私と、旦那様
目を覚ましたとき、最初に視界へ入ってきたのは、見慣れた天蓋だった。
「……ここは」
久城邸にある、私の寝室だ。窓には厚いカーテンが引かれ、室内には薄暗い間接照明だけが灯っている。体が鉛のように重い。喉はからからに乾き、頭の芯がぼんやりと熱を持っていた。
顔を横へ向けると、寝台の傍らに椅子が置かれていた。そこに、冬真様が座っている。腕を組み、俯いたまま、うとうとと眠っていた。
普段なら軍人らしく隙なく撫でつけられている灰銀色の髪が、今は少し乱れて額にかかっている。長い睫毛が白い頬へ影を落とし、薄く開いた端正な唇から、静かな寝息が漏れていた。
結婚当初の面影は、もうほとんど残っていない。余分な肉の落ちた輪郭は精悍で、すっと通った鼻筋はまるで彫刻のように整っている。閉じられた瞼の下には、澄んだ冬空を思わせる薄青い瞳が隠されていた。
本当に、息を呑むほど美しい人だった。けれど私にとっては、以前も今も、何一つ変わらない冬真様だ。不器用で、口が悪く、誠実で、誰よりも優しい人。
(もしかして……ずっとここで、看病してくださっていたのかしら)
私は、そっと体を起こそうとした。寝台が小さく軋んだ途端、冬真様が弾かれたように顔を上げる。
「千鶴……気がついたのか……!」
「旦那様」
冬真様は椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がると、私の肩を優しく支えた。
「無理に起きるな。水か?それとも医者を呼ぶか。寒くはないか?」
「大丈夫です。少し、喉が渇いて……」
「待っていろ」
冬真様は水差しから杯へ水を注ぎ、自ら私の口元まで運んでくれた。ひんやりとした水が、乾いた喉へ染み渡っていく。
「ありがとうございます」
「まだ飲むか」
「もう、十分です」
冬真様は杯を置いたものの、心配そうに私の顔を至近距離で覗き込んでいる。
「あれから、どれくらい経ったのでしょう」
「三日だ」
「三日……?」
「高い熱を出して、ずっとうなされていたんだぞ」
冬真様の眉間に、深い皺が寄る。
「医者は、長年の疲労と心労が一度に出たのだろうと言っていた。命に別状はないと分かっていても、お前は何度呼んでも目を開けないし、うなされながら苦しそうに謝り続けるし……」
冬真様はそこで言葉を切った。薄青色の瞳が、焦燥感に揺れる。
「お前が、このまま目を覚まさないのではないかと……生きた心地がしなかった」
絞り出すようなその声には、普段の冷静沈着な参謀としての面影はどこにもなかった。冬真様の大きな手が、微かに震えていることに気づき、私は驚いて彼を見つめ返した。
「もしかして……旦那様が、三日間ずっと私のお傍にいてくださったのですか?」
「当たり前だ」
一切の迷いもない、即答だった。嬉しさよりも先に、申し訳なさが胸に込み上げてくる。
「ですが、お仕事は……」
「すべて副官と部下たちに任せた」
「三日間もですか!?」
軍の要職に就く彼が、私用でそれほど長く持ち場を離れるなど、本来あってはならないことのはずだ。私が血相を変えて身を起こそうとすると、冬真様は慌てて私の肩を押し留めた。
「妻が生死の境をさまよっているときに、仕事などしていられるか」
「生死の境というほどでは……お医者様も、ただの疲労だと」
「私にとっては、そうだったんだ」
有無を言わせぬ強い声。そして、射抜くような薄青い瞳。冬真様は私の手を自分のおでこに押し当て、まるで祈るように目を閉じた。彼がどれほどの恐怖と戦いながらこの三日間を過ごしたのかが伝わってきて、私はそれ以上、反論する言葉を失ってしまった。
「あの……」
「なんだ」
「……篝宮家は、どうなりましたか」
私の問いに、冬真様の表情がすっと険しくなる。
「罰を受けることになった」
父と継母は、軍の予算を騙し取った詐欺と横領の罪を問われ、そのまま牢へ入れられたという。篝宮家の屋敷や財産は差し押さえられ、家名も事実上潰えることになった。
美弥子様は不正に関わった証拠こそなかったものの、一人で暮らすこともできず、遠い田舎に住む父方の親戚へ引き取られたらしい。華やかな生活を何よりも愛していた彼女にとって、それはある意味で牢獄以上の罰かもしれない。
