私と、変化
朝、私が起こしに来ることも、いつの間にか久城家での日課として定着していた。最初のうちは「女中にやらせろ」と本気で怒鳴っていた冬真様も、一月ほど経つ頃には、私が控えめに扉を叩く音を聞くだけで、のっそりと体を起こすようになった。
「おはようございます、旦那様」
私が分厚いカーテンを左右に開け放つと、冬真様は眩しそうに目を細め、低い声で唸った。
「……もう朝か」
「ええ。本日は雲一つない、とてもよいお天気ですよ」
私が振り返ってにっこり微笑むと、彼は頭を掻きながら呆れたようにため息をついた。
「お前は……朝からなぜそんなに元気なのだ」
「ふふっ。それはもちろん、朝だからですわ」
「何だそれは。まったく理由になっていないだろう」
口ではそう文句を言いながらも、冬真様はもう「出ていけ」とは言わなかった。 食事の改善が功を奏したのか、冬真様を悩ませていた慢性的な頭痛は目に見えて減っていった。食後の胸焼けもなくなり、以前よりぐっすりと眠れるようになったという。
顔色も良くなってきた冬真様なのだが、それでも「体を動かす」ことだけは、頑として首を縦に振ろうとしなかった。
ある休日、書斎の机から離れようとしない彼に、私は上着を抱えて声をかけた。
「旦那様、少しお庭の散歩に参りませんか?」
「行かん」
「庭の梅が、可愛らしく咲き始めましたよ」
「花なら、わざわざ出ずともその窓から見ればよい」
「窓越しに見るのと、歩きながら間近で見るのとでは、綺麗さが違いますわ」
「いや、同じ花だ。どこから見ても変わらん」
にべもなく書類に視線を戻す冬真様に、私はとっておきの切り札を切ることにした。
「……では、来たる夜会に向けて、夫婦らしく歩くための訓練ということでいかがでしょう」
ピタリ、と冬真様の手が止まり、書類から顔を上げた。
「夜会、だと?」
「はい。契約書に『公式行事へ同伴する』とございましたよね。私は旦那様の普段の歩調すら存じ上げません。いざ人前に出たとき、歩く速度が合わずに離れてしまっては、円満な夫婦らしく見えないのではありませんか?」
痛いところを突かれた冬真様は、ぐぬぬ、と言葉に詰まった。契約や体面を持ち出されると弱いのだ。
「……一周。一周だけだぞ」
「はい!」
「庭を一周したら、すぐにここへ戻るからな」
「ええ、承知いたしました」
そうして連れ出した初めての散歩だったが、運動不足の冬真様は、広い庭を半分も歩かないうちに肩で息をするようになってしまった。私は決して急かさず、池で泳ぐ錦鯉を眺めたり、咲きかけの紅梅を見上げたりしながら、彼のペースに合わせてゆっくりと歩幅を揃えた。
「……退屈ではないのか」
不意に、気まずそうな声が降ってきた。
「何がでしょう?」
「私に合わせて、こんな亀のような速度で歩くことがだ。若い女なら、庭などではなく、もっと華やかな場所へ行きたがるものではないのか」
自嘲気味に言う彼に、私は首を横に振った。
「急ぐ理由もございませんし、ちっとも退屈ではありませんわ。華やかな場所も素敵でしょうけれど、このお庭には、このお庭ならではの静かなよさがありますから」
私の答えを聞いた冬真様は歩みを止め、わずかに苛立ちを滲ませた声で言った。
「お前は……何でもそうやって、よい方にばかり考えるのだな」
「え?」
「実家にいた頃も、そうしていたのか?嫁入り道具も与えられず、父親が受け取った支度金の存在も知らされず……それでも『ありがたい縁談だ』などと、作り笑いを浮かべていたのだろう」
冬真様は私を見ようとせず、視線を池の畔へ逃がしていた。
「なぜ、お前はそれほど平気そうにしていられるんだ」
その声には、怒りというよりも、不甲斐ない自分や理不尽な世界に対するやり切れなさが混じっているように聞こえた。
「平気……というのは、ちょっと違うかもしれません」
私がはっきりと答えると、冬真様はハッとして振り返った。
「実家にいた頃は、つらいこともたくさんありました。悲しくて泣いたことも、理不尽さに腹を立てたこともございます」
「……ならば、なぜ笑う」
「泣くことも笑うことも、あの家の人たちに決められたくなかったからです」
庭を、春の風がさっと通り抜けた。ふわりと舞い散った梅の花弁が一枚、私の肩へ音もなく落ちる。
「母が教えてくれました。どんなときでも、その日の自分にできる最大限を尽くしなさいと。笑っていれば必ず幸せになれるなどというおとぎ話は、信じておりません。ただ、誰かにひどいことをされたからといって、自分まで自分の心を粗末にしたくないのです」
静かな庭に、私の声だけが響いた。冬真様は目を見開き、まるで眩しいものでも見るかのように、じっと私を見つめていた。やがて、彼は小さく息を吐き出した。
「……疲れないのか。そんな生き方で」
「ふふっ、疲れますよ」
