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ある少女の回想録ー家庭センターの惨状よりー  作者: 雨宮雨霧


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2/3

春の刑務所

 夏休みが終わり、いつも通りの学校生活を送った紗菜。

 家庭センターのことは誰にも話さないで、と母に言われていたので忠実に守った。

 追突されたときに痛めた足首は運動会の練習もあったことでしばらく経っても治らなかった。 


 お正月に親戚一同が集まったときに、カウンセラーやら通級の先生やらが言っていたようなことをひたすら言い続けられていた。

 言い続けられたのは母だったけど。同じ空間、なんなら隣で言われながらおせちを食べていた紗菜。

 お昼間なのになんでこうも暗いのかと落胆していた。なんにも楽しくなかった。

 なにを言われようと自分は母と暮らしたかった。なんで駄目だって言われるのか意味が分からなかった。今も分からない。


 また家庭センターに行くことになるなんて思っていなかった。

 小学4年生ももう終わろうとしていた。


 ◇


 小学4年生の修了式の日のことだった。

 夏に行ってから半年以上が経ったとき。それくらいしか経っていなかったとき。

 その日は金曜日。

 仲の良かった子が久しぶりに放デイに来ると聞いて、いつもは金曜日に放デイに行くことはないが、焼き芋パーティをするとかで大好きな友達も来るとかで行くことになっていた。

