告白
納めておけない気持ち。
あなたは自分の価値観で抑えられますか?
面会を終えた帰り道。
街灯に照らされた秋桜が、淡い光をまとい、やわらかな風に揺れている。
胸の奥に押し込めたままでは、もう息ができない気がしていた。賢哉と向き合っている時でさえ、速水のことを考えてしまう自分がいる。
母に触れる彼の真剣な横顔。時折見せる、少年のような笑顔が、これまでと変わらない賢哉との日常の中で、味噌汁を口に運びながら、今日のリハビリの様子を思い出している。
全ては母のため。
そう言い訳しながら、心のどこかで速水の「美味しいです」という言葉を期待していた自分がいる。
結婚してからというもの、大きな不満があるわけでもない。穏やかで、安定した日々。
それなのに私は、夫がいながら別の男性を思い浮かべている。
最低だ。
こんな感情、持ってはいけない。母のことで手一杯なはずなのに。妻として、娘として、ちゃんとやらなければいけないのに。
——許せない。
速水を好きになったことよりも、夫の隣で、夫ではない人を想っている自分が。だから終わらせなければならないと思った。
この気持ちは、ちゃんと拒絶されて、砕けて、消えてしまえばいい。
そうすれば、また元の場所に戻れる。妻としての私に。
そうでなく胸に押し込めたままでは、自分を軽蔑し続けてしまう。
だから——。
告白は、恋を実らせるためではなく、この醜い感情に終止符を打つためだった。
でも…… 誰が見ているかもわからない病院という場所、そして限られた面会時間。そもそも、彼は母の担当療法士だ。
そんな状況で告白など、常識的に考えればどの理由も、あり得ないのはわかっている。今日もまた、何も言わずに帰るはずだった。
なのに、神に試されているのだろうか。
現実は残酷にも、夜気とともに速水を私の前へ連れてきた。
「三浦さんもお帰りなんですね」
どこからともなく現れ、そこに速水が立っていた。目が合った瞬間、やわらかく緩む口元。
——今しかない。
考えるより先に、言葉がこぼれた。
「速水さん、あの……あのね、大事なお話が……」
自分の鼓動だけが、やけに大きく響く。
静かで、それでいて激しい脈打ち。足先が痺れるような感覚。世界が少し遠のいている。
一方の速水は、先日リハビリのことで注意をしたばかりなのか、少し硬い表情でこちらを見ていた。
「あのね、私……ありえないんだけど……その……」
喉まで出かかった言葉が、あと一歩のところで引き返す。
「僕、なんでも聞きますから。何でも言ってください」
その誠実さが、かえって苦しい。
言っていいことと、いけないことの分別くらい、わかっている。だから抑えてきたのに。
でも、もう限界だった。
彼は、これが自分にとって不都合な話かもしれないと察していながら、それでも受け止めようとしてくれている。その姿に、背中を押された。
「あのね……私……速水さんのことが、好きになっちゃったの」
とうとう、言ってしまった。恥ずかしさで彼の顔を見ることができない。
もしこれで担当を外されたら、困るのは母だ。
どうせ断られる。これで区切りをつけて、私は賢哉のもとへ心を戻せる。
虫の音が、静寂を満たすわずかな沈黙が、執着を削ぎ落としていく。
やがて、速水が口を開いた。
「別に、嫌じゃないですよ」
一瞬、耳を疑った。
何度も頭の中でその言葉を反芻する。
理解が追いつかない。思い描いていた未来は、もっと絶望的だったはずなのに。
「え……なんで? 嘘……。こんなに年齢だって離れているのに……どうして……?」
大胆な告白とは裏腹に、私の声は頼りない。霞がかかった思考の中で、必死に問いかける。
すると彼は、少し照れたように視線を逸らした。
「その……料理も、美味しくいただいていますし」
——料理?
リハビリのときに差し入れていた軽食のことだろうか。
あまりにも拍子抜けする理由に、思考が追いつかない。
料理が美味しいから?
それだけで、歳の離れた私を?
ふわふわと現実味のない感覚の中で、取り残された自分がいる。
区切りをつけたくて告白したのに。
年甲斐もなく若い人に惚れた女だと笑われても仕方がない。恥を忍んで求めたのは、せめて納得できる答えだった。それなのに——料理?
戸惑う私に、速水はぽつりと続けた。
「実は……妻が、子どもを連れて家を出ていってしまって」
「えっ……奥さんと子供がいたの?……」
俯いた横顔は、いつもの明るさを失っている。遠くを見る目が、寂しげだった。
その瞬間、熱を帯びていた感情がすっと冷え、思考が戻ってくる。
ちょうど信号が赤に変わり、足が止まる。
私は彼の顔をまっすぐ見つめた。
言葉にならない。出ていったから、私の告白を受け入れるというの?
でも、彼なら若くて綺麗な人がいくらでもいるはず、なのに。
——どうして、私、告白なんて。
疑問ばかりが浮かび、喜びは追いつかない。
けれど速水は、静かに続けた。
「だからといって、指導を変えるつもりはありません。このまま、ちゃんとお母さまを担当します」
その言葉を聞いたとき、胸に広がったのは恋の喜びではなく、安心感。女の私と娘である私が心の中でぶつかり合い葛藤していた。
好きだと言ったのは、私だ。
なのに安堵したのは、“リハビリが続く”という事実。
「誤解しないでくださいね」
速水は少し困ったように笑った。
「別に……告白を軽く受け取ったわけじゃないです。ただ、僕は今、誰かとどうこうなる資格がある立場でもないし」
その声は穏やかだったけれど、どこか自分を戒める硬さを含んでいた。
「でも、嫌じゃないっていうのは、本当です」
胸が、また脈打つ。
優しさなのか。
同情なのか。
孤独の隙間なのか。
それでも……“嫌じゃない”といった一言が、こんなにも救いになるなんて。
「……私ね」
夜気を吸い込む。
「区切りをつけたかったの。ちゃんと断られて、ちゃんと終わらせて、ちゃんと妻に戻ろうって」
言葉にして、ようやく気づく。
私は、戻る場所がある人間だ。
賢哉の顔が浮かぶ。
母の寝顔が浮かぶ。
それでも、目の前に立つこの人に惹かれた事実は消えない。
「でも、終わらなかった」
秋桜が揺れる。白い街灯に照らされて、淡く、でも確かに色づいている。
「僕も」
ぽつり、と速水が言った。
「終わらせるつもりで、ちゃんと距離を取ろうと思ってました」
心臓が止まりそうになる。
「年齢も、立場も、全部わかってます。でも……あなたがいる日は、少し楽しみだった」
静かな告白だった。
熱を帯びていないのに、深く沈む声。
激しくはない。けれど逃げ場のない、確かな真実。
私たちは、互いに一歩も近づいていない。
それなのに、もう十分すぎるほど近い。
交差点の信号が青に変わる。
「……今は、それだけで」
速水が言う。
「あなたはお母さんの娘でいてください。僕は、担当の理学療法士でいます」
それは、線を引く言葉。
でも同時に、切らないという選択でもあった。
歩き出した足元で、影が二つ並んで伸びていた。
地域や時代で変わる価値観に正しさはありますか?




