第六十二話 第一歩
レインは紅茶を片手に、壁際に置かれていた椅子に腰掛けていた。
わたしはその横に座り、隣に顔を向ける。
「楽しんでる?」
レインは会場に目を向けていたようで、わたしに視線を合わせると、ふっと笑った。
「うん、楽しんでるよ。お酒があればもっと、もっっっと楽しいんだけどなあー!」
「急に大声出さないでよ。お酒、出す?」
「……使用人は?」
「意識を落とすのに長けてるのを連れてくるわ」
「じゃあ遠慮しとくね」
「本当、あんたってやつは……」
思わず苦笑が浮かんでしまう。
するとレインはそれを見て、楽しそうに笑っていた。
人の顔を見て笑うとは何事か。
「ちょっと、笑わないでよ」
「違うよ。ただ、思うところがあってね」
そう言ったレインの目はわたしを見ていた。……いや、わたしを通して“誰か”を見ていた、の方が正しいだろうか。
しかしすぐに焦点はわたしに戻ってくる。
「誰を見ていたの」、なんて聞く勇気は、まだなかった。
「あやめちゃんさ」
「なによ」
「前と比べて、よく笑うようになったね」
そう言われて、過去を思い出してみる。
確かにレインに出会った当初は笑った記憶が殆どない。だが、最近はどうだろう。
思わず頬を摘む。表情筋が、少し柔らかくなった気がする。
「……わたし、笑ってた?」
「笑ってるよ。綺麗にね」
「あら、褒め言葉がお上手だこと」
「本心なんだけどなあ」
「日頃の行いね」
「日頃……? 僕は真面目に仕事に取り組んでる社会人なんだけど……?」
「それ、本気で言ってるなら本日二度目の拳が飛ぶわよ」
「残念ながら、滅茶苦茶本気だよ」
「…………えぇ?」
あのぐうたらで、すぐ部屋を汚しては片付けの為だけにわたしを呼び出して、仕事をサボりすぎて納期まで間に合わないからってわたしを酷使する、アレで?
怒りよりも呆れの方が先に来てしまい、握っていた拳から力が緩むのを感じた。
「ま、楽しんでるならよかったわ」
「もちろんだとも。すっごく楽しいよ」
――踏み込むなら、今だ。
「……ねぇ、レイン」
「なんだい?」
「あんたに、聞きたいことがあるの。わたしの、曾おばあちゃんのこと」
そう言うと、レインをまとう空気が変わった。
いつも丸く、やわらかな空気をまとうレインに、悲哀が混ざったのだ。
「……ここで聞く話じゃないわね」
「……うん。そうしてくれると助かるな」
レインは手に持っていた紅茶を飲み干すと、逃げるように椅子から立ち上がった。
「――いつか、話してくれるの?」
曾祖母について聞きたいのは確かだ。彼女のことを知っているのはレインのみ。
いつか、彼の口から語られることはあるのだろうか。
一抹の不安を覚えていると、レインはわたしの前に立って、ひと房の髪を掬った。
「ああ、話すよ。その時になればね」
その目は、嘘をついていなかった。
レインは立ち去る前に一言、「それまで髪の毛を伸ばしてくれると嬉しいな」とだけ言い残した。
……髪、伸ばしてみようかしら。きっと、曾おばあちゃんに関係することだろうから。
そうして今度こそ、小さな誕生日会はお開きになった。
ドレスも脱いで、髪も解いて、メイクも落として、お風呂に入って完全にオフモード。
しかしどうやらタコ助のスイッチは入りっぱなしのようだ。特に、最後に演奏した『きらきら星変奏曲』に対して。
「『きらきら星』って更に上があったんですね!」
「上というか……まぁ、そうね。タコ助からしたらそう見えるかしら」
今にも「楽器を吹きたい」とウズウズしているタコ助の蝶ネクタイを外し、それを机の上に置く。
そしてその隣にあるサイドテーブルに置いてあった、フルートを手に取った。
それにタコ助は目を輝かせる。
「師匠、まさか……!」
彼の言葉を遮るように、わたしは言葉を重ねた。
「練習するわよ」
「! はいっ!」
と、その前に。
「タコ助あんた、『ハッピーバースデー』を吹いてみなさい」
「えっ?」
目を丸くするタコ助に向かって、にっと笑う。
「あんた、沢山練習してきたでしょ? わたしの為に、吹いてみなさい」
「……わかりました!」
意を決したように、タコ助は吹き口に口付ける。
そうして流れたのは、ゆっくりとした、拙い『ハッピーバースデー』。
決してわたしや皇先輩のように上手なわけではない。
けれどタコ助の音楽は、とても、心の安らぐような、そんな音色だった。
わたしはゆっくりと目を閉じる。
そんな拙くも優しい、暖かな音色を聞きながら。
――ああ、今年の誕生日は、随分と楽しかった。
また来年も、こうだといいのに。
そうしてわたしはタコ助の演奏を聞きながら、三か月ぶりにフルートに手を伸ばした。




