私の、契約結婚
「千鶴。どんなにつらいことがあっても、笑っていなさい」
亡くなった母は昔、よくそう言っていた。
薬の匂いが薄く立ち込める、薄暗くもどこか温かみのある病室。
白いシーツに沈み込むように横たわっていた母の、ひどく痩せ細った手が、私の小さな手をぎゅっと握りしめていた。
その手のひらの心細くなるような冷たさと、微かに震えていた母の優しい声を、私は今でも鮮明に覚えている。
病床に伏し、一人で起き上がることさえ難しくなってからも、母は朝になれば必ず髪を整え、手鏡を見ながら薄く紅を引いた。
顔色は青白くても、紅を引いた唇だけは生気を帯びて見えた。
そして、窓辺の小さな花瓶に生けられた可憐な撫子の花を眺めては、「今日も綺麗ね」と、春の陽だまりのように微笑むのだ。
「どれほど苦しくても、自分にできることが一つくらいはあるものです。どうしても笑えない日は、泣いてもいいの。けれど泣き終えたら、今の自分にできる最大限を尽くしなさい」
「最大限……?」
首を傾げる幼い私に、母はゆっくりと頷いた。
「ええ。昨日の自分より立派でなくても構いません。周りの人より上手でなくても構いません。その日、そのときの自分にできることを、ただ精いっぱいするのです」
当時の私には、その言葉の本当の意味は、まだ十分には理解できていなかった。ただ、母の笑顔が好きだったから、私も一緒に笑っていた。
****
帝都でも有数の歴史を持つ旧家、篝宮家。その正妻であった母が病に倒れ、ついに帰らぬ人となったのは、私がまだ十にも満たない幼い頃だった。
深い悲しみに暮れる間もなく、父は新しい妻とその娘をこの家に迎えた。透き通るような白い肌と、美しくも冷酷な目をした後妻と、その連れ子である一つ年下の義妹、美弥子様である。
彼女たちが、荷物を解くよりも早く篝宮家の女主人と長女の座にふんぞり返るまでに、そう時間はかからなかった。
実の娘である私は、それまで使っていた日当たりの良い部屋から、奥の薄暗く隙間風の吹き込む物置部屋へと追いやられた。
そしていつしか、使用人たちと同じか、それ以下の扱いを受けるようになった。
父は、傾きかけた事業の立て直しと、雪だるま式に膨れ上がる借金のやり繰りに忙殺されており、家庭内のことに目を向ける余裕などなかった。
ましてや、不本意な政略結婚の相手である先妻の娘が、愛する新しい妻とその子からどのような扱いを受けているかなど、完全に無関心であった。
それでも私は、母との約束を守り、決して笑顔を絶やすことはなかった。
木枯らしが吹きすさび、身を切るような冷たい風が頬を打つ冬の朝も、屋敷の誰よりも早く起き出し、霜の降りた庭を竹箒で掃き清めた。
あかぎれで血の滲む小さな手を、刺すように冷たい井戸水で洗い、まだ暗い台所で女中たちと共に朝食の準備を手伝う。
継母から与えられるのは、とうに丈の合わなくなった、色あせて裾が擦り切れた古い着物だけだった。布地が薄くなり破れれば、私は夜なべをして丁寧につぎ当てをした。色の違う端切れを縫い合わせる時も、少しでも見栄えが良くなるように、花や鳥の形に切って縫い付けるなど工夫をして身にまとった。
「お姉様、よく笑っていられるわね」
ある春先の朝、美弥子様が呆れたような、あるいは苛立ったような声で言った。
私は玄関先の冷たい三和土にしゃがみ込み、泥のついた草履をたわしで洗っていた。美弥子様はその傍らに立ち、わざわざ私の手元へ泥を跳ね上げるように、自分の履いていた草履の足をぶんと振った。
冷たい泥水が私の頬に飛び散ったが、私は手を止めなかった。
「そんな汚い仕事をさせられて、惨めではないの?」
「惨めだと嘆いて座り込んでいても、草履は綺麗になりませんもの」
私が顔を上げてにっこりと笑うと、美弥子様の美しい頬が、ピクリと引きつった。
「……馬鹿にしているの?」
「いいえ。美弥子様の草履も綺麗にしておきますね」
「結構よ!」
美弥子様は顔を真っ赤にして腹立たしげに叫び、足音荒く奥へと去っていった。私は袖口で頬の泥を拭い、再び草履に向き直った。冷たい水が手に染みた。
