私に、できること
翌朝。時計の針が六時を指した頃、私はさっそく行動を開始した。冬真様が自室のベッドで目を覚ますと、私は満面の笑みを浮かべて元気に挨拶した。
「おはようございます、旦那様!朝でございます!」
「なっ……!なぜお前がここにいる!」
心臓が飛び出るほど驚いたかのように、冬真様はガバッと布団を引き上げて身構えた。
「なぜと申されましても、私は旦那様の妻ですので。夫をお起こしするのは妻の立派な務めです」
「そういうことは使用人にやらせろと言ったはずだ!お前には何も求めるつもりはないと……」
「ですが昨夜、旦那様は私に『好きにしろ』とおっしゃいました。ですから、勝手に妻としての務めを果たさせていただこうかと」
「そういうことではないだろう!」
頭を抱えて呻く冬真様に対し、私はにこやかに首を傾げた。
「まあ。では、どういうことかを書面にしていただけますか?昨夜の契約書に『朝起こすのは禁止』と追記しておきますので」
「お前……」
言葉尻を捕らえられ、ぐうの音も出ない冬真様。
結局、彼は大きなため息を一つ吐くと、頭を掻きながら渋々といった様子で寝台から身を起こした。
それから一時間後。
身支度を整えて向かった食堂で、冬真様は長い食卓の向こうから私をじとりと睨みつけていた。どうやら、私のペースに巻き込まれて一緒に朝食を摂る羽目になったことが、まだ少し不服らしい。
しかし、私の意識は彼の不機嫌そうな視線よりも、目の前に並べられた料理の数々に釘付けになっていた。
食卓には、厚切りの肉、油で揚げた芋、卵、バターをたっぷり塗ったパン、さらに砂糖のかかった焼き菓子までが所狭しと並んでいる。朝から食べるには、あまりにも重すぎる献立だ。
私は目の前の皿と、冬真様の顔を交互に見た。
「あの、旦那様。毎朝、このようなお食事を召し上がっているのですか?」
「……悪いか。和食はどうもあっさりしすぎていて、食った気がしない。腹にたまらんのだ。和食が好みであれば、使用人にそう伝えろ」
冬真様は不機嫌そうにフォークを動かしながら、ぽつりと付け加えた。
「……私は幼い頃、異国出身の母と暮らしていたからな。こちらの味の方が口に合うんだ」
「そうだったのですね。お母様との思い出のお味でしたら、決してお好みを否定するつもりはございません。ただ……朝からこれほど脂っこいものを召し上がると、少しお体に障るのではないかと心配になりまして」
「余計なお世話だ。ただ寝起きが悪いだけだろう」
「でも、頭痛もおありではありませんか?」
その言葉に、冬真様がナイフを動かす手がピタリと止まった。
「……なぜ分かる」
「お部屋へ起こしに参った時も、苦しそうに眉根を寄せていらっしゃいましたから。胃腸のお疲れは、頭痛や体のだるさとなって表れるものなのですよ」
「お前は……いちいち余計な詮索をするな」
「はい、承知いたしました」
私はにっこりと微笑んで、素直に引き下がった。お母様との思い出の味を好む彼のお気持ちは尊重したい。けれど、軍の重圧とストレスも相まって、今の彼の胃腸が悲鳴を上げていることは明白だった。
その日の昼、私は女中頭に頼んで厨房を見せてもらった。料理長は四十代の気難しそうな男で、最初は伯爵家の若奥様が台所に立ち入ることを露骨に嫌がった。
「旦那様のお食事に、何か文句でもおありですか」
「とんでもない!お味はとても美味しいと思いますわ。ただ、旦那様のお体には少々負担が大きいのではないかと……」
「若様は、あっさりした和食をお出ししても、見向きもなさいませんよ」
「でしたら、あっさりしていると気づかせなければよいのです。洋食の満足感はそのままに、少しだけお腹に優しくしてみましょう」
半信半疑な顔をする料理長にお願いして調理台の隅を借りると、私はさっそく女中から前掛けを受け取り、気合いを入れて腕まくりをした。
