第五十一話 父の帰還
「お前、また、ここにいたのか」
紗良の背中にジョバンニが声をかけた。やれやれといった様子で紗良の隣に腰を下ろす。
紗良は、流木に背をあずけながら海向こうの王城を眺めていた。
彼女の腕の中では、ひとまわり大きくなった子狼が丸まっている。時折訪れる柔らかな潮風に鼻だけをひくひくとさせ、彼は、昼寝をしていた。
ジョバンニは、子狼の体を撫でながら、
「今日もこねぇよ」
「うん。でもね。もしかしたら――」
「そう言い続けてもう三か月だろ」
ジョバンニが眺める王城の周りには、緑が生い茂っていた。
「ま、王様ってのはな、多分だけど、気まぐれなんだよ。冬にこの海は渡れないとか何とか言って、島に居座って、で、ヴォルフと楽しんで、それで、また、戻ったんだよ。一時だけのお戯れだよ」
「――でも、実際に渡れなかったじゃない。アーサー達が乗ってきたボート、あなたとカイルで直して、あなた、海を渡ろうとしたじゃない。あの寒い日に」
言って紗良は、ふふふと笑みをもらした。
「あなた、半纏をずぶぬれにして『こんなん渡れるはずねぇだろ。馬鹿じゃねぇの?!』って、必死でこっちに戻ってきたわね」
思い出しながら楽しそうに話す紗良に、ジョバンニは口を尖らせた。
「お前、相当性格わりぃぞ。さっきまで、しょんぼりしながら王城を見てたのに、俺が遭難しそうになったのを思い出して、一気に機嫌よくなるって――どういうことだよ」
ジョバンニは、頭の後ろで手を組んだ。空を見上げる。
小さな雲がぽつぽつと浮かぶ薄青色の空を眺めながら、
「ま、もしかしたら、冬限定でこっちに来るって、そう言うことにしたのかも知れねぇし……とりあえず、米作ったり、干し肉作ったり、あいつのことは隅に置いて、ま、俺らは俺らで、カイルとこいつと、お前で――楽しもうぜ」
ジョバンニは、大きく息を吸い込んだ。目を瞑りゆっくりと息を吐きだす。口角を上げたまま気持ちよさそうに、その体を流木に預けた。
紗良は、ジョバンニの横顔を見ながら、
「そうね。確かに、冬限定でも、夏限定でも、いつかは来てくれるわよね。お戯れでも、なんでも、アーサーなら、きっと――」
空を仰ぎながら紗良も大きく息を吸った。潮の香りを胸いっぱいに吸いこんで、
「さ、塔に戻りましょ。アーサーが次にこっちに来るまでに、ヴォルフにはあんよを攻略してもらわないと、とりあえず、伝い歩きの速度上げからね」
紗良は、すくっと立ち上がった。腕の中の子狼が「キャン」と元気よく声を上げた。
白い歯を出しながらはっはと紗良を見上げている。紗良は、子狼に柔らかな笑みを浮かべながら、
「そっか、そっか。ヴォルフも、あんよを攻略したいか」
嬉しそうに目を細めて彼の頬を撫でた。
早速塔へと帰ろうとする紗良に、ジョバンニが、不満げに言った。
「もうかよ。せっかく気持ちよくて、昼寝でもしようかなって思ったのに」
「ここにいるなって言ったのは、あなたでしょ。もう、なんなのよ――」
まだ、いかねぇよ背を向けるジョバンニに、ため息を吐いた紗良は「あ」と思い出しながら、
「そうだ。そういえば、今日のおやつ確か、いももちの磯辺焼きだって、カイルが――」
紗良が言い終えるや否や、ジョバンニはすくっと立ち上がって駆け出した。
「あの子、どんだけ、日本食が好きなのよ」
紗良は、ジョバンニの背中を見ながら苦笑した――。
「――ジョバンニさん、俺の分も食うっすか?」