もちろん、何をされても平気なわけではない。理不尽な言葉を投げつけられれば胸は痛むし、食事を抜かれればお腹はすく。悔しくて、情けなくて、薄い布団の中で声を殺して泣く夜もあった。
父に一度でよいから庇ってほしかった。
母が生きていてくれたならと、何百回も願った。
それでも朝になれば顔を洗い、髪を結い、口角を上げる。泣くことも、笑うことも、あの人たちに決められたくなかった。私の心は、私だけのものだ。母の教えを胸に、私は今日できることを淡々とこなしていった。
*****
「お前の嫁ぎ先が決まった」
父に書斎へ呼び出されたのは、私が二十歳を迎えた冬のことだった。煙草の紫煙が漂う重苦しい応接間には、父のほかに、継母と美弥子様も長椅子に腰を下ろしていた。私には座る椅子すら用意されておらず、部屋の中央で立ち尽くすしかなかった。
「お相手は、どちらの方でしょうか」
「久城伯爵家の嫡男、冬真殿だ」
父は、まるで不要なゴミを処分できたかのように、面倒くさそうに吐き捨てた。
「あちらは『家柄さえ確かなら、相手は誰でもいい。女なら何でも構わない』と仰っている。お前のような何の取り柄もない、薹が立った娘でも引き取ってくださるのだ。せいぜい感謝して、明後日にはこの家を出ていけ」
思いがけない名門の家名に、私は思わず目を瞬いた。久城家といえば、旧くから国政に深く関わってきた由緒ある伯爵家である。
嫡男の冬真様は、若くして陸軍参謀本部に入り、優れた作戦立案によっていくつもの功績を立てた人物だと聞いている。
一方、彼は社交界では別の意味でも有名だった。母親が北方の異国出身であるため、銀に近い灰色の髪と、薄青い目を持つ。肌は雪のように白いのだが、人並み外れて大柄な体躯には脂肪が纏わりついているという。その威圧感のある巨躯と異国風の容姿をあざけり、陰でつけられたあだ名が『白豚参謀』である。
「夜な夜な豚のように生肉を喰らっている」「見合い相手を睨みつけて気絶させた」といった真偽の定かではないおぞましい噂が絶えない。加えてひどく気難しい性格らしく、これまで持ち上がった縁談もことごとく破談になっているのだという。
美弥子様が扇子で口元を隠し、くすくすと嫌味な笑い声を漏らした。
「よかったわね、お姉様。お金持ちに嫁げるなんて。お相手が、あの白豚参謀でさえなければ、羨ましかったのだけれど」
「美弥子」
継母が咎めるような声を出したものの、目は明らかに嘲るように笑っていた。私は静かに息を吸い込み、父に向かって深々と頭を下げた。
「ありがたいお話でございます。謹んでお受けいたします」
「なっ……」
美弥子様が、ピタリと笑うのをやめた。
「本気なの、お姉様」
「はい。久城様は、若くして軍の参謀を務めておられるほど優秀な方なのでしょう。そのような方が私を妻に選んでくださるなんて、光栄です」
皮肉や嫌味がまったく通じず、純粋にこの縁談を喜んでいる様子の私を見て、美弥子様はひどく面白くなさそうに「チッ」と舌打ちをした。
父も私の能天気さに呆れたのか、「勝手にしろ」とばかりに手を振って、私を部屋から下がらせた。
*****
嫁入り当日。
私は花嫁らしい華やかな着物や嫁入り道具など一切持たされず、普段着の古い着物のまま、裏口からひっそりと篝宮家を後にした。
見送りに来たのは、娘を厄介払いできたことに安堵している様子の、父ただ一人。
「お前はもう嫁にやった、篝宮の人間ではない。二度と篝宮の敷居を跨ぐな」
吐き捨てるように告げられた冷酷な言葉。
私の手に持っているのは小さな風呂敷包みが一つ。懐には、母の形見の白蝶貝の櫛だけがそっと忍ばせてあった。冷たい風が頬を打ち、私は一度も実家を振り返ることなく、迎えの自動車へと乗り込んだ。
帝都の一等地にそびえ立つ、豪奢な西洋建築の久城伯爵邸。
静まり返った広間で、関係者だけで行われたごく簡素な婚姻の儀式。そこで私は、これから夫となる人――久城冬真様と、初めて対面することになった。
