第三十五話 恋模様、晴れのち曇り
「柿﨑」
それは花園先輩だった。
タコ助に対して指輪に戻るように伝えたいが、声を出すには花園先輩との距離が近すぎる。行動で示すには何もない空間に対して何かをする不審者になる。
仕方なくタコ助をそのままに、立ち上がって花園先輩と向き合った。
「こんばんは、花園先輩」
「うん」
「どうしたんですか?」
「聞きに来た」
……何を?
「フルート。楽しみにしてた」
「えっ」
思わず顔が赤くなるのを感じる。
率直に求められ、なんて言葉を返したらいいかわからない。
わたわたしているわたしを見て不思議そうに首を傾げる花園先輩。そんな顔をしたって騙されないんだから……ッ! なにに?
心の中でもう一人の自分とコントしていると、花園先輩は悲しげな顔をして「邪魔だったか」と。
……ずるすぎる!
「邪魔じゃないです! 花園先輩に聞いてもらえるの嬉しいです!」
「! そうか」
今度はふにゃりと笑って安堵の表情。
この人、モデルだけじゃなくて俳優もいけるんじゃないだろうか。年齢的には子役だろうけど。
と、まぁ。おふざけはここまでにして。
さてどうしたものか。
とりあえず花園先輩はわたしの顔を見ているのをいいことに、真っ白な肌を赤らめてキャア! と喚いているタコ助は足の間に挟み込んでグリグリの刑に処した。
下から「ゆるしてくださいししょぉ〜!」と情けない声がするが、知ったものか。
フルートを聞かせると豪語したはいいものの、どうするか。何か演奏でもしたらいいのだろうが、問題は選曲。わたしが吹けて、かつ、花園先輩も知っているような曲。
この人は冷たい印象があるけれど、意外とぼーっとしたのんびり屋の部分もある。でも流石芸能人と言ったところか、流行には遅れない。
なら最近の曲ではなくて、広く知られているような有名な曲にした方がいいだろう。いや、知らなくてもいい。『どこかで聞いたことある』程度でも人間の意識は釘付けにされる。
……よし。決めた。
「こほん。今から演奏しますのは、エドワード・エルガーによって作られた『愛の挨拶』。花園先輩は知ってますか?」
「知らない」
「……た、多分聞いたらわかります。多分」
「わかった」
そう言ってわたしの座っていた石畳のすぐ横に腰かける。
どうしよう、意外と緊張してきたかも。
だって、わたしの音楽を『楽しみにしてた』なんて初めて言われたものだから。
ほんの少し震える手でフルートを持つ。
……けれど、わたしは演奏家。
今まで練習してきたのなら、少しの失敗も許されない。
リッププレートに下唇を乗せ、息を吹いた。
……まずい、息が足りなかった。ここはもっと強く吹くはずだったのに。
思考が乱れる。音楽に意識が“持っていかれない”。
失敗した、失敗した、失敗した!
けれど、反省はあとだ。
わたしは曲が終わるまで、ひたすらに演奏し続けた。
最後の一音が終わって少ししてから唇を離す。すると、左右からパチパチと音が聞こえてきた。
片方は花園先輩。もう片方はタコ助。
花園先輩に、タコ助に、半端な音楽を聴かせてしまった。最悪だ、最悪だ……!
