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八つ当たり

誰に八つ当たりを。。。

 しばらく速水に会いたくなかった。

 顔を見れば、きっと全てがこぼれてしまう。なのに、心は勝手にこの場所へ足を運ばせる。

 母の歩行練習を見守るつもりで、リハビリ室の扉を開けた。

 平行棒に階段。そして視界の端に入る見慣れた背中。

 平静でいようとするのに、母に優しく声をかける姿を見ただけで、涙が込み上げる。


 もう限界。


 誰に言うでもなく呟いて、リハビリ室を後にすると、心を落ち着かせてくれる場所を探し、彷徨うように歩き出す。


 (誰も来ない場所)


 非常口の緑色の灯りに吸い寄せられるように、重たい金属音をたてながら扉を押す。踊り場まで来ると耐えられずに、冷たい手すりに額を押しつけ声を押し殺して静かに泣いた。


 どのくらい時間が過ぎただろう。


(もう、行かなくちゃ。きっとリハビリも終わっているはず)

 

 鏡に映る顔は目元や鼻も真っ赤で、泣いていたことを隠せない。水で顔を冷やし、何度も深呼吸をしてから病室へ戻ると、母はベッドで穏やかな寝息をたてていた。歩行練習で疲れたのだろう。


(きっとこのまま帰ったら心配させるよね……起きるまで、いよう)

 

 泣いていたことを悟られたくないけれど、部屋を去る気にもなれなかった。

 椅子に腰を下ろし母の寝顔を見つめ、速水とのリハビリの様子を思い出していた。あと少しで会うことがなくなれば、きっといつか忘れられる。


 「あら、帰ってたのね。今日はりょく歩けた」と、ろれつの回らない話し方。それでも誇らしげなその笑顔に救われた。最初に感じていた絶望と不安から、まさかこんなにも回復するとは思わなかった。そして速水の影がちらつく。


「すごいよ。あと少しで退院出来そうだね」


 何事もなかったように振る舞って、何気なく言った自分の言葉に息が止まった。


(そうすることが、みんなの幸せだから)


 わかっている。なのにいつまでも心がついていかない。むしろ、切なさがつもってゆく。ふと窓の外へ目をやると、地平線のわずかなところに陽の名残が伸びている。


(今帰れば、会わなくてすむな)


 もう顔を合わせない方がいい。これ以上苦しみたくない。手早く鞄を手に取ると、迷いを振り払うように足早に玄関ホールへ向かった。

 靴音が白い床に響く。あと一歩で冷たい風が涙を拭いてくれるはず。

 けれどふと足が止まった。なぜ立ち止まったのか自分でも分からない。会わなくていいはずなのに、寂しさを感じている自分がいる。


(忘れるんだ)


 再び一歩を踏み出そうとしたその瞬間。


「お疲れさまでした」


 背後から聞き慣れた声に、動けなくなった。振り向かなくてもわかる。速水だ。

 会いたかった。でも……


「……お先に」


 そう言って立ち去ろうとするより先に、涙がこぼれた。


「一人で帰っちゃうんですか?」


 イケナイとわかっている。だけど……一緒にいたい。

 今にも崩れそうな私を、抱きしめて欲しい。

 だけど、そんなこと言えるはずもない。


 帰ると伝えたいのに喉が閉じて、俯くことしかできない。


「あと少しだけ待っていて下さい。僕、すぐに戻って来ますから」


 私の返事も聞かずそう言って消えた背中を見送りながら、扉に手をかけた。このまま外へ出てしまえば、泣き顔を見られることも、理由を説明する必要もない。


(賢哉に心を戻さなきゃ……!)


 そう思うのに足が動かない。会える時間は限られているのに、帰ったら話せなかった今日を手放すことが怖い。


「お待たせしました」


(まだ終業時間前のはずなのに、どうやって帰れたのだろう?)


 息を整えながら、いつもの穏やかな表情でやってきた。

 玄関を出ると、ひんやりとした夕暮れの空気。駅へ続くメイン通りを一歩裏に入ったところで、どちらともなく並んで歩き出す。けれど会話はない。

 

 こうしていられることが幸せなはずなのに、そう思うからこそ涙が頬をたどるように流れる。


 「どうしました……? 何かあったんですか?」


 理由を話したら感情を止められないとわかっている。心配そうにこちらをうかがう気配を感じて何か話さなければと思うのに、息が震え嗚咽が混じる。

 もう、隠せない。


「この間……」ようやく絞り出す。呼吸を整えながら、必死に言葉を探す。


「主人と……買い物に行ったの」


 速水は何も言わず、ただ静かに聞いている。その沈黙が、逆に苦しい。


「一緒に歩いていて……気付いちゃったの」


 息をのむ。


「私ね……ちゃんと、主人のこと好きなの」


 涙がまたこぼれる。


「大事で、守りたくて……失いたくないのに」声が崩れる。


「なのに……」


 視線が、速水の手元に落ちる。


「心が……」


 静かだった空気が、わずかに震える。


「もう……主人を愛せなくなってる」


 堪えていたものが一気に溢れ出す。


「なんで私、こんなことになっちゃったの……! ずっと幸せだったのに……」


 嗚咽混じりの声が、夜に溶ける。


「好きなのに……ちゃんと好きなのに……」


 責められるべきは自分、それなのに。


「どうして……あなたなの……」


 その一言は、八つ当たりだった。二人の関係を繋いだのも、賢哉への気持ちの純度を変えてしまったのも、すべて自分の選択だ。

 速水は、ただ黙って立っている。その沈黙が、肯定なのか、拒絶なのか、わからないまま、涙だけが止まらなかった。

 


浮気って、楽しいんじゃないの?

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