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もう一度

ある事が、当たり前になっていないだろうか?


「速水さん、今日もお弁当作ってきましたが、召し上がりますか?」

 自分でも分かるくらい、期待が混じった声だ。

「えっ、いいんですかー。嬉しいです」

 子どものように素直な笑顔、自分の手間や時間が、誰かの喜びになる瞬間、それは何度経験しても慣れることがない。

 決して、賢哉との生活に不満があったわけではない。むしろその逆だ。

 日頃忙しい賢哉も、週末には一緒にドライブがてらカフェを巡り、夕方には一緒にドラマを見る。

 どちらが洗い物をするかで小さく笑い合う、そんな穏やかなやりとりに派手さはないけれど、その平凡さの中にちゃんと幸せを感じていた。

——それなのに。

 賢哉と築いてきた日々を否定したいわけじゃなく、何ひとつ失いたくないと思っているのに、速水との出会いを、なかったことにはできない。

 母と他愛ない話をして過ごし、速水の退勤時間に合わせ部屋を出る。そして、帰りに一緒に帰ることに、少しずつそれが当たり前になっていた。

「寒い」

 病院を出た瞬間思わずこぼれた声が、白い息に溶ける。

 今日は木枯らし一号が吹くと言っていたが,予報どおりだ。マフラーの隙間から入り込む冷気に肩をすくめると、速水が少し歩幅を緩めた。

「冷えますね」

 コートの袖がわずかに触れそうで、触れない距離から聞こえる穏やかな声。

「……速水さん」

 声が思ったより小さくて、もう一度息を吸う。

「また、手を繋いでもらってもいいですか?」

 一度離れた温もりを、もう一度求めている。

 何も言わず、静かに差し出された手を、そっと握り返す。

「冷たいよね」かすれた声。

 速水の大きな手が温かくて、自分の指先がこんなにも冷えていることに今さら気づく。

 速水がいつでも離せるように、遠慮がちに触れていただけだった。けれど次の瞬間、ギュッと、包み込むように握られた。

 冷えた指先が、じんわりと温められ広がってゆく。

 あきが好き。

 風は冬へとむかい冷えてゆくのに、心を温める人がそばにいるから。

「ありがとう」

 ただ、手を握り返すことしかできない。

——もっと、一緒にいたい。

 そう思ったそのとき、コートのポケットの中で着信音が震えた。

 現実に引き戻されるように、足が止まる。

 画面に浮かぶ名前。

 賢哉。

 一瞬、息が浅くなる。

『今日はトラブルで帰りが遅くなりそう。先に休んでて』

——まただ。

 一緒にいたいと願った瞬間に、状況が整う。偶然にしては合いすぎるタイミングに、自分の願いが、現実を動かしているような錯覚におちいる。

 怖いのに、どこかで甘く感じてしまう。

「大丈夫ですか?」

 速水が、繋いだままの手にわずかに力を込める。

「ええ……主人が、帰り遅くなるみたいで」

 この温もりがひどく背徳的に感じるのに、手は離れない。

 少し歩みを緩めたまま、速水が静かに言う。

「お母さま、最近だいぶ安定していますね」

 視線が自然と上がる。

「筋力も戻ってきていますし、転倒リスクもかなり下がりました。このままいけば……退院も、近いと思います」

 退院。母が元気になることを、何度も神様に願った。

 なのに……

「そう……ですね」

 自分の声が、思ったよりも遠くで響いた。退院すればここへ来る理由が減る。

 リハビリに立ち会う時間も、待ち合わせるように視線を探すこと、帰り道を並んで歩くこと、こうして手を繋いだこと、その全てが夢の中の出来事のように走馬灯の如くめぐる。

 けれど、次の角を曲がれば、駅前のメインストリート。病院帰りのスタッフが立ち話をしていることもある場所だ。誰に見られるかもわからない。

 手を離さなくちゃ。そう思うのに、

 もう少しだけ……

 歩幅をわずかに落とす自分がいる。

「……ここからは」

 速水は感情をのせず言葉にした。

 ゆっくりと手を離すと、さっきまで確かにそこにあった熱が、嘘みたいに消えて、冷たい空気が手のひらに触れた。

 速水は問いかけも、引き止めもなく、ただ静かに駅の方へと一歩踏み出す。

——これで終わり。

 そう思った瞬間、胸の奥が強く軋む。

 守らなければいけないものがあると、わかっているのに……

「……っ」

 名前を呼ぶ余裕もなく、思わず後ろから抱きついていた。コート越しに感じる、確かな体温。背の高い速水の背中に頬が触れ、鼓動が伝わる。

 一瞬、時間が止まった。

 離したばかりのはずなのに、どうしてもこの温もりを失いたくなかった。

「……ごめんなさい」

 永遠になればいいと、愚かな願いがよぎる。けれど、駅の方からざわめきが近づいてくる笑い声。

 咄嗟に体を離すと、駆け出した。

 振り返らない。振り返ったら、戻ってしまいそうだから。

 夜風が夜風が熱くなった頬を撫で、にじんだ涙をさらった。







 


感謝は伝えられる時に伝えておいた方がいい。

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