 楽しみだった。会えるのが。

 大掃除も終わって、帰る準備もできたとき。担任の先生から「帰らず教室に残っていて」と言われた。

 担任でさえ不思議そうな感じだった。真実を伝えられていなかったのだろう。

 そのときは放デイ側がなにかまたアクシデントでも起こしたんだろうって思っていた。

 一度、一時間以上待っても迎えに来てもらえなかったことがあったこともあって。

 そのときは担任の先生も、誰もこんなことになるとは思っていなかった。

 誰もがびっくりしたのだと、通級の先生も言っていた。

 なぜか分からないのに残るように言ったというのも不思議ではあるが。なんと言われて、紗菜に残るように言ったのかは分からない。

 みんなが帰っていくのを見送って、担任の先生と相談室に行って荷物を床に置いた。

 この相談室に入るのも久しぶりだった。元はカウンセリングルームだったはずだが、いつの間にか使われない部屋と化していた。PTAの物がいっぱい置かれていた。

 どれだけ待っても迎えに来ない。

 お昼ご飯はどうするか、という話になって放デイから買いに行く用のお金があることを先生に言った。

 そして先生たちと学校の近く、とはいえ子どもの足からすれば離れているコンビニに行った。

 先生たちと行くなんて初めてだったし、給食がない日はこうやって買いに行っていることも知らなかった。

 放デイから買いに行くはずだったのにな、と思いながら先生たちとコンビニに行った 。500円玉を持っておにぎりを買った。

 学校の相談室に行って、担任と通級の先生がその場に居た。

 これまた不思議な光景。

 通級の先生が遊べるものを持ってくるからと相談室を離れた。

 おにぎりを食べようとしたとき、警察が部屋に入ってきた。

 ああ、なんかあったな。そう思った。

 警察三人。女性一人、男性二人。

 その日は学年内で起こったいじめで警察が指紋を取ったりしていた。

 まるでドラマ。本当にこういうのするんだ、と関心したりもした。

 だから警察が居る、ということは特に気にしていなかった。

 というわけでその件かと思った。友達は落書きされているのを見たって言ってたな。なんて思って。自分見てないのになんで来たんだろう?と。

 なにも知らないと言おうと思ったらそんな要件じゃなかった。

 わけがわからなかった、なにかあったことだけは分かった。

 母がついに死んだんじゃないかって戦慄した。

 裏門の方から白い車に乗せられ、担任に見送られ。どこへともなく連れて行かれた。

 女性の警察官が酔わない?って訊いてくれた。

 めっちゃ酔うくせして首を振って。そんなに遠くの警察署まで連れて行かれるとか思っていなかった。

 町の交番しか知らなかった。交番を通り過ぎて、どこまで連れて行かれるのか怖かった。

 酔っても人見知りだし言えず。半分死にかけながら連れて行かれた。


 やっと着いて、警察署だって分かって。多分取調室だったと思う。

 薄暗い、窓もない部屋につれていかれた。チカチカ光る蛍光灯。 あの部屋はすごく気持ち悪かった。 気味が悪かった。

 学校から買ってきたおにぎりを食べて。でも環境が変わったら食べられなくなるといういつもの状態になってしまった。

 吐き気をこらえながら無理して時間かけて食べて。でも結局残した。

 さっきまで学校に居たのに。学校で食べようとしてたのに。放デイに行くはずだったのに。そんなことばかり思っていた。

 なんでこうなっているのか、説明もされないままだった。

 こうなったのも全部放デイのせいだって思っていた。

 迎えに来なかったせいでこうなった、と。

 早く帰りたかった。

 春休みだしゲームでもしたいし。

 その日は17時には帰る予定だった。

 放デイの日誌を見せて、帰らないといけないことをどうにか伝えようとした。

 帰りたかった、とにかく。

 日誌を読まれている間、なにかを必死に話した気がする。

 放デイでなにをしているか、とか。今日は友達が来てるんだ。焼き芋パーティがあるんだ。とか。

 読まれた後、身体を見ていいか聞かれた。

 上着ごとめくって見られて。

 またしばらく体感の上では時間が経って、男性の警察官が女性の警察官になにか話をしていた。

 それをただ見ていた。早く帰りたかった。帰らせてほしいだけだった。

「行くよ」的なことを言われて、ランドセルを持ってまた車に乗せられた。

 車が走る道路には見覚えがあった。

 家庭センターに行ったときの道路だと。

 助手席に居た警察官が、無線に「入院させれたか」と言った。

 全部分かった。引き離されたんだ。

 もう諦めた。帰れないや、そう思った。

 運転している警察と助手席に居る警察がなにか話していた。

 入院させれた?させれた。そんな感じのことを。

 母が生きているということが分かって、安心した。

 お昼に連れて行かれてからずっと気がかりだった。


 少し日が長くなった3月。

 夕暮れ時に家庭センターに着いた。

 受付みたいなのがある場所で少し待たされ、家庭センター内のまた部署の違う職員とドラえもんの塗り絵をして待った。

 家庭センターの誰かが来て、連れて行かれた。

 ドラえもんの塗り絵はどうするかと訊かれ、どうせ私物禁止ならそれも駄目になる。ということで一緒に居てくれた職員に預けておいた。

 タンスとか机が置かれた職員室に通され、家庭センターで着る服と下着を2着貸してもらった。

 まだ冬場ということもあって、Tシャツ2枚と暖かいとまではいかないスゥエット的なものを2着貸し出された。