(本当に、大きな方……)
噂通り、彼はひときわ背が高く、威圧感のある大柄な体格をしていた。
銀糸を交えたような色素の薄い髪は隙なく撫でつけられ、氷のように冷ややかな青い瞳は感情を読み取らせない。
仕立ての良い軍服に身を包んだその姿は、壮大で隙がなかった。
婚礼は静かに終わった。華やかな祝宴もなく、客人もいない。
夜になると、私は久城邸の寝室へ通された。
篝宮家で私が住んでいた物置部屋が十個は入りそうなほど広い部屋だった。ふかふかの赤い絨毯の上に西洋式の大きな寝台が置かれ、天井からは花を模した電灯が柔らかな光を落としている。
私は寝台の端にちょこんと座り、夫となる人を待った。緊張していないと言えば嘘になる。夫婦になった以上、初夜に何が行われるのかは知識として知っている。けれど逃げ出す場所も、戻る家もない。ならば、相手の言葉をよく聞き、自分にできることを考えるしかなかった。
やがて重い扉が開き、洋装の寝巻きに着替えた冬真様が入ってきた。
上着を脱いでいても、その体は壁のように大きい。冬真様は寝台には近づかず、数歩離れた位置で机の上へ一枚の書類をバサリと置いた。
「読め」
私は書類を手に取った。婚姻に関する契約書だった。
婚姻期間は三年。
寝室は別とし、互いに愛情を求めない。
私は久城家の妻として公式行事に同伴する。
その見返りとして、衣食住を保障し、三年後の離縁時には邸宅と終身年金を与える。
「随分と手厚いのですね」
思わず口にすると、冬真様の眉間に深い皺が寄った。
「喜ぶところか?」
「離縁後の生活まで保障していただけるのでしょう?」
「フン、まぁ、金が目当てなら、これ以上ない条件だろうな」
低い声に、明らかな棘と侮蔑があった。私は書類から顔を上げた。
「金が目当て、とは?」
「とぼけるな」
冬真様は苛立たしげに鼻を鳴らした。
「お前の父親には、相場の十倍にもなる莫大な支度金をくれてやったはずだ。大金を受け取って嫁いできた女が、純真ぶるのも大概にしろ」
その言葉で、私はすべてを悟った。あの父親が、私を対価にして久城家から多額の金を引き出していたのだ。私の懐には一銭も入っていないし、嫁入り道具すら用意されなかったというのに。
「……存じませんでした」
「白々しい」
冬真様は吐き捨てるように言った。
「すでに聞き及んでいることかと思うが、これは契約結婚だ。私には軍部内で重要なポストに就くため、一時的にでも『家庭を持つ安定した人物』という体裁が必要だ。特に旧家出身の奥方、という肩書きを。まぁ、なんせこんな見た目だからな」
彼の言葉には、自分自身を深く蔑むような、諦めに似た響きがあった。
「こんな見た目」と自嘲する冬真様を、私は静かに見つめ返した。
机上の瓦斯灯の柔らかな光に照らされた彼は、実家で聞かされていた「野蛮で恐ろしい白豚」という言葉とはまるで結びつかない。
確かに、体は大きい。が、異国の血を引くという銀色に近い灰色の髪は、絹糸のように美しく撫でつけられ、雪のように白い肌は透き通るようだ。何より、私を見下ろす薄青い瞳は、冷酷どころか、冬の朝の澄み切った湖面のように静かで、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
(……この異国の容姿のせいで、きっと理不尽な苦労もされてきたのね)
古い体質が重んじられる軍という組織の中で、他人と違う外見を持つ彼がどれほどの偏見や差別に晒されてきたのか、想像に難くない。実力で若くして参謀の地位に上り詰めてなお、旧家の娘という「確かな後ろ盾」を必要とした背景には、彼なりの孤独な戦いがあったのだろう。
そう考えると、頑なに心を閉ざして悪ぶる彼が、少しだけ不器用で痛ましい人に思えた。
私は、彼が抱いている「大金目当ての強欲な女」という誤解を真っ直ぐに解くために、静かに口を開いた。
「私は嫁入り道具もいただいておりません。父からは、身一つで嫁げと言われました」
