最終話 なんとなくの幸せ
「バッバ バッバ」
居間にヴォルフの興奮した声が響く。彼は、アーサーの膝に抱かれている。手をぶんぶんと振り回し、正面に座る紗良に笑顔を見せていた。
アーサーは、ひたすらヴォルフの頭の匂いを嗅ぎ続けている。三か月ぶりのヴォルフを満面の笑みで堪能していた。
――コトン
カイルが、アーサーの目の前にグラスを置いた。「どうぞっす」と小声で言いながらアーサーの様子を窺っている。
「どうした? カイル、少し会わないうちに、私の事を忘れてしまったか?」
顔を上げながらアーサーはいたずらな笑みを浮かべた。ブンブンと首を横に振ったカイルは、そそくさと紗良の隣に座った。
ジョバンニ、紗良、カイル、三人は横一列に並んでアーサーと向かい合っている。
紗良の目の前に置かれていたグラスには、お茶が半分だけ残っていた。それをぐいと飲み干して紗良が口を開いた。
「あ、あの、アーサー。えと、離縁をしたんですか?」
紗良が尋ねるとアーサーは、うんうんと頷きながら、
「正確には、王位を退いてから離縁されたということだな」
「王位を退いた……」
紗良が確かめるようにそう呟くとアーサーは、またうんうんと頷いた。
「そうだ。王位を私の腹違いの弟に譲った。王妃や側妃達には、私が王位を退いて平民となっても、彼女らが望むのであれば、一緒に島で暮らすこともできると伝えたのだが」
ふっと寂し気な笑みを浮かべて、
「平民となった私と一緒に生きようと思う者は、一人もいなかった。みな、私との離縁を望んだ。子どもたちも母親についていくと――。
何年も同じ城で暮らしてきたというのに、私達は、情のかけらも育むことはできなかった。あっけないものだったよ。弟への譲位と、離縁――王族からの離脱。私が何十年もかけて耐えて築き上げてきたはずの、すべてが、ものの数か月で終わってしまった」
ヴォルフの頭を撫でながらアーサーは、言葉を続けた。
「召喚士が言っておったのだ。今までこの国を豊かにするために、侍婆様や、母上を召喚してきたが、母上と私の愚かさで、この国の人々――特に、王城に生きる者たちの心はどんどん貧しくなっていったと。私たちは、番の恩恵を受けるに値しない人間に成り下がったと。
それを証拠に、もういくら番を召喚しても、その番に能力が発現しておらんだろうと言っての。
母上は、それは優秀な番を召喚できなかった召喚士の言い訳だと逆上して、彼を追放処分としたんだ。その処分前に彼が最後にした召喚が――紗良、おぬしじゃ」
紗良は、驚きながら自身を指さした。アーサーは、紗良を見つめてしっかりと頷いた。
いつの間にかうとうととしだしたヴォルフを抱き上げたアーサーは、彼を胸に抱きながら、ゆらゆらと体を揺すり、また話しだした。
「召喚士は、アレックスにだけ伝えたそうだ。紗良は、先代達のような能力は持っていないが、ヴォルフを幸せにする、人の心を豊かにする力はあると。
紗良は、表向きは、王族への当てつけのためにだけに召喚されたとしたが、母親を亡くしたヴォルフに寄り添えるのは、彼の心を癒せるのは紗良だけだからと、召喚士はアレックスにおぬしらを託したのだ」
アーサーの腕の中で、ヴォルフが獣化した。すやすやと寝息を立てる子狼をそっと自身の膝の上に寝かせたアーサーは、彼を見つめたまま話し続けた。
「私は、アレックスから聞いた彼の言葉に怒りが沸いての。私は、この国を豊かにするために自分を押し殺して生きてきた。
番を召喚し、国を安定させるために王妃や側妃を娶り、愛するレイラにつらい思いをさせ、挙句に死なせてしまった。
そこまでして国のために尽くしてきた私の心が貧しいとはどういうことかと、結果を残してきたはずの母親まで番失格とされ、ずっと不満に思っておった。それを見兼ねたアレックスがの、実際に島に行って紗良に会ってきてはどうかと提案してくれての。そうしたら召喚士の真意がわかると――。
半信半疑で来てみたが、ここは、本当に何もなくてすべてが古びていて貧しくて、城の生活とは正反対の暮らしぶりであった」
