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物置令嬢の契約結婚~旦那様が健康になっていくのが楽しいだけだったのに、いつの間にか溺愛されています〜  作者: ばぅ @ネトコン受賞感謝


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私の、過去


 木々の葉が鮮やかな紅に染まる秋。

 帝都で最も華やかな社交場とされる『鳳雷館ほうらいかん』にて、陸軍主催の大規模な夜会が開かれることになった。私たちにとっては、婚姻を結んでから初めて、夫婦として公式の場へ出席する重要な機会である。


 夜会に向けて、私は深い瑠璃色るりいろの夜会用の着物を選んだ。上質な絹の袖には、控えめだが品のある銀糸で小さな花の刺繍が施されている。そして結い上げた黒髪には、母の形見である白蝶貝の櫛をそっと挿した。

 一方、私の隣に立つ冬真様は、目を見張るほど豪奢な白い軍礼装を身に纏っていた。逞しく広い肩を金糸の飾緒が横切り、引き締まった腰には儀礼用の軍刀をいている。以前の面影を残しながらも、その姿はまるで別人のようだった。余分な肉が落ちたことで際立つ、彫刻のように引き締まった頬と、すっと通った高い鼻筋。冷たいほどに澄んだ薄青い瞳は知性を湛え、丁寧に撫でつけられた銀灰色の髪が、純白の軍服によく映えている。


「行くぞ、千鶴」


「はい、旦那様」


 私たちが鳳雷館の豪奢な扉をくぐり、シャンデリアが眩く輝く広間へ足を踏み入れた瞬間だった。さざ波のように、会場全体にどよめきとざわめきが走った。


「あれは……誰だ?」


「まさか、久城伯爵家の……冬真殿か?」


「嘘だろう。あの白豚が、あんな見目麗しい貴公子に……?」


「隣にいる女性は?ひどく美しい」


「あれが噂の、新しく迎えられた千鶴夫人だろう」


 好奇と驚愕、そして感嘆の入り混じった無数の視線が一斉に私たちへ突き刺さる。慣れない空気に私がふっと息を呑むと、エスコートのために組んでいた冬真様の腕が、私を安心させるように力強く引き寄せられた。


「俯くな。お前は何も恥じることはない。胸を張って前を見ろ」


「……はい」


 その温かい声に背中を押され、私がゆっくりと顔を上げると、かつて冬真様の「白豚」という噂を信じて遠ざかっていた令嬢たちが、手のひらを返したように次々と近づいてきた。


「久城様、お久しぶりでございますわ。本当にお痩せになって……!」


「わたくし、以前から久城様はとても凛々しい方だと思っておりましたのよ」


 色めき立つ令嬢たちに取り囲まれても、冬真様は氷のように冷ややかな表情を崩さず、「あいにく、妻との時間を優先しておりますので」と短くあしらった。そして、すぐに私の方へ顔を向け、まるで宝物を扱うかのような甘い声音に変わった。


「千鶴、疲れていないか。喉が渇いたなら飲み物を持ってこさせよう。人が多いから、着物の裾を踏まれないように気をつけろ」


 次々と過保護な心配の言葉を並べる冬真様に、私は思わずふふっと笑ってしまった。


「旦那様、私は子どもではございませんよ。大丈夫ですわ」


「知っている。だが、心配なものは心配なんだ」


 そう言いながら、私を人波から守るように背に手を添えてくれる姿を見て、すり寄ってこようとした令嬢たちの顔が露骨に悔しげに曇っていった。


 しばらくして、冬真様が陸軍の将官からどうしてもと挨拶に呼ばれてしまった。「すぐに戻る。大人しく待っていてくれ」と言い残して離れていった彼を見送り、私は一人、広間の壁際に長くしつらえられた料理台へと足を進めた。


 私にとって、このような大規模な夜会に出席するのは初めてのことだった。

 豪奢な銀の燭台や、見事な白鳥の氷細工で飾られたテーブルの上には、これでもかというほどの贅を尽くした料理が所狭しと並べられている。


(これが夜会……なんというご馳走でしょう。これはぜひ、今後の旦那様のお食事の参考にしなければ)


