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傾いた天秤

楽しいはずだからこそ、気付く気持ち

 週末、一年に一度は訪れるイベントに出かける準備をしていた。

 年に一度の特得バーゲンに向けて、前日からチラシを眺め、欲しいものには丸をつけている。日頃は質素に暮らし、この日に備えていると言ってもいい。

「大きい方のカートだしてくれる?」

 声をかけると、賢哉がリビングから顔を出す。

「いいよ」

 旅行に行くより、このときばかり役に立つ大きなキャリーケース。クローゼットの上段から下ろすのを、背伸びしながら手伝ってくれる。

 危ないからと自然に添えられる気遣い。

「今日、そんなに買うものあるの?」

 いつもと変わらず穏やかに微笑んでいる。行けば絶対楽しいのは保証済みだ。


「あいにくの天気だなー」


 車に乗り込むとフロントガラスの向こうは、どんよりとした空が広がっている。いつ雪が降り始めてもおかしくない空模様だ。


「寒いね。膝掛け使う?」


「俺は大丈夫だから、詩乃だけ暖かくして」


 こんな平凡な幸せを求めていた。


「今月は誕生日があるし、欲しいのがあれば何でも言って」


「ありがとう」


 平凡なんかじゃない。結婚当初は、日の当たらない古びた賃貸アパートに住んでいた。けれど今はタワマンに引越し、お金も自由に使えるようになった。十分過ぎる程幸せだ。

 

 ショッピングモールの入口では、開店を待つ人たちの高揚した空気が漂っている。


「混んでるなー」

「本当にね」

 賢哉の話に相槌を打ちながら会話をしているのに、思考と行動が分離したように、速水のことばかりを考えていた。

 指先を包むあの温もり。ギュッと握り返された瞬間の、胸の震え。思い出しただけで、心臓がわずかに速くなる。

「やっと入れるみたいだな」

 楽しげなBGMが絶え間なく流れ、目に写る人々の活気に自分の感情を乗せ、更に興奮し買い物を楽しめるはずだった。


 えっ……


 なのにすれ違う人々の顔も空気も何もかもが、これまでとは違う違和感を感じた。賢哉と一緒にいる何気ない日常を幸せだと思ってきたのに。守りたいのは穏やかで平凡な日常だったのに、いるはずのない速水を探している。


 いない……


 賢哉だけを一途に想ってきたからこそ、賢哉を愛しながら、心に速水がいる自分の変化が許せなかった。

 速水への想いは、ただのさざ波だったのに、けれど気づけばそれは静かに広がり、賢哉への愛情を押し流し、違う場所に立っている。


 あんなに好きだったのに……どうして?

 戻り方がわからない。込み上げる孤独を、喉の奥に押し込める。


 (速水さんに逢いたい。こんな偽りの気持ちのまま、いつまで賢哉と生活しなければならないの?)


 羽をもがれたように、自由も未来もないような不安に襲われる。気づけば通り過ぎる人混みに立ち尽くしたまま、水面から溢れた涙がポロポロとこぼれていた。硝子玉の割れた響き。


 もう自分の心を隠す事は出来ない。


 そっと賢哉から離れ人混みに紛れる。人と人の隙間をすり抜け、照明の強い売り場から、少し暗い通路へ。

 息が浅い。さっきまでのざわめきが、頭の中で反響する。


 (こんなはずじゃなかったのに。もう無理……帰りたい)


 そこでスマホが震えた。


『どこにいる?』


 孤独に泣きはらす私を見つけ駆け寄ると、一瞬だけ驚いたように目を見開き、


「……見つかってよかった」


 とだけ言うと、問い詰めるでもなく、そっとハンカチを差し出す。静かな声。その優しさが余計に胸を締めつける。


「ごめんなさい」


 もうそれ以上、言葉に出来ない。


「帰ろう」


 駐車場に響くエンジン音。街の灯りがフロントガラスに滲む。


 (気持ちを切り替えなきゃ)


 そう思うほど、涙は止まらないものだ。その横で私の好きな曲の音量をあげる賢哉は、理由をきこうとはしない。

 何があっても、見守っていてくれるそんな賢哉が好きだった。優しくて、誠実で、一緒に積み上げてきた時間も、あの古いアパートで笑い合った日々も、全部。

 ちゃんと、愛していた。


 それなのに。前と同じ温度で、触れられなくなっている自分が許せない。純粋だったはずの気持ちに、別の色が混ざっていくことがいちばん辛い。


 嫌いになれたなら……


 そうしたらどれほど楽だろう。賢哉を好きなまま、速水に惹かれてしまうこんな滅茶苦茶な感情の意味がわからない。


 愛しているのに、裏切っている。

 愛してはイケナイ人を、愛している。

 信号が赤に変わり、車が止まる。静かな車内で、自分の心だけが、行き場を失っていた。




行き場を失った気持ちはどこへ

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