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正夢

正夢をみたことある?

 母が突然倒れた日のことを、今でもはっきりと思い出せる。

 病院の白い光の下で、何ひとつ出来ない自分に立ち尽くし、ただ時間だけが過ぎていった。

 看護師としてなら知っていることも多い。なのに娘としてそこにいる私は、何の力も持たないただの家族でしかなかった。

 そんな無力感と不安に押し潰されそうになりながら、ただ祈ることしかできなかった私を救ってくれたのが、速水だった。

 落ち着いた声で母に語りかけ、出来ることを一つずつ拾い上げるように励ます姿を見たとき、胸の奥に張りつめていた糸が、ふっと緩んだ。

 大丈夫だと思えたのは、彼がいたからだ。

 そしてリハビリの時間が、次第に私の心の拠り所になっていった。母の回復を見る安心と、彼の存在に触れる安堵が重なって、暗闇の中に小さな灯りがともるようだった。

 けれど……

 その灯りはやがて形を変えて.気づけば彼の言葉を思い出して眠り、何気ない仕草に胸が揺れ、会えない日はどこか空白が残るようになっていた。

 それが何なのか、理解した瞬間、足元が崩れた。

  家庭があって賢哉を愛しているのに何故? こんなこと許されない。

 壊していい理由などどこにもないのに、心は従わない。

 救われたはずの出会いが、今度は私を深い迷いの中へ連れていく。

 会うたびに温かさをもらいながら、同時に胸の奥に罪の影が積もっていく。

 近づきたいのに近づけない。離れなければならないのに離れられない。

 退院するまで……。


 発症から約3か月までが特に回復しやすいと言われている。母の重症度を考えれば、早くてあと一か月もすれば自宅療養になるだろう。けれど、心がもつのかわからない。

 そんな私のネガティブな思考に引き寄せられたのか、最近母は反抗的になり、義父に癌が見つかった。


 母の回復を願い通い続けるのに、いつの間にか心の行き場を失い、これまで抱いた事のないストレスに苛立ちを募らせていた。


 暗闇に沈むような思考の底で、私は答えのない問いを抱えたまま立ち尽くしていた。

何を選べばいいのかも、どこへ向かえばいいのかもわからない。

足元が静かに崩れていくような、不安定な感覚だけが確かだった。

そんなある日、答えのない問いの中をさまよう私の前に、暗闇から忽然と速水が現れた。

 低く落ち着いた声でも、はっきりした足音でもない。

 視界が揺らいだ瞬間、崩れ落ちそうになった身体を、彼の腕が静かに受け止め、逃げ場を失った私を確かに引き寄せる強さがあった。

 そして両腕を広げると私を優しくそして支えるように強く抱きしめた。


 速水さん……


 胸の高揚と幸福。初めて愛した賢哉にでさえ感じたことのない安心感。

 速水の逞しい腕、そして胸の温もりを感じた所でハッと目が覚めた。今自分がどこにいるのか確認する程、現実の境を感じられずリアルな夢だ。


 抱きしめてもらえただけで、こんなにも安心出来るんだ。


 悩んでいた事が嘘のように消えている。まだ肌に触れた感覚が残っていた。


 さっ、起きよう!


 夢の続きのような現実。けれどあれは幻だったと理解しているのに身体も軽くやる気がわいてきた。

 朝食も食べずにそのまま洗濯機にパジャマを放り込み、部屋を片付け始める。


 掃除も終わったし、洗濯もあと十分か。


 ウォーターサーバーから水を注ぎ、再び夢の余韻に浸ろうと、ソファーに横になった。

 けれど次の瞬間、幼い頃に迷子になったときのような、不安と恐れ、そして取り残された悲しみが胸の奥から湧き上がってきた。

――違う、あれは夢。

 どこかで、まだそばにいると錯覚していた速水の存在が、はっきりと“ここにはいない”と認識された瞬間、耐えきれない重さに押し潰されるように涙がこぼれた。

 それは夢の余韻の重さ。そして、速水への募る想いの重さ。

――そばになんていない。わかっている。

 それでも、その現実を受け入れられない理不尽な怒りが胸の内で暴れていた。悩みなど誰にでもある。

 けれど速水に対するこの感情は、これまで経験したことのない苦しさだった。誰かに理解されるはずもない。

 まして夫がいながら抱く恋心など、認めることすら嫌悪されるだろう。

それでもこの気持ちは、とても一人で抱えきれる重さではなかった。

「……速水さんに、逢いたい」

 胸の奥にぽっかり空いた場所を確かめるように、私はスマホを手に取った。


さて。。。このあとは。。。

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