私が少しだけ肩をすくめて笑うと、彼もつられたように目元を和らげた。
「ですので、私は疲れたとき、ときどき甘いものを食べることにしているのです」
「ほう。私には砂糖を控えさせておきながら、自分だけ甘いものを食うのか」
意地悪く目を細める冬真様の言い草がおかしくて、私は思わず声を立てて笑ってしまった。彼もつられたのか、フッと短く息を吐いて口元を緩める。
一通り笑い合った後、私は少しだけ目元を細め、懐かしむように口を開いた。
「……実は、実家にいた頃は、私が女中たちに混ざって夕餉を作っておりましたから。お勝手でこっそり、甘く煮たサツマイモの切れ端なんかをつまみ食いしていたんですよ」
「つまみ食い?」
「はい。私には、お茶の時間に甘いお菓子をいただけるような身分はございませんでしたから」
「身分だと?お前は由緒ある篝宮家のご令嬢ではないのか」
冬真様は怪訝そうに眉をひそめた。無理もない。名門の伯爵家に正妻として嫁いでくるような娘の口から出る言葉ではない。
「あ、誤解させるような言い方ですみません!いや、あの、血筋はれっきとした篝宮家の娘です。そこは確実にそうです!そうなのですが、生活の実態は少し違ったと言いますか……」
私は歩みを止め、咲きかけの梅の花を見上げながら静かに言葉を紡いだ。
「私がまだ幼い頃に、母が病で亡くなりまして。その後、父が新しい母と義妹を迎え入れてからは、私は奥の物置部屋へと移されました。それからは女中たちと同じように、朝から晩まで働きづめの毎日だったのです」
淡々と事実だけを口にする私を、冬真様は息を呑んで見つめていた。嫁入り道具が一切なかったことや、相場の十倍もの支度金が一銭も私のために使われていなかったこと。それらの辻褄が、彼の中ではっきりと合ってしまったのだろう。冬真様はギリッと奥歯を噛み締め、ひどく胸を痛めたように深く眉間を寄せた。
「ですが、そのおかげで台所仕事にはすっかり慣れましたし、こうして旦那様のお口に合うお料理を作れるようになりましたわ」
私が明るい声で言うと、冬真様は痛ましげな表情のまま口を開いた。
「……お前はもう、伯爵家の妻だ。女中たちに任せて、自分はもう台所仕事などやらなくてもいいんだぞ」
「いいえ。私は今、誰かに命じられているわけではありません。私がやりたいからやっているのです」
私は歩みを再開し、振り返って彼を見上げた。
「あのつらかった日々も、旦那様のもとへ嫁ぐための修行だったと思えば、決して無駄ではありませんでした。旦那様が私のお料理を残さず召し上がってくださるのが、本当に嬉しくて……私、今が一番幸せなんですよ」
隠し事のない、心からの言葉だった。私はただ嬉しくて、冬真様を見上げて笑った。
すると、冬真様はふと足を止め、ハッとしたように私を見つめた。風に舞う梅の花びらの中で、彼は瞬きすら忘れたかのように、じっと私の顔を映している。
何か変なことを言ってしまっただろうか。呆れさせてしまったのかと首を傾げたが、私を見つめるその青い瞳にはかすかな熱が帯びていて、ひどく気恥ずかしくなってしまった。
この妙な沈黙を誤魔化すように、私はわざと冗談めかして言葉を繋いだ。
「それに、自分でお勝手に立てば、堂々と甘いものを作れますからね!ご安心ください、今日はお散歩を頑張ってくださった旦那様の分も、菓子を焼いてございますよ」
「……私の分も?」
我に返ったように瞬きをした冬真様に、私はにっこりと頷いた。
「はい。今日のおやつは、お砂糖を使わない林檎の焼き菓子です。たまには午後のお茶の時間に、二人で甘いものをいただくのもよろしいでしょう?」
私の言葉に、冬真様はきょとんとした後、耳の端を赤くしてふいっと顔を背けた。
「……そういうことは、散歩の前に言え」
冬真様は再び歩き出した。
「早く戻るぞ」
と急かすその大きな背中は、照れ隠しのように足早で、先ほどよりも確かな活力を帯びていた。
*****
体に優しい温かい食事と、向かい合って座る食卓での穏やかな会話。そして、朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら歩く、お庭の散歩。私たちが共に過ごす何気ない日々の積み重ねは、目に見えないほどゆっくりと、けれど確実に冬真様を変えていった。
最初の変化は、本当にささやかなものだった。散歩の途中で息を切らすことがなくなり、朝、寝室から出てくる足音が軽くなった。眉間に寄っていたシワが薄くなり、会話をするときの声に柔らかな張りが生まれた。そして、いつしか軍服の帯革の穴が、一つ、また一つと内側に変わっていったのだ。
そんな小さな変化が降り積もり、数ヶ月の季節が巡る頃には――冬真様の体つきは、見違えるほど精悍なものへと変わっていた。