 夏しか行ったことがなかった紗菜。4枚になったのか?と思ったのかなにも理解せずにTシャツだけ着た。

 夏場はTシャツだけで過ごせたから。考える頭がないというかなんというか。

 わざわざ職員も教えてくれるほど暇ではない。

 ランドセルも、服も、全部没収されるのは分かってたし、2回目だったし、下着も使いまわしというのはそこまで驚くこともなかった。

 何なら前と同じパンツだ、とさえ思った。1枚同じものだった。つまりずっと使い回されてきたもの。

 夏と同様に家庭センターのルールを聞く。

 相変わらず滅茶苦茶なルールだった。

 約半年が経っただけということもあって、ルールも覚えていた。部屋の場所も覚えていた。

 夏と同じように自己紹介をして席に座って。

 ルールは覚えているけど知らない振りをして教えてもらった。

 中学生も最初は優しくしてくれる。でもだんだんといじめが起きる。

 それが当たり前。乱暴はされないけど言葉の暴力は酷いもので。誰に対しても、それは起こった。

 その日入所したときは小学生が二人居た。うち一人は何年生だったかは覚えていないが、低学年だった。

 その子は3月中に退所して行ったからあまり覚えていない。

 夏の初日と同じように、ご飯を食べてからの自由時間にお風呂に入った。

 夏場よりも風呂は寒かった。そりゃそうだ。広いお風呂場で一人では。それにまだ3月なのでは。

 お風呂は出入口から一番奥にあるシャワーと奥から2番目のシャワーが一番水圧が強かった。

 出入口に近くなるほど水圧が弱くなっていく。

 ご飯はやっぱりなかなか食べられず、ご飯小の少なめにしてもらった。幼児さんと同じ量。

 ご飯小の少なめ、小、中、大と食事の量が決まっていた。

 名前のシールの色も食事の量と合わせられていた。配膳しやすいように、だろう。

 それからは同じ生活を繰り返した。


 前は2週間くらいで退所したのもあってそれくらいかと身構えていたが違った。

 今がいつかも次第に分からなくなっていく。自分がいつ家庭センターに入所したのかも分からなくなっていく。

 今日の日付はもちろん分かっても、分からない。

 いつ退所できるんだろう、学校行けるのかな。

 もう4月になっちゃう。

 桜見たかったな。

 色々と考えていた。考えてもなにも分からない。分からなかった。

 16時からの読書。その時間に船の汽笛が聞こえてくる。

 窓はブラインドがかかっていて外もなにも見えない。

 青空が隙間から見えるとか、夕日が差し込んでくるとか。藍色になっていく空が隙間から見えるとかはあったけど。

 外というものが見たかった。外が恋しかった。

 家庭センターではないものをなにか見たかった。聞きたかった。


 たまに中学生が精神的に爆発して、寝られないときもたまにあった。

 気持ちは分かるし中学生ならなおさら、だと今は思う。

 寝ているときに聞こえてくる叫び声、壁かなにかを殴る音。それを止めようとする職員。

 嫌われている職員がその日夜勤だったことも災いして余計に悪化した。

 大丈夫だから、と職員が言いに来たが大丈夫もなにもない。寝れない。

 幼児さんは起きてしまわないのか、と思っていたがどうやら防音になっているらしかった。

 次の日の朝はとても眠かった。小学生の部屋は時計が部屋の玄関口の壁にかかっていた。だからあれが何時の出来事で、とかは分からない。見ようとしても見えない。電気をつければ怒られるし。

 お昼ご飯が終わってから女子全員が集められ、夜のことでなにかの話をされた。

 全員目を伏せて、質問が重なっていく。

 寝れなかった人、と訊かれ、手を挙げるというよく分からないことを繰り返し。

 今その子を精神的に追い詰めているのは家庭センター側だろうに。犯人に仕立て上げるような感じで気味が悪い。

 何度か精神的に爆発する子は居たし、男子中学生にも一人居た。

 階段の踊り場で倒れている子も居た。

 その子はよく刃物を求めていた。料理するから包丁貸して、工作したいからハサミ貸して、等を。

 絶対もう限界なはずなのに。職員はできない、で終わらせていた。

 紗菜でも分かった。死ぬために刃物を求めていると。

 そして思い出していた。母が包丁で自殺しようとしていたあの夜を。

 だからこそ、仲良くはなれないけど。嫌いにもなれなかった。いじめられたとしても。


 紗菜が入所してから何日か経って、入所してきた子と仲良くなったりもした。

 毎日のように入れ替わる。退所する子よりも入所してくる子のほうがその時期は多かった。

 あっという間に女子のテーブルが満杯になって一台足された。

 3月の終わりで小6だった子が二人。その二人のうち一人は紗菜が入所したときにルールを教えてくれた子。仲良くはなれなかった。

 もう一人は紗菜が入所してから入ってきた子。なみちゃんとは話せるようになった。

 3月で小6、つまり4月になったら中学生。

 そうなると中学生の部屋に移動ということになるが満員御礼で。進学してからもしばらく小学生の部屋で過ごすことになっていた。

 なんでや、とよく愚痴っていた。

 紗菜は普通に中学生の部屋の二段ベッドに憧れていた。それだけ。それ以外は憧れもない。雑用ばかりだから。

 小2だったあいちゃんは入所してから風邪かなんなのかは知らないがしばらく個室で過ごしていた。こともあって日頃の鬱憤が溜まりに溜まっている小学生三人は個室で過ごしていることを甘えだと考えたりして、たまに見かけたりしても冷たく接していた。