 私は社交の場にいることも忘れ、いそいそと料理台の前に陣取った。そして、一つ一つの料理を食い入るように観察し始めた。


「これは……!」


 思わず感嘆の声が漏れた。目の前にあるのは、見事な塊のまま切り分けられた『仔牛のロースト』。表面はこんがりと香ばしい飴色に焼き上げられ、ナイフを入れられた断面からは、しっとりとした桜色の身と、艶やかな肉汁がじんわりと滲み出ている。

 かけられているソースは、芳醇な甘みを持つマデイラ酒に、何日も煮込んだであろう牛の出汁フォンドボーを煮詰めたものだろう。照明を反射してキラキラと輝くソースの香りが、鼻腔をくすぐって食欲を刺激する。


 その隣に並ぶのは、分厚い『真鯛のポワレ』。皮目がパリッと音を立てるほど香ばしく焼かれているのに、身はふっくらと雪のように白い。焦がしバターと爽やかなレモンの香りが漂い、散らされた緑の香草が目にも鮮やかだ。


(添えられている茸は……帝都の市場では見かけない、ひどく肉厚で香りの強い珍しい品種ね。一体どこから手に入れているのかしら!)


 色とりどりの野菜をコンソメで固めた宝石のようなゼリー寄せや、山のように積まれたフルーツのタルト。


(あの伊勢海老の鬼瓦焼きの火入れの具合、我が家の厨房でも再現できないかしら。ソースの隠し味はきっと……)


 周囲の令嬢たちが優雅にシャンパンを傾ける中、私一人だけが、頭の中で懸命に献立の算段を立てながら、食い入るようにご馳走の数々を見つめていた。


 そんな風に、すっかり料理の観察に夢中になっていたからだろう。背後にひっそりと忍び寄る、黒い影にまったく気がついていなかった。


「――お久しぶりね、お姉様」


 背後から、ひどく聞き覚えのある甲高い声が耳を打った。ビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、そこには真紅の着物に身を包み、扇子で口元を隠した異母妹が立っていた。


「美弥子、様……」


「ちょっと来なさいよ。家族だけの、大事な話があるの」


 そう言うなり、美弥子様は私の腕を強く掴んだ。将官たちと優雅に言葉を交わす冬真様の姿を遠目に睨みつける彼女の目は、信じられないものを見るような驚きと、ドロドロとした嫉妬の炎に燃えている。


 私が抵抗する間もなく、強引に連れていかれたのは、喧騒から離れた薄暗い回廊だった。人の気配が完全に消えた途端、美弥子様の取り繕っていた笑顔が醜く歪み、崩れ落ちた。


「どういうことよ!!あの方……あの『白豚』だったはずの男が、どうしてあんな素敵な方になっているの!」


「旦那様は、以前からとても素敵な方です」


「嘘よ!あんな姿ではなかったでしょう!ただの醜い肉の塊だったはずよ!」


「少し、お痩せになっただけです」


「少しどころではないわ!」


 激昂した美弥子様は、私の肩を乱暴に掴んで揺さぶった。


「ずるいわ……。お姉様、最初からこうなるって知っていたのでしょう。あんな美男子に化けるって知っていたから、嬉しそうに嫁いだのね!」


「いいえ、知りませんでした」


「だったら、今すぐ離縁しなさいよ!」


 あまりにも身勝手な要求に、私は静かに彼女を見つめ返した。


「……なぜですか」


「私が代わりに嫁いであげるわ。お姉様のような地味な女より、私の方がずっと久城様にふさわしいもの!」


「そうでしょうか」


「鏡をご覧なさいな!華やかさも、教養も、人脈も、すべて私の方が上よ。お姉様なんて、泥まみれで家事をするくらいしか取り柄がないじゃない!」


「ええ、そうかもしれませんね」


「なら――」


「ですが、離縁はいたしません」


 私の静かな、けれど断固たる拒絶に、美弥子様の顔からスッと表情が消えた。


「……何ですって?」


「嫌です、と申し上げました」


「物置育ちのお姉様が、この私に逆らうの!?」


 パァン!と、鋭い音が回廊に響き渡った。

 私の頬に、火の出るような痛みが走る。美弥子様の平手が、私の頬を思い切り打ち据えたのだ。じんじんと熱を持つ頬。口の中に微かに血の味が広がった。しかし、私は俯かなかった。