ひとり自己嫌悪に陥るわたしを知ってか知らずか、花園先輩は立ち上がってわたしの頭を撫でた。
「……えっ?」
反射的に顔を上げると、花園先輩の耽美な顔が目に映る。月明かりに照らされて、アルビノ特有の真っ白な髪がキラキラと光っていた。
「すごく上手だった。聞かせてくれてありがとう」
また、真っ直ぐな言葉。
きっとこれはこの人の本心なのだろう。
……こんなにはっきりと伝えられたら、受け入れざるを得ないじゃないか。
「……こちら、こそ……ありがとう、ございます……っ……」
「どうして泣く? 柿﨑?」
「いえっ……うれし、涙です……っ……!」
花園先輩の大きくて滑らかな手がわたしの涙を掬う。まるでおもちゃを壊した子供のように慌てた顔をしていたものだから、わたしはつい笑ってしまった。
「はぁ……」
夜中。間接照明だけをつけた食堂で一人たそがれる。
というのも、先程の演奏が原因で眠れないのだ。
花園先輩とタコ助の前で流した涙。あれは嬉し涙と言ったが、ある意味嘘でもある。
本当は悔し涙だ。確かに花園先輩の言葉に嬉しくなった自分もいた。けれどそれ以上に、自分の心情を謳ったような情けない音楽に腹が立って、そんなことすら隠せない自分が情けなくて、悔しくて、涙が出た。
音楽で泣くなんて、初めてだった。
天才は孤独だ、なんてよく言ったものだと思う。
間違ってはいないのだろう。自分の考えが理解されない、他者の考えが理解できない。わたしもそうだ。
楽譜が読めない? そんなことない。書いてある通りだ。
指が動かない? そんなことない。思った通りに動かせばいい。
どうしてお前に勝てない? 知ったこっちゃない。あなたよりわたしの方が上手かった。それだけ。
今までずっと、そんな考えだった。
それは今も変わらない。
けれど今日、初めて求められた。楽しみにしてると言われた。それに応えられなかった。
だから、わたしは悔しい。悔しくて、悔しくて、何もかも投げ出したくなった。穴に入りたくなった。でも、しなかった。
だって花園先輩が、「聞かせてくれてありがとう」と言ってくれたから。
あの後はタコ助だって「すごく、すっごく綺麗な音色でした!」と言ってくれた。わたしはその丸い頭をぽむぽむと叩いて、明日からも練習頑張ろう、と伝えた。
わたしは音楽の天才らしい。
けれど、わたしは一人ではない。
求めて、聞いてくれる人がいる。
共に成長してくれる人がいる。
――もうあの頃みたいに、一人である必要なんてないのだ。
そんなことを考えて、再び流れてきた涙を拭う。
すると、ギィ、と音を立てて食堂の扉が開かれた。
「……水森?」
夜間の侵入者、水森は眠たげな目を擦ってこっちへ寄ってくる。
「かきざきさん? ふあぁ……どぉしたんですか、こんなじかんに……」
「それはこっちのセリフなんだけど……」
「ぼくは、のどかわいちゃって……」
「お茶持ってくるから、座ってなさい。フラフラして危ない」
「はぁい……」
素直に従った水森はわたしの前の席に座ると、そのままガクンと首をもたげた。そうすると目が覚めたのか、先程よりも目を開いている。
水森の前に麦茶の入ったコップを置き、わたしも席に着いた。
「ありがとうございます……ぷはぁ、生き返るぅ……」
「ふふ、おじさんくさい」
「お、おじさんっ⁉︎」
「冗談よ」
「び、びっくりしたぁ……心臓に悪いですよぉ」
ほっと胸を撫で下ろす水森に眠気は見当たらない。
しかし何かを思い出したのか、突然苦い顔をしてしまった。
「どうしたの?」
「……いえ、その……」
煮え切らない態度の水森。
散々泣いてスッキリした気分のわたしには、それすらも待つ余裕があった。
迷った末に水森が言葉にしたのは、日中のこと。
「散歩……したじゃ、ないですか」
「え? ああ、うん。したわね」
「……その、星元と、何話してたんですか?」
……まさか、見られていたなんて。
いや、カブトムシに夢中になっていると思い込んでいたのはこっちだ。もしかしたら最初からこっちを見ていたのかもしれない。
それは置いといて、これはどう答えるのが正解だろうか。
「水森みたいに助けてほしいんだって」? 違う。勝手に他人の事情を晒すのはよくない。
「水森のこと話してたの」? 違う。内緒話、なんなら陰口のように聞こえる。
いっそ、全て黙ってしまうか。
「……ひ、秘密」
声が震えていたのは、バレていないだろうか。
水森は顔を顰めると、どこか傷付いた顔をして、席を立つ。
そしてそのままわたしの背後に回ると、顔を覗くように体を曲げた。
「俺には、言えないことですか」
いつもより低い、不機嫌そうなアルトボイスが鼓膜を揺さぶる。
「柿﨑さんはどうして、こんなにも俺を嫉妬させるんですか」
水森の瞳は揺れていた。
なんて返したらいいかわからないわたしの顔を見て、暫くしてから水森は「……すみません」と一言謝って、食堂を出て行った。
……嫉妬? 水森が?
それは誰に? わたしに? それとも、星元に?
突然向けられた言葉に困惑しながら、わたしは机の向かいに置かれたコップを見つめる。
麦茶はあと一口ほど、中に残っていた。