 あいちゃんの妹も一緒に入所していて、まだ小さかった。3歳とかだった。

 あいちゃんの妹の名前と高校生の子の名前が偶然にも同じで。

 妹ちゃんは可愛がられた。心底可愛がっていた。

 なのに高校生の子には同じ名前やのに違いすぎやろ。と陰口を言う中学生たちが居た。

 家に居場所がなければここにもどこにも居場所がない。なんていうのはザラに起きていたことだろう。

 高校生の子が中学生にいじめられるというジンクスがあった。

 夏に行っていたときもそうだった。高校生が1人しか居ないということもあったのだろうが。

 優しくしてくれる子は大抵いじめられる。疎外される。それが日常、しんどくてもどうしようもない。


 いつから個室からみんなと過ごすようになったのかは忘れたが、紗菜はあいちゃんと仲良くなった。

 4月が始まる数日前に同い年のくるちゃんが入ってきた。

 紗菜が入所してそんなに経っていないはずなのに。まだ一週間くらいだったはず。どれだけの時間、ここに居るのか分からなくなっていた。

 毎日のように誰かが入所してくるのも影響したのかもしれない。

 最初の自己紹介のとき、くるちゃんの髪が男の子みたいに短くて、星の柄がプリントされた服だったこともあって一瞬男子かと思ったが女子だった。

 ということで女子は盛り上がる。

 くるちゃんは1年生の子が居た席に座った。

 お父さんが髪を短くしろって言ってくるから伸ばせないんだと言っていた。

 あとよく名前をいじられてクルクルパーと言われるんだと教えてくれた。

 名付けておきながらなんだそれはと紗菜は思った。

 日常に何の刺激も情報もないせいで入所してくる子というのは特別だった。運動会みたいな行事ごとと同じような楽しみがあった。

 それくらいしか楽しみはなかった。

 日に日に増えていく人数。布団を敷く場所も段々と狭くなっていくのを感じた。

 横を向けばなにもない畳、カーテンの隙間からビルが覗いていたのが右を向いても左を向いても人が居る。

 掃除の時間は人数が多いほうが一人分の負担が減る。悪くはなかった。

 この時点で入所してから一週間しか経っていないはずなのに。不思議なことに、一ヶ月以上居るような気がしていた。

 なぜかは知らないが。その時期はよくドライヤーが壊れていた。紗菜の髪は長かったこともあって、またもや配置されている職員によく手伝ってもらったりしていた。

 切らないのかと訊かれても切らないと答えた。

 初夏にある林間学校の前にヘアドネーションをするつもりだった。


 ついに4月。

 まだ春休み、とはいえもう離任式があるし始業式だし。もう学校が始まってしまう。

 いつ帰れるのか。学校に行けるのかそればかり考えていた。

 家庭センターからでは通っている学校に行けない。近くにある学校にも行くことはできない。

 ずっとこの場所。

 4月になると学年が一つ上がる。そういうわけで小学生になった男の子とは話せなくなる。

 未就学児であれば男子でも女子でも話せる。異性と話してはいけないなんてものは関係なかった。それを嫌がっていた女子たち。

 その子は4月に入る前に退所した。てなわけで話すもなにもない。

 幼児さんは癒やしでもあった。だからこそ寂しいというか、喪失感というか。

 あいちゃんに「ここから脱走したら何があっても2ヶ月個室に閉じ込められるよ」と教えられた。

 流石に怖すぎて戦慄した。

 グラウンドの右端に小さな滑り台があって、また右に行くと花壇があった。

 その花壇の右横を見れば頑張れば越えられそうな白い壁、多分ドアがあった。

 越えたとしても外に出られるのかも分からない。それでも外に出たかった紗菜。

 でもそれを聞けば脱走するのはリスキーでしかない。それこそ行きたい学校に一生行けなくなってしまう。家にも帰ることができない。

 外に出たい、と思うまま時間は過ぎていった。


 中学生に上がった二人にまだ市歌なんか歌ってんの?とマウントを取られたりもした。

 中学生の勉強は教員免許を取っている男性の職員が教えていたらしい。

 授業なのかなんなのかは分からないが。学年もバラバラなのにどうやって教えていたんだろう。それは永遠の疑問だ。

 部屋の押し入れの中に入ってはいけないというルールがあったが平気で入って遊んでいた。

 二人に注意されてもお構い無しで。

 そのとき何回入所したことがあるか、という話になった。

 くるちゃんは3回目。紗菜は2回目。あいちゃんは10回目!?