「いくら殴られても、私の心はもう屈しません。私はもう、あなたたち篝宮家の言うとおりにはいたしません」


「このっ……生意気な!」


 美弥子様がさらに顔を真っ赤にして手を振り上げた時、回廊の奥から怒声が響いた。


「千鶴、貴様!!」


 血相を変えた父と継母が足早に近づいてくる。美弥子様は「お父様ぁ!」と泣き真似をしながら父の背後へ逃げ込んだ。


「お前には心底失望したぞ、千鶴」


 父は私を睨みつけた。


「久城殿との縁談が、これほどの上物だと、なぜ実家に報告しなかった!」


「報告、とはどういうことでしょうか」


「あの方が、あれほど見栄えのする将来有望な男になると分かっていれば、お前などではなく、初めから美弥子を嫁がせたのだ!」


「……っ」


 実の父親の口から出たあまりにも非道な言葉に、私は耳を疑った。


「婚姻は、すでに成立しております。私は久城家の妻です」


「離縁すればよい!久城家との契約は、あくまで篝宮家が結んだものだ。嫁に出す娘を美弥子に変更する権利も、こちらにある!」


「そのような非常識な権利、あるはずがございません!」


「親に向かって口答えをするな!黙れ!」


 父が激昂し、私の腕を力任せに掴み上げた。そして、もう片方の手を高く振り上げる。


(あ……大人の男の力で殴られたら、ひとたまりもない)


 美弥子様の平手打ちとは違う。顔に消えない傷が残ってしまうかもしれない。


(せっかくの夜会のために、旦那様が綺麗に着飾ってくださったのに。申し訳ない……)


 私がギュッと目を瞑り、身を強張らせて痛みに耐えようとした、その瞬間だった。


「――私の妻から手を離せ」


 地獄の底から響くような、低く冷酷な声が回廊を震わせた。父の動きがピタリと止まる。そこには、氷のような怒気を放つ冬真様が立っていた。さらにその背後には、屈強な軍服姿の男が二人と、鳳雷館の警備員たちが控えている。


「く、久城殿……!なぜここに……」


「もう一度だけ言う。その汚い手を、今すぐ千鶴から離せ」


 軍の参謀としての圧倒的な殺気。震え上がった父は、慌てて私の腕から手を放した。冬真様はすぐさま私のそばへ歩み寄り、庇うように私を自分の大きな背中の後ろへ隠した。


「久城殿、どうか誤解なさらないでくださいませ」


 継母が進み出て、気味の悪い猫なで声を出した。


「私どもはただ、地味で無教養な千鶴には、名門伯爵家の奥方は荷が重いのではないかと心配しておりまして。その点、美弥子でしたら社交にも慣れておりますし、きっと久城殿の輝かしい未来のお役に立てるかと……」


 美弥子様が頬をほんのりと染め、わざとらしく恥じらうように俯いてみせた。


「久城様……。私でしたら、何の取り柄もない姉よりも、ずっとあなたを愛せますわ」


「……愛せるだと?」


 冬真様の声はひどく静かだった。だからこそ、恐ろしいほど冷たく響いた。


「私が醜いと嘲笑され、誰からも避けられていた頃に嫁いできたのは千鶴だ。周囲が蔑む中、外見に惑わされず、私の心を見てくれたのも千鶴だ。……私が外見を変え、地位を確立した途端に尻尾を振って現れたような薄情な女と、妻を取り替える理由がどこにある」


 絶対的な拒絶。美弥子様の目に、屈辱の涙が浮かんだ。


「何よ、私の方が……私の方が、ずっと美しいのに……!」


「それが何だ」


 冬真様は一言で切り捨てた。そして、私をさらに強く抱き寄せながら、鼻で笑うように言った。


「それに、お前より千鶴の方がよほど美しい。今日も男どもの視線から千鶴を隠すのに、どれほど苦労したと思っている」


(え……?)