重たげだった余分な脂肪はすっきりと落ち、もともと大柄だった体躯は、しなやかな筋肉で美しく引き締まっている。軍の激務と不眠が刻んでいた目の下の深い隈もすっかり消え去り、雪のように透き通る白い肌は、健康的な血色を取り戻していた。
ある日、屋敷に呼ばれた仕立屋が、採寸をしながら目を丸くして驚いていた。
「いやはや、久城様。以前のお召し物がまるでぶかぶかでございますね。すっかり精悍になられまして……お見事でございます」
そうして仕立て直された新しい軍服は、引き締まった長身に隙なく似合い、まるで彫刻のように美しかった。
「ふふふ、やはり、私の目に狂いはありませんでしたね」
姿見の前で軍服の着心地を確かめる冬真様を見て、私が満足げに頷くと、彼は鏡越しの私を見てふっと息を吐いた。
「……また鼻筋の話か?」
新婚初夜に交わされたひどい会話を、からかうように持ち出す冬真様の横顔はとても穏やかだった。『かなりお肉が余っておいでです』と私が正直に言い放ち、彼が苛立ちを隠さなかったあの夜から思えば、私たちの関係はずいぶんと変わったものだ。
「鼻筋だけではございませんよ。伏せられた銀色の睫毛も、やっぱりお綺麗です」
「お前は本当に、相変わらずだな」
呆れたように笑う彼の横顔は、出会った頃の刺々しさが嘘のように穏やかだった。
その日は、新調したばかりの軍服を着て出仕した冬真様の仕事帰りに合わせて、私たちは少しだけ帝都の街へ出かけることになった。
来たる夜会に向けて、私に必要な小物などを揃えるためだと言って、わざわざ時間を割いてくれたのだ。
活気あふれる目抜き通りを歩き始めてすぐ、私はある異変に気がついた。
すれ違う人々が、次々と足を止め、はっとして冬真様を振り返るのだ。特に若い令嬢たちは、歩み寄る冬真様の姿を見るなり頬をぽっと赤く染め、扇子や手鏡で顔を隠しながらひそひそと囁き合っている。
「ねえ、あの方……どこの貴公子かしら」「軍服を着ておられるわ。異国の血を引いておいでなのかしら、銀色の髪が陽に透けて綺麗……」「まるで俳優みたいね」
周囲のざわめきに、私は思わず瞬きをした。無理もない。雑踏の中でも頭一つ抜けて背が高い冬真様は、ただ立っているだけで目を引く。無駄な肉が落ちたことで、もともと端正だった骨格が際立ち、氷のように澄んだ青い瞳と相まって、息を呑むほど完成された美丈夫へと変貌を遂げていたのだ。
(旦那様が素敵な方だということは、最初から知っていたけれど……)
こうして他人の客観的な視線に晒されてみると、その事実が唐突に、そして強烈に現実味を帯びて迫ってくる。世間から「醜い白豚」と蔑まれていたかつての面影は、もうどこにもない。今私の隣を歩いているのは、誰もが振り返り、憧れの眼差しを向けるような見目麗しい男性なのだ。
急に自分の隣にいる人がひどく遠い存在のように思えて、私が立ち止まって見上げていると、冬真様が不思議そうにこちらを振り返った。
「どうした、千鶴。歩き疲れたか?」
周囲の熱を帯びた視線など全く気にも留めていない様子で、彼は歩み寄り、人混みから私を庇うようにすっと背中に大きな手を添えた。見下ろしてくる端正な顔立ちが、あまりにも近い。澄んだ青い瞳に私の顔が映り込んでいるのが見えて、ドクン、と胸の奥が妙な音を立てた。
「え、あ……いえ、疲れてなどおりません」
「本当か?なんだか顔が赤いぞ。さては人当たりでもしたか」
心配そうに眉を寄せた冬真様は、手袋を外すと、その大きな手のひらで私の額にそっと触れた。ひんやりとした心地よい手が触れた瞬間、自分の顔がカッと火を吹くように熱くなるのがわかった。
「ち、違います!熱なんてありません!ただ、少し日が眩しいだけで……っ」
私は慌てて彼の手から身を離し、両手で自分の頬をパタパタと仰いだ。
周囲の令嬢たちが、遠巻きに冬真様を見つめて頬を染めているのが視界の端に入る。冬真様が健康になられたことは、心から嬉しい。彼が本来の美しさを取り戻し、世間から正当な評価を受けるのは喜ばしいことのはずだ。それなのに、なんなのだろう、この胸がスッキリしない感じは。
(私は最初から、旦那様の素敵なところを知っていたのに……)
外見だけでなく、口調は冷たくても本当は優しいところも、不器用に照れるところも、私だけが知っていたはずだった。それなのに、今さら外見だけを見て彼を持て囃す周囲の視線が、なんだか無性に面白くないのだ。
「……変な奴だな。具合が悪いなら無理をするなよ」
私が一人でそんなよくわからない感情に振り回されている理由など露知らず、冬真様は不器用に私の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出してくれた。気遣ってくれるその横顔の美しさに、私はまた少しだけ鼓動を早めながら、慌てて彼の隣に並んだ。