冬真様の目がわずかに細くなる。だが、すぐに冷ややかな表情へ戻った。
「ならば、どういうつもりでこの婚姻を受けた。相手が私のような男だと分かっていて嫁いできたのか」
詰問するような低い声に、私は姿勢を正して真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「父から嫁げと命じられましたから。それに……」
「それに、何だ」
「軍の参謀を務められるほど優秀な方が、私のような者を妻に選んでくださったのです。とてもありがたいお話だと思って参りました」
私の言葉に嘘がないか探るように、冬真様は苛立ったため息を吐いた。
「フン、どうせお前も、腹の中では私のことを醜い白豚だと思っているのだろう」
「醜い、ですか」
私は改めて冬真様を見た。大柄な体。色素の薄い白い頬。黒い洋服の襟元には肉が乗り、腹部もかなり張り出している。
「旦那様は、確かに少々、余分なお肉がおありだと思います」
冬真様のこめかみが引きつった。
「少々?」
「……申し訳ございません。かなり、でしょうか」
「随分と正直な女だな」
「嘘をつく方が失礼かと思いまして」
「では、やはり醜いと思っているのだろう」
「いいえ」
私はきっぱりと首を振った。
「鼻筋はすっと通っていますし、睫毛も綺麗です。瞳は冬の朝の湖のような色をしていらっしゃいます。髪も銀糸のようです」
「見え透いた世辞はよせ。初めてあった男の何がわかる」
「世辞ではありませんわ。それに、容姿のことだけではありません」
私は言葉を重ねた。
「旦那様が、私のような者の意思を無視しない、優しい方だということは分かります。初めて会った女が寝室で待っているというのに、無理に触れようとはなさらず、先に契約という形で距離を置いてくださいました。それは、私を気遣い、私自身に選ばせようとしてくださったということでしょう?」
「勘違いするな。私は、愛情などを期待されても困ると言っている。お前を娶ったのも、旧家の娘という利用価値を買ってのことだ」
「ですが、それだけでしたら、わざわざ契約の中に『離縁後の暮らし』まで用意する必要はございませんよね」
「……離縁した妻が路頭に迷えば、外聞が悪いだろう。単なる体面の問題だ」
頑なに自分を悪く見せようとする旦那様がおかしくて、私は少しだけふふっと笑ってしまった。
「……何がおかしい」
「いいえ。ですが、私には分かります。契約書のことだけではございませんわ」
「何の話だ」
「婚礼の際、介添えの方がお祝いの杯を落としかけたでしょう。あの時、旦那様は高価な杯が割れる心配や、儀式を邪魔されたと怒鳴るのではなく、真っ先に彼女の手にお怪我がないかを目で確認なさいました」
冬真様は、完全に虚を突かれたように目を見開いた。私がそんなところまで見ているとは思わなかったのだろう。
「私は、自分より弱い立場の人を踏みつけて平気な方を、立派だとは思いません。旦那様は、そのような方ではないのでしょう?」
「……お前は」
冬真様は何か言いかけて、きゅっと口をつぐんだ。
これ以上悪ぶってみせても私には通じないと悟ったのか、それとも、思いがけず自分の行いを真っ直ぐに褒められて、どう返せばいいか分からなくなったのか。結局、彼はバツが悪そうにフイッと顔を背けてしまった。
「はぁ……もういい、どうせ何を言っても無駄なのだろう。好きにしろ」
「はい。ありがとうございます」
「契約書には明日、署名をもらう。今夜はこの部屋を使え。私は別室で寝る」
「おやすみなさいませ、旦那様」
返事はなかった。乱暴に閉められた扉を見つめ、私はふわりと微笑んだ。怒らせてしまっただろうか。けれど、分厚い背中から覗いていた耳は、なぜか少し赤かったように見えたのだ。
お読みいただきありがとうございます。
ザ・王道な、いわゆる「和風シンデレラ」作品になります。
ちょっと設定など拙い部分もあるかと思いますが、広い心で読んでいただけると幸いですm(_ _)m