カイルが、おずおずと小皿を差し出した。紗良が、それを制する。
「カイル、あなたも、いももち好きじゃない。いいのよ。自分の分は、自分で食べなさい。私のも食べる?」
紗良は、箸でいももちを摘まんだ。ごくりといももちを飲み込んだジョバンニが、ニヤニヤとしながら口を開いた。
「このくだり、めっちゃくちゃ覚えがあるわ。クリスマスのカツ丼の時もお前、カイルにカツ丼を譲ってたよな。『私は、大丈夫よ』とか言ってさ。お前、またお腹がぐぅうとか鳴るんだろ?」
「なっ。あなた、そんな些末なこと――よく覚えてたわね。
はっはーん、そっか、ジョバンニ、あなた、私には、私の事をあなたが苦しんでるのを楽しむサイコパスみたいに言ってたけど。
あなただって私のおならや、お便秘や、お下痢、お腹のことをすべて詳細に覚えてて、それでそれを楽しそうに暴露してるじゃない、あなたも、相当な悪玉よ?」
カイルが慌てた様子でヴォルフの耳を塞いだ。
「紗良さん、だめっす。お便秘もお下痢もヴォルフ、覚えちゃうっす。ヴォルフ、もう『クソ』って言ってお便所を見るようになったっす。喋れなくてもわかるっす」
カイルの言葉に、紗良がやばいと口に手を当てた。
「ほほほ。そうね、ごめんなさいね。確かに、そうだったわ。家族の決まり事に追加したんだったわね。乱暴な言葉も、お下品な言葉も使わない――」
紗良が言い終える前に、ヴォルフが「バッバ!!」と大きな声を上げた。
素早く獣化した子狼は紗良たちをすり抜けて居間を飛び出した。
「ヴォルフ!! 危ない! どこ行くの!!」
塔を飛び出しながら叫ぶ紗良。彼女の渾身の叫びは、しかし、夢中で走り続ける子狼には届かなかった。
一目散に浜辺へと向かう子狼の後をカイルとジョバンニが追う。
紗良は、小さくなる彼らの後姿を必死に追った――。
「紗良さん、あれ――」
子狼を抱いたカイルが海の方を指さした。子狼を追って来た三人は、浜辺にたどり着いた。
紗良は、ぜぇぜぇと肩で息をしながら苦しそうにカイルが指す方向を見やった。
彼らの視線の先には、王城が聳え立っている。その手前の水面に、小さな茶色の点が浮かんでいた。
高速でこちらに向かってくるそれは、すぐにボートと判るほどの大きさになり、
「おーーーい!!! 元気にしておったかー!」
男性の元気な叫び声がした。ぶんぶんと大きく手を振る人物に、
「アーサー? うそ……」
呆然としている三人。子狼だけが尻尾をぶんぶんと振ってキャンと答えた。
子狼の鳴き声を聞いたアーサーが、また、嬉しそうに手を振り回し、
「ヴォルフ―!!! 父は、帰ってきたぞー!」
はち切れんばかりの笑顔で叫んでいるアーサー。
彼の言葉に、紗良は呆然としたまま、呟いた。
「帰ってきた? え? お戯れは? 帰るって、お城は?」
ジョバンニも唖然としている。カイルは、子狼が彼の腕の中で降ろせと暴れているのを必死に抑えていた。
呆然と立ち尽くしている紗良を認めたアーサーが、紗良に満面の笑みで叫んだ。
「紗良ー!! 何カ月も留守にしてすまなかったーー!!」
両手を口に当ててアーサーは、叫び続けた。
「王妃と、みなと――離縁したー!!」
大きく息を吸って胸を膨らませたアーサーは、
「王様、やめてきたーーー!!」
彼の声が、穏やかな春の海に響き渡った。
アーサーの言葉に、紗良たちは言葉を失った。
カイルの腕の中の子狼だけが、アーサーに「アゥオーン」と吠えて答えた――。
明日(7月5日)第一部、最終回です。




