第十四話 音楽の天才
「あの、師匠」
ピアノの椅子に腰掛けてぼーっとしていたわたしにタコ助が話しかけてくる。
「なに?」
「師匠って……もしかして、ですけど、音楽が嫌いだったり、しますか……?」
恐る恐る聞いてくるタコ助の表情は悲しみに満ちていた。わたしはそんなタコ助を持ち上げて膝に乗せる。答えは決まっている。
「嫌いじゃないよ。むしろ……大好き」
タコ助の丸い頭はもちもちしていて触り心地が良い。こんな手触りのクッションがあればいいなぁ、なんて考えようとするも、思考の半分以上は今日の会話で埋め尽くされていた。
……タコ助には話してもいいだろうか。
「……わたしさ、天才なんだって」
ぽつり、と話し始めたわたしの声に耳を傾けるタコ助。他の人には秘密よ、と念を押してからまた口を開く。
「小さい頃からうちにはピアノがあったの。興味本位で触れてみれば、両親には天才だって囃し立てられてさ。あっという間に先生がついてピアノのコンクールに出て、簡単に最優秀賞を取っちゃった。ただ楽譜をなぞって演奏してただけなのにね」
「講師はわたしの才能に気が付いたんだろうね。ピアノだけじゃなくてヴァイオリンもやってみないかって言われて、やってみたら簡単で、また賞を取った。そのまま弦楽器を全般やって、全部最優秀賞」
「両親はそりゃもう大喜びで、音楽の申し子だなんて言われた。でもわたしの心はからっぽで、ある時にもう音楽はやらない、なんて言って全部しまいこんだ」
そこまで語って、口を閉じる。本来は話すべきじゃなかったのかもしれない。こんな小さな子に、音楽が好きで、上手くなりたいと願って練習している子に。それでも、誰かに吐き出さずにはいられなかった。
ぎゅうっとタコ助を抱きしめて、ごめん、と呟く。
けれどタコ助はその小さな触手を伸ばして、わたしの目元に寄せた。――どうやらわたしは、泣いているようだった。
「師匠は、本当に音楽が大好きなんですね」
「……うん、好き。大好き」
「自分は師匠に話してもらえて嬉しかったです。これでもっと、師匠と向き合えますから」
「タコ助……」
タコ助はどこからか例の細長いトランペットを取り出して、にこりと笑う。
「師匠、練習、しましょう!」
その言葉に、ふっと肩の荷がおりた気がした。何年も積み重なっていた、重い重い、期待と切望。ああそうだ。わたしは今、一人で音楽をやっているわけじゃないんだ。
「……そうだね。練習、しようか」
立ち上がり、フルートを手に取る。
「師匠」
「なあに、タコ助」
「音楽って楽しいですね!」
「……そうだね」
わたしは知らず知らずのうちに、この小さな生き物に心を開いていたのかもしれない。
お互いの楽器はまだ綺麗な音色を奏でない。けれど、今のわたしには子守唄のように優しく、暖かな音色に聞こえた。
「やっ! 柿﨑あやめちゃん!」
「な……なんであんたがわたしの席に座ってんのよ!」
翌日、教室に行けば雷電がわたしの席に座っていた。
「温めておいたよっ」
「いらないわよ!」
悪意でもあるのかと思えば、全くの善意だったらしい。たまったものではない。
クラスメイトの視線がチクチクと刺さる。入学してから一ヶ月。なぎさと禍津と月城さん以外と大して話していないわたしは教室では浮いている方だろう。そんな中でこんな大声で叫べば変人の烙印すら押されてしまうかもしれない。
「んもー、先輩にそんな口の利き方はダメじゃない?」
「は? 先輩? あんたが?」
「六之江中学校三年三組、雷電光次郎ですっ! なんてね」
あまりにも堂々としすぎたふざけた行動をするものだから、てっきり同じ学年だと思い込んでいた。しかし先輩となると話が変わる。
「あ、う……っ! くっ……ど、退いて、ください……!」
「無理に敬語にしなくていいのに〜俺が許すよっ」
何なんだこの男。イライラが募っていくのを感じる。
