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どこまでなら許されるのだろう

母の為に我慢するしかないのだろうか?


 見舞いに行く日を、速水に伝えるようになったのはいつからだっただろう。

「明日、夕方行けそうなんです」

「金曜は少し遅くなります」

 ただ予定を共有しているだけのはずだった。

 リハビリに立ち会えるかどうか、それを確認するための事務的なやり取り。それなのに、その一言を伝える前には妙に言葉を選び、返ってくる「分かりました」の短い返事に、ほっとする自分がいた。

 母の回復に寄り添う時間の中で、速水の存在は、いつしか日常の輪郭に溶け込んでいく。

 何時頃に来て、何時頃に帰るのか。やがて互いの生活のリズムがなんとなく見えてかて、言葉にしなくても分かるようになっていった頃、帰りのタイミングが重なる日が増えていった。

 合わせようと決めたわけじゃない。

 けれど、どちらともなく、自然にそうなっていった。 

 時計を見上げると、十七時二十分。

「そろそろ帰るね」と、母にそう告げる。

——この瞬間をどれだけ心待ちにしていた事か。

 胸の奥で小さく自覚しながら、表情には出さない。荷物を整え、病室を後にする。

 照明の落とされたロビーに降りると、ちょうどそこに速水の姿があった。一瞬だけ目が合う。

 それだけで十分だった。

 言葉は交わさないまま、彼はカバンを肩にかけ、私も静かに歩き出す。

 病院の自動ドアを出るまでは、互いに距離を保ったまま。

 それぞれ別の帰路を選ぶように歩く。けれど駅までの真っ直ぐ伸びる歩道から少し離れた裏通りまできたところで、どちらからともなく歩調がゆるやかに揃い、気づけば同じ位置に並んでいた。

 偶然を装うように。

「今日もありがとうございました」と、短い会話。

 少し遠回りな裏通りでも、並んで歩く時間は長くない。

 それでも、その数分が一日の終わりを優しく整えてくれる。

 何かを約束したわけじゃない。

 名前を呼び合うほど近づいたわけでもない。

 けれど確かに、距離は少しずつ縮まっていた。

 言葉にしないまま、

 歩幅と帰る時間だけが重なっていく。

「あの……」

 次の角を曲がれば駅に到着してしまう。私は雫が落ちるように言葉をこぼした。

 告白したときと同じだ。胸の奥で何度もためらい、ようやく勇気を押し出す。

「はい」

 誠実に返されるほど、言い出しにくくなる。

「最近、私……失礼なことばかり言ってるんですが……」

 一度区切る。逃げ道を残すように息を吸い込む。

「また変なこと言っていいですか?」

「はい」

 少しだけ驚いたように表情を引き締めて、速水はこちらを見た。

「私、手を繋ぎたいです」

「えっ、そっち? ……あっ、はぁー。中学生みたいですね」

 吹き出して振り向いた顔に浮かんでいたのは、注意する場面ではないと分かった安堵の色だったのかもしれない。

 ——中学生、か。

 確かに彼は恋愛に慣れているのかもしれない。

 本当は、またあの安心感に浸りたい。けれど、海外ではそれが挨拶として日常だとしても、この関係で許される最大限だった。

「でも、手が繋ぎたいの」

 抱きしめられなくても、指先から伝わる安心感だけで、また会えない日々を越えていける気がした。

 するとその想いを汲んだように、速水は前を向いたまま、そっと右手を差し出した。

 ——大きな手。

 触れた瞬間、肌と肌が重なったというだけで、幸福が静かに全身へ広がる。

 あれ?

 溶けるように、どこまでが自分の感覚なのか分からない。指を重ね、何度か組み直し絡めてみるけれど、境界が曖昧になる。

 手を繋いでいるのに。

 賢哉と手を繋いだときとは違う。

 熱い湯に足を入れた瞬間の刺激のあと、次第に温度に溶けていくような、触れているはずの感覚が、輪郭を失っていく。

 気のせい?

 理由のない違和感だけが、静かに胸に残った。

 

「ただいま」

 誰もいないとわかっているが、そう呟き玄関のドアを閉めた瞬間、現実の空気が身体に触れた。

 灯りのついたリビング。見慣れた匂い。

 変わらないはずの日常の中に戻ってきたのに、右手だけが、まだ別の場所にいるようだった。

 無意識に指先を見つめる。触れていたはずの温もりはもうないのに、胸の奥に残るものは消えなかった。

 罪悪感とは違う。

 後悔とも違う。

 むしろ——

 守られていたような、満たされていたような、説明できない安心感だけが静かに広がっている。

 ソファに腰を下ろし、そっと右手を胸の上に置いた。

 なぜだろう。

 賢哉と過ごしてきた時間の中で、こんなふうに感覚が残ったことは一度もない。

 なんでこんなにも……

——私は、どこに向かっているの?

 答えの出ない問いを抱えたまま、眠りについた。




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