昔、家の体面のために少しだけ通わせてくれた女学校では家政科の授業が好きだったし、亡き母も料理上手で、西洋から入ってきた新しい調理法をよく教えてくれていたのだ。
私はまず、鶏肉の皮を丁寧に外し、表面だけを香ばしく焼き上げた。
そこへ蕪と玉葱を加えて柔らかく煮込み、牛乳と少量の味噌を合わせる。重たい生クリームを減らす代わりに、裏ごしした白豆でとろみをつけるのが私なりの工夫だ。
茸と香草を添え、最後に柚子の皮をわずかに散らして、特製の煮込み料理を完成させた。
そして、迎えた夕食の時間。
食堂の長い食卓の向こう側で、運ばれてきた見慣れない深皿を覗き込んだ冬真様は、露骨に顔をしかめた。
「何だ、これは」
「鶏肉と蕪の乳酪煮でございます」
「病人食か」
「まずは一口、召し上がってくださいませ」
私に促され、冬真様は渋々乳酪煮を口に運んだ。
その瞬間、彼の目がわずかに見開かれた。見た目こそ薄味に見えるが、鶏肉の深い出汁と香草の風味がしっかりと効いている。芋の代わりに入れた蕪も柔らかく煮てあるため、フォークで食べようとするとほろほろと崩れ落ちる。バターを使わずとも、牛乳のうまみでこってりとした味わいにしたおかげか、一口、また一口と、冬真様が匙を進める速度が明らかに早くなった。
「……悪くない」
ぽつりと呟いたきり、冬真様は無言で皿に向かい、あっという間に平らげてしまった。
そして、何より驚くべき変化は食後に現れた。
「……胃が、重くない」
いつもなら食後に襲ってくる重苦しい胃もたれや胸焼けが一切ないことに、冬真様自身が一番驚いているようだった。その夜、冬真様は久しぶりに深夜まで頭を冴え渡らせ、執務に集中できたのだという。
翌朝、使用人からその話をこっそりと聞いた私は、思わず口元を綻ばせた。
「ふふ、よかった」
出会った初日、冬真様は私に「好きにしろ」と冷たく言い放った。それはきっと、愛のない契約結婚なのだから、お互いに干渉せず好き勝手に生きようという意味だったのだろう。
けれど、私は母の教え通り、今の自分にできることを精いっぱいやりたいのだ。
(勝手にしろと仰ったのですから……旦那様の健康管理、遠慮なく『勝手に』させていただきますね)
*****
翌日。
朝露がまだ草花を濡らす頃、私はすでに身支度を整え、屋敷の奥にある厨房へと足を踏み入れていた。
女中たちの邪魔にならないよう台所の隅へ移動し、私はそこにある古びた木製の戸棚を開けた。女中たちさえ滅多に使わない、埃を被った瓶が並ぶ奥の奥を、ゴソゴソと探る。
そして、目的のものに指が触れた瞬間、私は思わず弾んだ声を上げた。
「あ、やっぱりあった!」
見つけたのは、美しい緑色をした硝子瓶――西洋から輸入された、高価なオリーブ油である。この国の家庭にはあまり馴染みがないが、伯爵家の厨房にならあるかもしれないと踏んでいたのだ。これを使えば、冬真様の口に合う濃厚なソースが作れるはずだ。
今日の献立は魚料理だ。いきなり淡白な白身魚をお出ししても、お肉好きな冬真様には物足りないだろう。しかし、脂の乗った鮭であれば、お母様の故郷である北方の国でも『サーモン』と呼ばれ、日常的に食べられていると本で読んだことがあった。
私はボウルに卵の黄身を落として泡立て器で丁寧に混ぜながら、そこへ少しずつオリーブ油とお酢を垂らしていく。さらりとした油が卵黄と結びつき、次第にとろりとしたなめらかなソースへと変わる。
そこへ、和の旨味である椎茸を、キノコだと分からないくらい細かく微塵切りにして混ぜ合わせた。卵黄の動物性のコク、オリーブ油の植物性のまろやかさ、そして椎茸の強い旨味が合わさった、濃厚で程よい酸味のある特製ソースの完成だ。
それを鮭の上にたっぷりと塗り、仕上げに香草を散らし、サクサクとした食感を出すためにパン粉をかけて紙で包み焼きにした。
朝食の席。
恭しく運ばれてきた皿を見るなり、冬真様は訝しげな顔をして、熱でふっくらと膨らんだ紙包みを睨みつけた。
「朝からまた妙なものを……」
「本日はお魚料理でございます」