「と、とにかく! そこに居られると座れないの! 自分の教室に戻りなさいよ!」
「あ〜これこれ。これが柿﨑あやめちゃんの素だもんね〜!」
「よくわかんないけどキモイからやめて!」
ぎゃいぎゃいと騒いでいれば、背後から影がかかる。
「うるせぇぞブス」
「なんですって⁉︎ っあ、禍津」
「俺の席の前で痴話喧嘩すんなよ」
「ご、ごめん……って痴話喧嘩じゃないわよ!」
「痴話喧嘩だって〜! 俺たち恋人に見えるのかなっ? ねっ!」
「ねっ、じゃないわ! ああもう、ムカつく〜!」
セットしてきた髪を掻きむしりそうになるのを必死に我慢しながら雷電と相対していれば、丁度いいタイミングでチャイムが鳴った。
「あっほら! チャイム鳴ったわよ! 帰りなさい!」
「やーだ。柿﨑あやめちゃんの側にいたいもんっ」
「中三が駄々をこねるんじゃないわよ! とりあえず退いて! このままじゃわたしまで先生に怒られるから!」
「良いじゃん良いじゃん、一緒に怒られちゃおっ」
「イ・ヤ・よ!」
このままじゃ埒が明かない。本当にどうしたものかと思考を巡らせていれば、思わぬところから助け舟が。
「おいアンタ、柿﨑が困ってんだろ。やめてやれよ」
声の主は禍津だった。彼の言葉を聞いた雷電はぴくりと眉を動かすと、また満面の笑みを浮かべる。
「ああきみ、ナイト様気取りの転校生くんじゃん! ま、いいや。これ以上居座るとマジで先生に怒られるし」
あまりにもあっさり身を引いたことに目を剥いていると、すれ違いざまに耳元で「また放課後にね」と囁かれる。会話しているときとは違う、少しばかし低い声にびくりと体を跳ねさせれば、雷電は笑いながら教室を出ていった。
とにかく棒立ちのままでいるわけにもいかないため席に着く。……温かいのが気持ち悪い……。
「なんだアイツ……お前の知り合いか?」
「……知らないわよ。昨日急に告白されたくらいで……」
「こッ⁉︎」
「?」
驚愕に満ちた表情でこちらを見てくる禍津。彼、意外と表情豊かなのね。
そうこうしているとようやく担任が教室に入ってくる。もう少し早く来てくれれば直接雷電を叱ってくれるかと思ったのに。
出席の点呼の順番を待っていると、隣からぼそりと「あの男も物好きだな」だなんて聞こえてきた。
……ホームルーム中じゃなかったらぶん殴ってたわ。確実に。
授業も終わり、放課後になる。
今日ほど来て欲しくない放課後はなかっただろう。
一、二年生の教室は二階。三年生の教室は三階にある。せめてなぎさが先に来てくれればどうにか……ならないか。人の恋路が大好きなこと以外は完璧な相性だと思っているんだけど。
「あやめ〜!」
噂をすればなんとやら。
「ね、ねっ、今日も駄菓子屋行く?」
「わたしは良いけど、修行は?」
「うっ……」
「昨日メッセで帰るのが遅いって怒られた〜って言ってたじゃん」
「そ、そうなんだけどぉ……」
いじいじと指先を遊ばせるなぎさ。
「はぁ……今日は真っ直ぐ帰ろ。またお父さんを怒らせると、それこそ修行倍になったりするんじゃない?」
「うぐぅっ、あ、ありえる……! うぅ、帰るかぁ……」
「せめて部活でも入れば逃げられるかなぁ」と呟いたなぎさの言葉を最後に、耳を塞ぐほどに大きな声が響いた。
「柿﨑あやめちゃーん! きみのプリンス様が来たよ!」
「呼んでないわよ! 帰って!」
反射的に叫んでしまったのを皮切りに、なぎさに詰め寄られる。
「あ、あの人誰⁉︎ あやめのプリンス様って言ってるけど⁉︎」
「これだからなぎさにだけはバレたくなかったのに……」
「なんで除け者にするの〜⁉︎ 良いじゃん良いじゃん! 褐色金髪のプリンス様!」
「良くない……」
至近距離で熱弁するなぎさを何とか手で押し返しながら、雷電へ顔を向ける。
雷電は突然目を合わせられて困惑でもしているのか、ぽっと頬を赤らめて頬をかきながら目を逸らしてしまった。……もしかして、本当に惚れられている?
