第二十四話 二日目の朝
合宿二日目。全体の起床時間は七時だが、わたしは日課のランニングのために一時間早く起きていた。
ぐぅっと伸びをして、枕元で寝ているタコ助のために『ランニングに行ってくる』とメモを残してジャージに着替える。そっと部屋の扉を開ければ、当然の如くシンと静まり返っていた。
軋む階段をなんとか降りきり、外へ出る。夜とは違う朝の爽やかな空気を全身で浴びて、大きく深呼吸をしてからグラウンドを走り始めた。無線のイヤホンでお気に入りのJ-POPを聞きながら、一定のペースでランニングを続ける。
三十分くらい経った頃だろうか。二つの人影が合宿所の入り口から出てきた。
腰まである真っ白な髪をした花園先輩と、染めているであろう金髪の根元が地毛の黒に生え変わり始めている白亜先輩だった。
「おっ! おはよー蟹﨑! 朝から走り込みか⁉︎」
「はぁ、はぁ……っ、おはようございます……あと、柿﨑です……」
「あははっ! 悪い悪い!」
挨拶をしてくれた白亜先輩の後ろで、太ももまである長い髪を一つに括る花園先輩。
「お二人も、これから走り込みですか?」
「ああ。俺たちは一応レギュラーだけど、体力作りは欠かせないからな!」
太陽のように輝かしい笑顔で話しかけてくれる白亜先輩とは対照的に、無言でウォーミングアップをする花園先輩。
「白亜、早くアップしろ」
「わかってるって! んじゃ、蟹﨑も頑張れよな!」
「柿﨑です! っもう……」
アップを始めた白亜先輩を横目に、わたしはイヤホンを付け直してランニングを再開した。
設定していた七時のアラームが鳴る。それを皮切りにわたしは徐々にペースを落とし、やがて早歩き程度に遅めた。鳴り続けていたアラームを止めれば、背後から誰かの手が肩に回ってくる。
予想通り、白亜先輩だった。
「よっ! お疲れさん!」
「驚かせないでください、白亜先輩」
「ちっとも驚いてないくせにー。なぁ花園」
「……俺には関係がない」
二人はわたしよりも早いペースで走っていたにも関わらず、殆ど息を切らしていなかった。さすがは運動部、といったところだろう。
宿舎に戻りながらぺらぺらと話をする白亜先輩の言葉を聞く限り、二人は一年生の頃から同室で合宿のときには毎朝三十分早く起きてランニングを行うのが通例となっているらしい。
「お二人ともストイックですね」
「まーね! にしても、蟹﨑も相当じゃね? いつから走ってたの?」
「柿﨑です。わたしは六時から走ってました」
「へぇ、すげぇじゃん! マネージャーなのに健気だなぁ」
「いえ……わたしは別件で体力をつけてるだけなので」
「別件って、フルートのことか?」
今まで話を聞く一方だった花園先輩が突然声をかけてきた。
「な、なんで知って……」
「フルート?」
「……触れられたくない話題だったか」
「あ、いえ、そんなことはないですけど……」
花園先輩の言葉に昨晩のことを思い出す。気が付かないうちに見られていたのか、それとも聞こえていたのか。……いや、後者はないか、二十時から音を出していて花園先輩に聞こえていたなら、同室の白亜先輩も聞こえているはずだ。
「昨晩、ランニング中に偶然見かけてな。綺麗な音だった」
真っ直ぐに褒めてくれる花園先輩の言葉に反応できず、呆然としてしまう。直後にバシッと背中を叩かれ、意識が戻った。
「すげーじゃん蟹﨑! お前フルートできんのか!」
「柿﨑です」と訂正しながら、タコ助に聞かせるためとはいえあのゆっくりしたメロディを聞かれていたことが少し恥ずかしい。本当ならもっと難しい曲だって吹ける、と言い張りたいところだが、白亜先輩の迫力に押し負けて言えずじまいだった。
二人と宿舎に戻り、エントランスで別れる。二人はこのまま直接食堂に向かうようだった。
去り際に「今度俺にも聞かせてくれよなー!」と白亜先輩の声が聞こえてきたので、軽く会釈をして逃げるように階段を上った。
「……綺麗だった、か」
真っ直ぐな褒め言葉。
今まで促されるようにピアノや弦楽器をやってきて褒められることは多々あったが、初めて自分からやろうと思ったフルートを褒められて、感じたことのない小っ恥ずかしさが湧いてきた。
――もっと練習がんばろう。そう心に決めて部屋に戻ろうとした瞬間だった。階段を上りきって目の前の扉がガチャりと開く。思わず立ち止まると、寝癖で髪がボサボサの月城さんが出てきた。
「……?」
ぼーっとしているらしい月城さんはわたしが認識できていないのか、首を傾げている。もしかして、朝に弱いタイプなのか?
