。
「夢で見たことが、あとから現実になることがあるの」
さくらは驚くでもなく、ただ静かに聞いていた。
「最初は偶然だと思ってたんだけど、何度か続いて……」
カップを両手で包み、戸惑いながら続ける。
「最近ね夢で見ただけじゃなくて思ったことが直ぐに叶うの……それも毎日! 今まではタイムラグがあったから偶然だって思えた事も、これだけ続けて起きたらさすがに気付くよ神様がいるって」
そこまで言ってから、苦笑した。
「ほら、やっぱり変でしょ」
するとさくらは、少しだけ首をかしげた。妄想だと論破され信じてもらえなくても仕方のない事だ。
「そういう事って詩乃ちゃんにだけ起きている事じゃないからね!」
「えっ?」
閉ざされていたパンドラの箱を開けるようにさくらが話し始めた。