 私は驚いて彼を見上げた。確かに、久城家に嫁いでから栄養のある食事を摂り、身なりを整えることができたおかげで、以前よりはマシな容姿になっているかもしれないが……。


 冬真様の切って捨てたような無慈悲な言い分に、美弥子様の顔が醜く歪む。

父が焦ったようにすり寄り、口を挟んだ。


「し、しかし久城殿!容姿はともかく、我が篝宮家と久城家は、今後も軍需品の取引など仕事上の付き合いが――」


「ああ、それも今日で終わりだ」


 冬真様が冷酷な目で顎をしゃくると、背後に控えていた軍人が無表情に一歩前へ出た。そして、腕に抱えていた分厚い革張りの書類束をバサリと広げた。


「篝宮家が経営難の穴埋めとして行ってきた架空売上の計上、ならびに偽会社三社を用いた循環取引の証拠書類です」


「なっ……!?」


 淡々と告げられた罪状に、父の顔からサッと血の気が引いた。


「な、何を馬鹿な!でっち上げだ!証拠などどこにある!」


「証拠なら山ほどある」


 喚く父を、冬真様は虫ケラでも見るような目で見下ろした。


「お前がトカゲの尻尾切りにしようとしていた大黒商会の番頭は、とうに憲兵隊が保護している。奴は、お前が主導した不正のすべてを自白し、裏帳簿も提出したぞ」


「あ、あいつ……裏切ったのか……っ!」


 決定的な証拠を突きつけられ、父は膝から崩れ落ちた。震える唇からは、もはや言い訳すら出てこない。

 すると、事態の深刻さに気づいた継母が、サッと青ざめた顔で父から距離を取り、すがりつくように弁明を始めた。


「あ、あなた……まさかそんな恐ろしい犯罪に手を染めていたなんて……!く、久城殿!私は何も知りません!すべてこの愚かな夫が勝手にやったことで――」


「白々しい」


 冬真様の氷のような声が、継母の言葉を鋭く切り裂いた。


「千鶴の実母の遺産を不当に奪い取り、着服したのはお前だろう、後妻殿」


「っ……!?」


「本来千鶴が相続するはずだった有価証券や信託財産を、偽造した委任状で次々と売却し、この女や娘の豪奢なドレス、宝石に化けさせた。その偽造書類の筆跡鑑定もすでに終わっている」


「ち、違います!私はただ、家計を助けようと……!」


「お前がもっと金を使いたいと喚くから、私が危ない橋を渡る羽目になったのだろうが!!」


 窮地に陥った父が血走った目で継母を怒鳴りつけた。


「あなたが事業に失敗して、莫大な借金を作るからでしょう!?そもそも千鶴を久城家に売り飛ばす計画だって、あなたが――」


「貴様、この期に及んで自分の罪を棚に上げる気か!!」


 互いの罪をなすりつけ合い、公衆の面前で醜く罵り合う両親。その見苦しい内部分裂を前にして、美弥子様はパニックを起こしたように頭を抱えて金切り声を上げた。


「ああっ、もうやめてよ!!お父様もお母様も最低!!私の輝かしい未来をどうしてくれるのよ!!」


 狂乱した美弥子様は、両親を突き飛ばすと、すがるような目で冬真様へと向き直った。


「く、久城様!私は何も知りませんわ!悪いのはすべてこの両親です!私は関係ありません、どうか私だけはお見逃しを……そうだわ、私を妻にしてください!犯罪者の娘となってしまう姉よりも、私の方が――」