「お前の御母堂の遺産については、弁護士を立てて可能な限り取り戻す。すべてとはいかないかもしれないが、お前が今後困らずに暮らせるだけのものは残るはずだ」
「そう、ですか」
実家がなくなった。けれど、不思議と悲しくはなかった。母との思い出まで失われたわけではない。あの屋敷に残っていたのは、母との思い出を利用し、私を都合よく縛りつける人々だけだったのだから。ほっとする一方で、私の胸の中に、ある一つの懸念が浮かび上がった。
「旦那様」
「何だ」
「私たちは……離縁した方が、よいのではないでしょうか」
冬真様の表情が、ピタリと固まった。
「……熱で頭までおかしくなったのか」
「真面目に申し上げております」
「ならば、なお悪い」
「旦那様が私と結婚なさったのは、国内の旧家と縁を結ぶためだったのでしょう?」
北方の異国人を母に持つ冬真様には、軍部でも彼を警戒する者が多い。だからこそ、国内の歴史ある旧家の令嬢と婚姻し、立場を盤石にする必要があったはずだ。
「けれど、篝宮家はなくなりました。犯罪者の娘となった私と結婚している意味も、もう……」
「離縁しないと、お前は言ったではないか!」
冬真様が、苛立ったように私の言葉を遮った。父や美弥子様たちに詰め寄られたときのことだ。彼らに面と向かって「離縁はしない」とはっきりと宣言した私の言葉を、助けに駆けつけてきた冬真様は確かに聞いていたのだ。
「それは、私にまだ『利用価値』があると思っていたからです」
「利用価値など、どうでもいい!」
「ですが、旦那様の将来に関わることです」
「旧家との縁が欲しければ、家の不正が明らかになった時点で、とっくにお前を追い出して別の令嬢を娶っている!」
冬真様は、寝台の縁へどさりと腰を下ろした。
「私は、それをしているか?」
「いいえ……でもそれは、旦那様がお優しいからで……」
冬真様は苛立ったように、銀色の髪をガシガシと掻き上げた。
「お前はどうして、自分のこととなると妙なところで鈍いのだ」
冬真様は呆れたように深くため息をつき、ガシガシと銀色の髪を掻き上げた。
「鈍い、でしょうか……?」
「鈍い。恐ろしく鈍い」
私が小首を傾げると、冬真様は呆れ果てたような、けれどどこか熱を帯びた眼差しで私を見つめた。
鈍いと言われてしまうのも、無理はないかもしれない。けれど、私だって彼からの不器用な優しさに、まったく気がついていないわけではなかった。
ただ、実家で愛情を与えられずに育った私は、自分に向けられる好意を無条件に信じることがどうしても怖かったのだ。勝手に期待して、勘違いだったと後で傷つくくらいなら、鈍感なふりをしている方がずっといい。
それに――これからの二人の一生に関わる大切なことだからこそ。態度だけで分かった気にならず、彼自身の口から、ちゃんと言葉にして伝えてほしかった。
「……言わなければ、分からんか」
私の心を透かして見たかのように、冬真様が静かに口を開いた。顔を覆っていた手が下ろされ、耳の先まで真っ赤に染まった冬真様が、逃げることなく真っ直ぐに私を見つめてくる。
「お前を、愛している」
心臓が跳ね、私は息を止めた。
「最初は、奇妙な女だと思った。太っていた私を見ても嫌がらず、金目当てかと疑えば礼を言い、醜いかと聞けば『余分な肉はあるが鼻筋は綺麗だ』などと答える」
「それは、本当にそう思いましたので……」
「今は口を挟むな」
「はい」
「朝になれば、頼みもしないのに起こしに来る。勝手に食事を変え、嫌だと言っても強引に散歩へ連れ出す。私の体調を気にかけ、なんでも首を突っ込む」
「……ご迷惑でしたか」
「最後まで聞け」
叱られて、私はきゅっと口を閉じた。
「気づけば、朝にお前の声が聞こえなければ落ち着かなくなった。食卓にお前が向かいに座っていなければ、どれほど美味い料理も砂を噛むようだ。仕事を終えれば、一秒でも早くお前に会うために屋敷へ帰りたいと思う」
冬真様の大きな手が、布団の上に置かれた私の手を、壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。薄青い瞳が、切なげに細められる。
「私の心は、もうすっかりお前でいっぱいなのだ」
目の奥が、じんわりと熱くなった。
「だから、離縁など絶対にしない。家柄も遺産も、利用価値も関係ない」
冬真様の指先に、ぎゅっと力がこもる。