「おはようございます、月城さん」
声をかければ数秒経った後、ようやく気が付いたのかハッとした月城さんの顔が次第に赤くなっていく。
「お、おはよう、柿﨑さん。あー……その、これはだね……」
手櫛でなんとか髪を整えようとしているが中々整わない。どうやらくせ毛らしく、ぴょこんと跳ねている毛が何本か目立つ。
「見なかったことにするので、どうぞ洗面所へ行ってください」
「……ありがとう……」
真っ赤になりながらそそくさと髪を手でまとめて階段を降りていく月城さん。これはひとつ弱みを握れた気がする。……いつどのように作用できるかはわからないが。
一先ず部屋に戻り、ぐーすかと寝ているタコ助を揺すり起こす。
「タコ助、朝よ。起きなさい」
寝ぼけ眼で体を起こすタコ助に指輪に入るよう指示すれば、欠伸を噛み締めながら返事をしてするりと入ってくれる。それからボディーシートで汗を拭い、デオドラント剤で匂いを消す。
時刻は七時二十分。さっさと朝食を食べて今日の業務内容を聞こう、そう考えて駆けるように階段を降りた。
朝食はバイキング形式になっており、主食は白米かパンから選べ、主菜・副菜も様々な種類が用意されている。
わたしはクロワッサンを二個と海藻サラダ、それからヨーグルトを取って隅の席に座った。二つ向こうの列の席では白亜先輩と花園先輩が朝食を食べており、――主に白亜先輩の――話し声が聞こえてくる。
とにかく声の大きい白亜先輩は、今朝の天気がどうだとか昨日の夜に変な夢を見ただとか他愛もない話をしているが、話題の尽きない白亜先輩とそれに付き合っていける花園先輩の胆力に常々驚いた。
そういえば今朝のランニングでも白亜先輩が一方的に喋りながら走っていたな……なんて思いつつ、クロワッサンを一口サイズにちぎって口に入れる。
咀嚼する度に鼻腔を通ってバターの良い香りが広がっていく。……レインって本当に料理できたのね。掃除ができない時点で個人的にはマイナスだけれど。
朝食を食べていると徐々に人が増えていく。ちらりと扉の方を見れば、静島先輩が快野先輩を引き摺って来ている最中だった。またなにかやらかしたのだろうか、と思えばそうではなく、ただただ半分眠っている快野先輩を連れて来ているだけだった。
この二日間――二日目は始まったばかりだが――で、快野先輩に対する印象は「誰かしらに引き摺られている人」で固定された。
さっさと朝食を終えて食堂を出る。昨日のうちに追加された『六之江サッカー部』のメッセージグループから、「九時にグラウンドに集合すること」とメッセージが送られてきた。送り主は部長の月城さんだ。
時刻はまだ八時。なぎさに個人で九時までにやることがあるかと聞けば「特にない!」と返ってきたので、自室でタコ助の練習でも付き合ってやるか、と階段を登ろうとした瞬間だった。
「おっいたいた! 蟹﨑ー!」
「柿﨑です。なんですか白亜先輩」
振り返れば花園先輩を連れた白亜先輩がいた。
「今からまたランニングしに行くんだけどさ、お前も来ないか?」
「えっ、またですか?」
どれだけ体力おばけなんだ。
花園先輩の顔をちらりと見れば、飄々としていた。恐らく、これが白亜先輩の通常運転なのだろう。
そういえば昨日、ドリンクを渡す際も一番に走って来ていたな、なんて思い出す。