「黙れ」


 冬真様は、まるで汚物でも見るかのような、底知れぬ嫌悪を込めた瞳で彼女をねめつけた。


「己の虚栄心のために千鶴を虐げ、罪が明るみに出れば見苦しく親を売り飛ばす。お前のような底意地の悪い女など、視界に入れるだけでも虫唾が走る」


「ひ、ひどい……っ」


 絶対的な拒絶と侮蔑の言葉に、美弥子様はついに言葉を失い、へたり込んで顔を覆った。


「諸々の違法行為については、参謀本部と警務局の取調室でたっぷりと絞らせてもらおうか」


「ま、待ってくれ久城殿!!」


 完全に退路を断たれた父は、床に這いつくばり、無様に冬真様の軍靴に縋り付こうとした。


「これが明るみに出れば、我が篝宮家は完全に破産してしまう!財産も、爵位も、今まで築き上げてきた何もかもを失うのだぞ!?頼む、義父である私をどうか見逃して――」


「自業自得だ。連れて行け」


 冬真様が冷酷に言い放つと同時に、警備員たちが父の両脇を強引に固め、床から引き剥がそうとした。


「やめろぉぉっ!離せ!!」


 引きずられそうになった父は、必死に手を伸ばし、今度は私に向かって喚き散らした。


「千鶴!助けてくれ千鶴!!お前からも久城殿に言ってくれ!私はお前の父親だろう!?家族を見殺しにする気か!!」


 その言葉に、私は静かに父を見下ろした。私を見る父の顔には、かつて私を物置へ追いやり、冷たい目で見下ろしていた時の威厳など微塵も残っていなかった。ただ己の保身のために、散々蔑んできた娘に涙を流して縋り付く、ひどく惨めで滑稽な姿だった。

 私は一歩前へ出ると、床でもがく父を静かに見下ろした。


「……父親、ですか」


 私の静かな声に、父がハッと顔を上げ、希望にすがるような目を向けた。


「支度金も持たせず、厄介払いのように私を久城家へ売り飛ばしたあの日。あなたは私に『二度と篝宮の敷居を跨ぐな』と仰いましたね」


「そ、それは……っ、言葉の綾だ!お前を立派な家に嫁がせるための親心で――」


「ええ。ですから、そのお言葉通り、私はあの家へ帰るつもりはありませんし、もう篝宮の娘に戻るつもりもございません」


 私は、怯える父の目を真っ直ぐに見据えた。


「今の私は、久城千鶴です。私の大切な家族は、今私の隣にいる旦那様だけ。――どうか、二度と私の名前を呼ばないでください、篝宮様」


 ピシャリと告げられた決別の言葉に、父は絶望に顔を歪め、もはや言葉にならない悲鳴を上げた。


「あ……ああ……っ」


 もはや抵抗する気力すら完全に失った父は、警備員たちに両脇を抱えられ、ズルズルと回廊の奥へと引きずられていく。


「いやよ!爵位を失うなんて!貧乏な生活なんて、絶対にいやぁぁっ!!」


 狂乱して泣き叫ぶ美弥子様も、真っ青な顔の継母も、容赦無く連行されていった。

 遠ざかる彼らの悲痛な叫び声が回廊に木霊したが、私はただ静かに、その無様な背中を見送っていた。最後まで怨嗟と絶望の籠もった目で私を睨んでいた彼らの姿を見ても、私の心には恐怖も、怒りも、一欠片の同情すらも湧かなかった。


(ああ……終わったのね)


 私を縛り付け、心を削り続けてきた暗く冷たい呪縛が、音を立てて崩れ去っていく。残ったのは、ただ、ひどく晴れやかで静かな心だけだった。


「千鶴」


 冬真様に呼ばれ、ゆっくりと顔を上げる。先ほどまで篝宮家の者たちを冷然と見据えていた薄青い瞳が、今はひどく痛ましげに揺れていた。


「頬が赤く腫れているじゃないか」


 冬真様の大きな手が、私の左頬へそっと伸びる。けれど、触れれば私が痛むと思ったのだろう。指先は、肌に届く直前でピタリと止まった。


「これは、たいしたものではございませんわ」


「たいしたことがないわけがあるか」


 低く押し殺した声。明らかな怒りを含んでいる。けれど、その怒りが私へ向けられたものではないことは、もう十分に分かっていた。


「遅くなって、すまなかった」


 冬真様は、悔しげにギュッと唇を噛んだ。


「私がもう少し早く来ていれば、お前にこんな傷を負わせずに済んだのに」


「いいえ、旦那様が謝ることではございません」


「いや、私がもっと早く気づくべきだったんだ」


 冬真様の視線が、腫れた頬から私の腕へ落ちる。父に力任せに掴まれた場所には、白い肌の上に赤い指の跡がくっきりと浮かび上がっていた。冬真様はその痣を見て、ギリッと奥歯を噛み締めた。