しかしなぎさの目の前でそんな行動をされてしまうと、彼女は更に盛り上がってしまう。
「ね、ねぇあやめ! この人本当にあやめのこと好きじゃん⁉︎ もう反応がそうだよ! ああいうチャラそうな男の人が好きな子の一挙一動で心を動かされて不意に目が合うだけでも緊張して『ああ、好きだなぁ』って再確認する行動だよ!」
「わかった、わかったからもう黙って……」
一から全てを説明してくれるなぎさ。さっきまでこっちを見ていたというのに、背中に目でもついているのだろうか。
ガクガクと揺さぶられながら遠い目をしていると、また助け舟が。
「おい柿﨑、帰るぞ」
「え、あっ」
ぐいっと腕を引いたのは禍津。
反射的にカバンを持ったは良いものの、今度はその手を雷電に掴まれてしまう。
「離してくれるかな? ナイトくん。俺は柿﨑あやめちゃんに話があるんだけど」
「偶然だな。俺もコイツに話がある」
バチバチと火花でも散らしているように見つめ合う両者。なぎさに助けを求めるにも、雷電の後ろで両手を口に当ててキラキラした眼差しをこっちに向けてくるものだから役には立たなさそうだ。
頼むからわたしを挟んで喧嘩するのはやめてくれ……。そんな思いが届いたのか、先に折れたのは雷電だった。
「はぁ。仕方ないな……」
パッと手を離され、バランスを崩す。抱きとめてくれたのは禍津だった。
「あ、ありがとう……」
「……ん」
しかしそれでも逃がしてくれないのが雷電だ。
「じゃあさ、柿﨑あやめちゃん。一個だけ聞かせてよ」
「……なに?」
「もう、音楽はやらないのかい?」
その目はどこか悲しみが滲んでいた。見たことのない表情に言葉を詰まらせていると、禍津が腕を引く。
「行くぞ」
「あ、いや……ちょっと、待って」
わたしの言葉に不満を持ったのか、禍津の眉間に皺が寄る。
雷電に顔を向け、わたしは自分の心の内を話した。
「音楽は……やってる」
「! じゃあコンクールとか!」
「コンクールは出ない!」
自分でも驚くほどの大きな声が出た。ハッとして周りを見れば、帰りの支度をしていたクラスメイトたちの視線が突き刺さる。
「ぁ……」
その視線が、コンクールで賞を掻っ攫うわたしを見る他の参加者たちに似ていて、顔が青ざめていくのがわかった。
どうしよう。また、また、居場所がなくなる。
視線が定まらない。手が震える。雷電にも気付かれているだろう。
「行くぞ、柿﨑!」
――それを助けてくれたのは、また禍津だった。
今度こそ腕を引かれ、教室を出る。早足で階段を下り、下駄箱まで。
息を荒らげているわたしの腕を離した禍津は、小さく謝ってきた。
「……なんで、謝るの……」
「……あんな顔させるつもりなかったんだよ」
バツが悪そうに頭を搔く禍津の様子に、固まっていた表情が緩むのがわかった。
「謝んないでよ……助かった。ありがとう」
「……おう」
感謝され慣れていないのか、ほんのりと頬を赤らめている禍津の様子を見ると、どこか安心する。
「……またアイツに絡まれたら声かけろ。隣の席、だろ」
「! ……ふふ、うん。わかった」
禍津との会話はそこで終わった。あとは無言で靴を履き替えて、帰路を歩む。
確かに会話はなかったけれど、この空間が今はすごく落ち着いた。
家に帰ってから駄菓子屋に寄ることを思い出したが、今日は行く気分ではない。レインへ連絡を入れて、部屋でひたすらタコ助と楽器の練習をした。
偶然か、タコ助の細長いトランペットからようやくトランペットらしい音が一音だけ出た。他は未だに最悪だったが、明らかに成長していることがわかるとお互いを抱きしめ合って心から喜んだ。
今日は嫌なこともあったが、確かに良いこともあった。母にもそれが伝わったのか、夕食時に「嬉しそうね」と言われた。わたしは微笑んで答えた。
その日の夜、わたしの元に二つのメッセージが届いた。ひとつはなぎさ。どうやらお父さんの許可を得て部活動に入部することになったらしい。どの部に入るかは決めかねているが、なぎさのことだから修行を避けるためになるべく長い時間活動する部活動を選ぶだろう。
もう一方はレイン。内容は、今週の土日に店に来て欲しい、とのことだった。