「お前がいい。千鶴でなければ、何の意味もないんだ」
「旦那様……」
「私は、お前を愛している。利害関係の契約上の妻ではなく、この先もずっと、俺の本当の妻でいてほしい」
ぽろり、と。こらえきれなくなった涙が、私の頬を伝ってシーツへ落ちた。それを見た瞬間、冬真様の顔からスッと血の気が引いた。
「痛むのか?」
彼が慌てたように身を乗り出し、私の頬へ恐る恐る指先を伸ばす。私はその温かい手を自分の両手で包み込み、ゆっくりと首を横に振った。
「違います」
「では、なぜ泣くんだ」
「嬉しいのです……っ」
喉の奥が詰まって、声がひどく震えてしまう。私がしゃくり上げると、冬真様は不器用な手つきで私の目尻の涙を拭いながら、ひどく困ったように眉を下げた。
「……嬉しいなら、笑え」
「ふふっ。嬉しいときにも、涙は出るのですよ」
論理で動く軍人らしい極端な言葉がおかしくて、私は涙をこぼしながら笑った。泣き笑いのような私の顔を見て、冬真様は降参したようにふっと息を吐く。
「……女心というのは、本当に難しいな」
お手上げだと言わんばかりの言葉とは裏腹に、私を見つめる冬真様の瞳は、春の陽だまりのようにどこまでも優しく、甘く細められていた。
「私も、旦那様をお慕いしております」
涙で滲む視界のまま、私は自分を包み込んでくれている大きな手をきゅっと握り返し、まっすぐに彼を見つめた。
「……本当か!」
まるで信じられない夢でも見ているかのように、冬真様がすがるような、かすれた声で問い返す。
「はい。以前の、少しふくよかだったお姿のときから、ずっと」
「……そこは、あまり強調しなくてよい」
私の言葉に、冬真様はバツが悪そうにスッと視線を逸らし、端正な頬をほんのりと赤く染めた。
「けれど、大切なことでしょう?」
私は小さく首を傾げて、ふふっと微笑んだ。
彼がどれほど見目麗しい姿に変貌しようとも、私が惹かれたのは決して外見ではない。不器用で、本当は誰よりも優しい『旦那様自身の心』に触れたからこそ惹かれたのだ。そのことだけは、どうしても誤解のないように伝えておきたかった。
私の真意が伝わったのだろう。冬真様は降参したように深く息を吐くと、再び熱を帯びた薄青い瞳で私を見つめ返した。
「……まあ、そうだな」
照れ隠しのようにぶっきらぼうな相槌を打つその顔は、私がこれまで見てきたどんな表情よりも優しく、甘い愛情に満ちていた。
「口づけてもよいか」
夫婦になってから、すでに半年以上が経っている。それでも冬真様は、やはり私の意思を大切に確かめてくださる。
「はい」
私がそっと目を閉じると、震える唇に、柔らかな温もりが触れた。短く、羽のように優しい口づけだった。唇が離れたあとも、冬真様は名残惜しそうに私の手を握り続けていた。やがて、何かを思いついたようにパッと立ち上がる。
「そうだ。お前、三日も寝込んでいて腹が減っているだろう。何か粥でも作ってこよう」
「え?旦那様が、お作りになるのですか?」
「粥くらいなら、私にも作れる」
真剣な顔で言い切る冬真様に、私は慌てて引き留めようとした。
「あの、お気持ちは大変嬉しいのですが……お料理人の方に頼まれては……」
「いつもお前から与えられてばかりだからな。私も、お前に何か返したいんだ」
「ですが、旦那様は厨房に立たれたことが……」
「馬鹿にするな。参謀本部でいくつもの複雑な作戦を立ててきた男だぞ。米を煮る程度で失敗するものか」
自信に満ちた顔で、冬真様は意気揚々と部屋を出ていった。
――その後、火加減を間違えた鍋から盛大に湯を噴きこぼさせ、見事に米を黒焦げにし、慌てて水をかけたせいで厨房を水浸しにした冬真様が、激怒した料理長から『厨房立ち入り禁止』を言い渡されることになるのだが。それは、もう少し後の話である。
私は今、愛する人の不器用な優しさを思いながら、温かな寝台の中で彼の帰りを待っている。
もう、涙をこらえるために無理をして笑う必要はない。胸の奥から溢れ出す喜びのままに、私は自然と微笑んでいた。
母の言葉どおり、その日の自分にできることを精いっぱい続けてきた先で、ようやく私は、自分の本当の幸せを見つけたのだ。
――もうすぐ運ばれてくるであろう、少し焦げた匂いのする愛おしい足音を、私は心からの笑顔で待ちわびていた。