私がにっこりと告げると、冬真様は露骨に眉を寄せた。
「……私はあまり、魚は好きではないのだが。朝はもっと腹にたまるものがいい」
「まあまあ、そう仰らずに。まずは開けてみてくださいな」
私がにっこりと促すと、冬真様は不満げに紙を開いた。途端に、閉じ込められていた熱い湯気とともに、香草と濃厚なソースの芳醇な香りがふわりと広がる。
添えられたカボスをキュッと絞ってから、冬真様は恐る恐る一口分を切り分け、口に運んだ。
その瞬間、彼の気難しげな顔からふっと力が抜け、思わずといった様子で口元が綻んだ。カリッと焼けたパン粉の食感、鮭の旨味、そして何より、複雑なコクが絡み合ったソースが、見事に彼の舌に合ったのだろう。
「旦那様、いかがですか?」
「……まあ、食えなくはない」
美味しいと表情に出ているのに、わざとらしく咳払いをして誤魔化す姿が少しおかしくて、私は思わずふふっと笑ってしまった。
文句を言いながらも、結局冬真様はその日の朝食を、綺麗に平らげてくださった。
*****
またある日は、お肉の代わりにたっぷりの蓮根のすりおろしを混ぜ込んだ、特製のハンバーグを焼き上げた。
「今日は肉か」
ナイフを入れた冬真様は、口に入れた瞬間に目を丸くした。
「なんだ、この食感は……肉にしては妙にもちもちとしているな」
「ふふっ。実はそれ、すりおろした蓮根と豆腐を混ぜているのです。お腹に優しくて、腹持ちも良いんですよ」
「蓮根だと?……騙された気分だ」
恨みがましい口調とは裏腹に、ナイフとフォークは止まらない。甘辛いお醤油ベースのタレが絡んだもちもちのハンバーグを、彼はあっという間に胃袋へ収めてしまった。
量を急に減らせば冬真様が不満を抱くと考え、見た目の満足感は残した。肉には野菜や豆を混ぜ、油を減らす代わりに香辛料と出汁を工夫する。
甘味も完全には取り上げなかった。砂糖を控え、林檎や干し葡萄など、果物そのものの甘みを生かした甘味を食後にお出しした。
「またお前が作ったのか」
夕食の席で、並べられた料理と私の顔を交互に見て、冬真様がふうと息を吐く。
「はい。本日は海鮮グラタンでございます」
グラタンとは言っても、普通の西洋料理のそれとは少し違う。胃に重い小麦粉と大量のバターを使ったホワイトソースの代わりに、水切りしたお豆腐と牛乳、白味噌、そして少量のオリーブ油を混ぜ合わせた特製の「豆腐ソース」を使っているのだ。
泡だて器で丹念に混ぜ合わせることで、お豆腐とは思えないほど滑らかでクリーミーな口当たりになる。さらに、お腹にたまるマカロニの代わりには、風味豊かな色とりどりのキノコを。彩りには、蛋白質もビタミンも多く含むブロッコリーをたっぷりと忍ばせた。
一番上にはチーズを乗せてこんがりと香ばしく焼き上げている。チーズも貴重な蛋白源であり、食べ過ぎにさえ気をつければとても栄養価が高いのだ。スプーンを入れると、表面はカリカリ、中はとろりとした熱々の仕上がりになっている。
一口食べた冬真様は、その予想外の滑らかな味わいに少し目を丸くした後、ぽつりとこぼした。
「……伯爵家の妻が、毎日女中たちに混ざって台所に立つなど聞いたことがない。疲れないのか」
呆れたような口調だったが、その低い声色には、不器用な気遣いがはっきりと滲んでいた。
「ご心配ありがとうございます。ですが、少しも疲れませんわ。お料理は楽しいですし、何より……」
「何より?」
「旦那様が、私がお出ししたものを毎日一つ残らず、綺麗に召し上がってくださいますから。それが嬉しくて」
「…………出されたものを残すのが嫌いなだけだ」
プイッとそっぽを向く冬真様の耳の端が、少しだけ赤く染まっている。
「それでは明日も、残さず召し上がっていただけるお料理を作りますね」
「……勝手にしろ」
私はにこりと笑った。
「はい、勝手にします!」
冬真様が、また一本取られたというような、諦めと安堵の混じった顔をした。