残念ながらわたしには、このあとに練習がある状況でランニングに付き合う体力はない。
せっかくのお誘いだが丁重にお断りさせていただき、部屋へ戻った。
指輪からタコ助を呼び出し、家から持ってきていたエネルギーバーを渡す。これはタコ助の食事代わりで、色々食べさせたのだがこれが一番気に入ったらしい。
早速ぼろぼろと零していく食べカスを拭い、八時五十分まで練習しようと言葉をかける。
「ふぁひ! がんはりまふ!」
「食べ終わってから喋りなさい」
もちもちの頭に優しくチョップを入れ、食べ終えるのを待つ。体長の三分の二ほどのエネルギーバーを二口で食べきってしまったタコ助は、すっかりやる気になりすぐさまトランペットを取り出す。
昨日は口頭で全て教えていたため、スマホで『きらきら星』の楽譜を表示して見せてみれば、全く読めないようで首――というか最早体の半分――を傾げていた。
……今日はまず、楽譜の読み方を教えることからだな。
時間はあっという間に過ぎ、スマホの画面を消してタコ助を指輪に戻す。急いで階段を降りて向かうが、グラウンドにはまだ三人ほどしか集まっていなかった。先にランニングをしていた白亜先輩と花園先輩、それから東だ。
「おっ、来たな蟹﨑!」
「柿﨑です。おはよう、東さん」
「おっおはよう、柿﨑さん!」
話しかけられると思っていなかったのか、飛び跳ねるように驚いた東に申し訳ない気持ちになる。
「あははっ! 東は相変わらず怖がりだな! 試合になるとあんなに頼もしいのに!」
試合。その言葉で思い出した。確か東はFWだったはずだが……この性格で攻撃的なポジションが務まるのだろうか。――いや、他人の性格で勝手に決めつけるのは失礼だ。考えを改めよう。
「あまり東を虐めないでください、白亜先輩」
聞いたことのない声がした。
昨日のうちに殆どの選手とは会話をしたはずだ。唯一声を聞いていない人といえば……。
「げ、静島。別に虐めてねぇってば〜」
ひらひらと手を振る白亜先輩を睨みつける静島先輩。口数は極端に少ないが、後輩想いの人なのだろう。
そして恐らくだが、わたしは静島先輩の『後輩』という枠に入っていない。一線置いた距離感がそれを示している。
……仕事に支障がなければ、わたしはどちらでも良いけれど。
そうこうしているうちに続々と人が集まってくる。
相変わらず水森はわたしに懐いてくれているようで元気に挨拶をしてくれ、皇先輩は目が合った途端に逸らされた。星元と神風先輩とは軽い挨拶を交わし、なぎさとはおはようのハグをする。そして最後の快野先輩は朝食のクロワッサンを口に含みながら寝ぼけ眼で月城さんに引き摺られて来ていた。
今日のトレーニングメニューは、まずウォーミングアップとして走り込み。その後に二グループに分かれてリレーを行い休憩を挟み、実際にゲームを行うらしい。
わたしたちマネージャーはその間に昨日と同じようにドリンクとタオルを用意し、休憩時間に配り、終わったら昼食の準備に入るらしい。
月城さんの「始め!」の合図と共に選手一同は走り始めた。なぎさに宿舎に連れて行かれる直前に月城さんから「今朝のことは内密に……」としおしおした顔で釘を刺されたが、言いふらすつもりもないので素直に頷く。
なぎさにはニヤニヤ顔で何のことか問われたが、適当にはぐらかした。……そのはぐらかす行為が随分と大変だったのだが。