アーサーは、顔を上げた。懐かしそうに目を細めながら隅々まで居間を見渡した彼は、
「しかしな、不便ばかりのこの島で、おぬしらと生活を共にしているうちにわかってきたのだ。これが、幸せというものなのだなと。
お尻拭きの葉っぱを必死で育てたり、果実酒や食事を取り合ったり、便所紙でトランプを作って遊んだり、愚痴を言い合ったり、動けなくなるまで夢中で外で遊んだり、すべての出来事が私の心を満たしていった。
私と母の考えは間違っていたのだと――ここで暮らすおぬしらの笑顔に思い知らされた。
それで、この間違いを正さねばと思ったのだ。私が母上に背いてこの失態を正すためにできることは、母上に従うだけだった私と違って、母上の考えに疑問を持ち、母上の番を過剰に重んじる政策に異を唱えた唯一の人物である弟に王位を渡す事だった。だから、それを実行するために城に戻っていたのだ」
話し終えたアーサーに紗良は、不満そうにして頬を膨らませた。
「それにしても、三か月ですよ。どれだけ心配したか。黙って出て行くなんて――」
紗良はニヤリと口角を上げて「暴走し過ぎです」と、腕を組んで見せた。
「すまなかった。今度は、暴走せずに、おぬしらに相談する」
アーサーは、いたずらな笑みを浮かべながら肩を縮こまらせた。
アーサーのすっきりとした雰囲気に安堵の表情を浮かべた紗良は、
「あ、相談もそうですけど、その他にも、冬にどうやって海を渡ったのかとか、アレックスは今どうしてるのかとか、私の能力って虫歯を治したのは何だったのかとか――ヴォルフの今の立場とか、この島に住み続けていいのかとか、ほんっとうに聞きたいことがたくさんで、多分、今、聞けることは聞いておいた方がいいんだと思うんですけど」
――ぐぅううう
「お前、この状況で――」
ジョバンニが驚いた様子で口を開いた。
紗良は、へへへと笑みを浮かべながら腹を擦った。
――ぐぐぐぅううう
「そうだな。私も朝から何も食べていなかったから、話の続きをする前に、とりあえず何かつまみたいの」
紗良とアーサー、二人の腹の音を聞いたカイルが笑顔で立ち上がった。
「すぐにご飯準備するっす。今日は――ちんぴらうどんっす」
初めて聞くカイルの言葉に、アーサーが目を輝かせた。
「うどんとは、ちんぴら丼よりうまいのか?!」
「ふふふ。新作です。うどんもすっごく美味しいですよ。すぐできるので、ちょっと待ってて下さいね」
紗良が言って立ち上がる。カイルの後を追って足早に居間を後にした。
「新作か、楽しみだの」
紗良たちの背中に嬉しそうに呟いたアーサーに、ジョバンニがおずおずと手を上げながら尋ねた。
「あの、一つだけ聞いても良いですか?」
「どうした?」
「あの、紗良は、紗良はそのまま番のまま、その新しい王様とか、王妃様とか先代様に何かされることなく、その、安全にこのまま暮らせるんでしょうか? ヴォルフも、この島で、俺らと一緒に暮らし続けても大丈夫なんでしょうか?」
不安げな表情で尋ねるジョバンニ。
アーサーは、彼の紗良達を心配する様子に、心底幸せそうな表情を浮かべながら、
「ああ、大丈夫だ。すべて解決してきた。紗良もヴォルフもカイルもジョバンニ、おぬしもみな今まで通り一緒に暮らせる」
アーサーの言葉にジョバンニは、肩の力を抜いた。へにゃりと笑みを浮かべたジョバンニは、
――ぐぅううう
腹の音を響かせた。
ジョバンニの腹の音にアーサーが「おぬしもか」と嬉しそうに笑顔を浮かべた。
その後、湯気立つちんぴらうどんをはふはふと啜り満腹になった紗良達は、すやすやと眠る子狼の周りに寝転がった。
彼の無垢な寝顔を眺めながら紗良達は、話の続きもせずに、ただただ今ある幸せに感謝した――。
――――十年後。
「クソババアーーー!!!!」
ヴォルフが思春期を迎えた。
第一部完
長くなってしまいましたが、これで第一部を完結といたします。
今まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
※第二部連載を開始しました!