「あの……旦那様」


 私は、先ほどから気になっていたことを尋ねた。


「どうして私の実家のことを?お仕事でお調べになっていたのですか?」


「あの散歩の日から、お前の過去が気になっていた」


「散歩の日……」


 庭の梅が咲き始めていた頃のことだ。なぜ、いつも笑っていられるのか。冬真様にそう問われ、私は初めて、母の教えと実家での孤独な暮らしについて口にしたのだった。


「私は、お前の夫でありながら、お前のことを何一つ知らないのだと思い知った」


 冬真様は、苦しげに眉を寄せた。


「好きな食べ物も、女学校で何を学んだのかも、お前がどう育ったのかも。お前は私のことを知ろうとして、食事の好みも、体調の変化も、仕事の癖まで覚えていった。それなのに私は、お前がいつも笑っているのをよいことに、何も聞こうとしなかったんだ」


「旦那様……」


「だから、内密に調べさせた。最初に見つけたのは、お前の母上が遺した財産のことだった」


 冬真様の言葉によれば、私が成人した際に受け取るはずだった土地や現金、母方の祖父母から受け継いだ証券などがあったらしい。だが、その大半が篝宮家の借財返済や、あの母娘の浪費に流用されていたのだという。


「金の流れを追ううちに、妙な支払いがいくつも見つかった。軍の調達を隠れ蓑にして、大黒商会から篝宮家へ定期的に大金が渡っていた。さらに調べれば、実態のない循環取引が多く行われていたことが分かった」


「それで今日、あのような場に証拠書類があったのですね」


「ああ。今夜、ようやくすべての証拠が揃ったんだ。……本当は、検挙自体は明日の朝に行う予定だった」


 冬真様は少し言いにくそうに、わずかに視線を伏せた。


「あの証拠書類は、夜会の後に屋敷へ持ち帰って、先にお前へ見せるつもりだったんだ。いくら酷い家だったとはいえ……実家が潰れるとなれば、お前も思うところがあるだろう。明日いきなり踏み込んで、お前を驚かせたくなかった」


「旦那様……」


 私の心を気遣って、わざわざそんな手はずを整えてくださっていたなんて。

 胸がいっぱいになって言葉に詰まる私を見て、冬真様はギリッと悔しそうに奥歯を噛み締めた。


「だが……まさか、あいつらがこの場で、お前に手を上げるとはな」


 彼の手がぎゅっと固く握りしめられる。


「こんなことになるなら、もっと早く検挙するべきだった。お前を、あんな奴らに会わせるべきではなかったんだ」


「いいえ」


 私は首を横に振り、微笑んだ。


「旦那様は、助けに来てくださいました。それに、これくらいのこと、実家にいた時に今までにも何度も――」


「何度も?」


 冬真様の声が、凍りついた。私は、しまったと思った。


「いえ、その……」


「千鶴」


 冬真様はゆっくりと息を吐き、怒りと悲しみを鎮めるように目を閉じた。


「もう二度と、それを『これくらい』などと言うな」


 命令するような口調なのに、その声はひどく優しくて、震えていた。


「お前が痛い思いをしたなら、それは私にとっても、一大事なのだ。ちっとも『たいしたことがない』わけがないだろう」


 胸の奥が、きゅうと締め付けられる。こんなふうに、自分の痛みを、自分のことのように大切に扱われたことがあっただろうか。


「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」


 長年の癖で、条件反射のように謝罪が口をついて出た。すると、冬真様の眉間に深い皺が刻まれた。


「なぜ、お前が謝る」


「私の実家のことで、旦那様や久城家にまで、多大なご迷惑を――」


「お前は何もしていない」


「ですが」


「悪事を働いたのは、篝宮家の者たちだ。お前ではない」


 冬真様は、今度こそ私の頬へ触れた。腫れていない方の右頬を、手袋を外した大きな手のひらでそっと包み込む。


「お前はもう、謝らなくていいんだ」


 その温かい言葉を聞いた途端、私の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。これまでずっと、自分を守るために纏っていた見えない鎧が、音を立てて崩れ落ちていく。


「あ……」


 急に、視界がふらりと揺れた。


「千鶴?」


 体から急速に力が抜けていく。冷たい床へ倒れ込むと思った瞬間、冬真様の強靭な腕が私をしっかりと抱き留めた。


「千鶴!おい、しっかりしろ!」


 ひどく焦った声が耳元で響いた。大丈夫だと、伝えなければ。

 けれど唇は動かず、安心しきった私の意識は、心地よい深い闇の中へと落ちていった。


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