 くるちゃん先輩だなあ。あいちゃんもうベテランじゃん。まだ8歳だよね?なんて思ったりした。

 それでまた注意される。何回入ったか教えたら駄目だと。

 分かっていてもやる。他にやることなんてない。楽しくない。


 ご飯を食べるたびに吐き気に襲われていた紗菜もこの場所に慣れてきたのか、食べられるようになってきた。

 くるちゃんとあいちゃんと薬が入っているほぼ空っぽの冷蔵庫の前によく立っていた。

 今日のご飯なにかな、と。

 冷蔵庫に献立表が貼られていた。

 男女でご飯を持っていく場所が違っていた。左側の配膳場所が男子、右側が女子。

 ご飯の時間になると閉まっていたシャッターが職員の手によって開かれる。

 普通に食べることができるようになってからその瞬間が楽しみになった。

 たまに出たラーメン。

 昔ながらのラーメンどんぶりに入っているのを見てテンションが上がった。

 なるとも入っていた。

 醤油派か味噌派か、という話も周りとした気がする。

 醤油派が多かった。


 日曜・祝日は大掃除が基本だったけど、大掃除じゃないときもあった。

 壁面装飾は4月と5月のものを月末に二回作った。自分は4月だけ作るんだろう、と思っていたのに退所できなくて5月も作るという予想外に発展。

 風鈴を作ったり、けん玉を作ったり。と言っても1から作ったわけではない、流石に。既製品に好きなように絵を書いたりした。

 風鈴もけん玉もカービィの絵を書いた。

 風鈴は退所してしばらく経ってから飾ったが、一瞬で割れた。

 けん玉は作ったときに行われたけん玉大会以外で使われることはなかった。

 くるちゃんは小学生の中でもけん玉が上手だった。

 紗菜はお察しの通りできず。

 開き直るしかなかった。


 二週間に一回くらいだっただろうか、リネン類の取り換えがあった。それも日曜だったと思う。

 布団カバーを剥がすのも掛け布団のカバーを外すのも、付け替えるのも大変だった。

 お察しの通り不器用で。

 それくらいの頻度で床屋さんだかなんだかが来ていた。

 紗菜には関係なかったけれど、切りたい人は願い出ていた。

 またあの男子坊主にしてる、とか噂されている人も居た。


 初めて心から死にたいと思ったのも家庭センターに閉じ込められてからだった。

 学校も行きたくて行けないし、誰とも会えないし。

 毎晩死にたかった。昼間だって死にたかった。

 この窓が開いたら死ねるのに、って思った。2階からじゃ無理があるけど。本気でそう思っていた。

 掃除の時間、掃除機をかけているときに。この窓が鬱陶しかった。タンスに押し潰されたってよかった。

 たまにケースワーカーの人との面談があった。

 そのときだけは、家庭センターは家庭センターだけど。内部のビルに行ける。少しは違う、それすら救いに思えた。

 ビルに行くには職員室を通って行く。

 外に通じる施錠されたドアが右手にあって、前にエレベーターがあって。逃げ出したかった。できなかった。勇気もなければお金もないしどうしようもない。

 5階とかに面談室があった。ここもブラインドが閉められていた。

 ここが開いたら死ねるのに、と思った。

 死にたくてたまらなかった。


 離任式も行きたかった。始業式も行きたかった。行けなかった。

 始業式であるはずだった日に、家庭センターでもそういう式みたいなのが開かれた。

 もちろん大ホール、いつもの部屋で。

 一人ひとり頑張りたいことを発表していった。

 紗菜は小さい子のお世話をしたい、とか言った。

 終わればいつも通り勉強の時間。

 なにも変わりやしない。


 校長と新しい担任と。通級の担当の先生が面会に来てくれたことがあった。

 びっくりしたけどうれしかった。安心した。人見知りで話せなくても、とてもうれしかった。

 19時過ぎとかで、先生たちが仕事終わりにわざわざ来てくれたということ。

 校長先生も担任の先生も。通級の先生も忙しいのに。大変なのに。

 新しい漢字ドリル、計算ドリルも多分そのときにもらえていたんだと思う。その前だったかもしれない。

 ドリルが唯一の心の拠り所と言ってよかった。いつもなら宿題なんてしたくないけど。やりたかった。

 そのときはすごい緊張して。

 先生たちとは顔見知りだし、担任になった先生とも顔を合わせたことは何度かあった。

 だけど緊張しすぎて。校長まで来てくれるとは思っていなかったし。

 クイズ形式で何のスポーツをしていたか訊かれた紗菜。答えることはできなかったが、校長が茶々を入れたりして場を和ませてくれた。サッカーをしていたんだと担任は教えてくれた。

 図工の先生も優しいし、保健室の先生も変わってないからね。他の先生も優しいから。大丈夫。色々と励ましてもらった。

 クラスメイトも仲のいい子も、近所で親友の子も居ると伝えられた。親友の子とは林間学校も同じ班だから、と教えてもらった。

 クラブ活動は第一希望のクラブで、まだ一回しか活動してないから。委員会は決まったけど、まだ顔合わせしてないから。色々伝えてもらった。

 思い返す度に頭が下がる。

 校長と担任が先に帰って、通級の先生と20時とかくらいまでまた別の面談室に居て。

 窓の向こうの外の木がイルミネーションで彩られていて。観覧車は光っていて。やっぱり外に出たかった。

 まるで夢みたいな景色だった。また別の景色。外という景色。

 通級の先生におんぶをしてもらった気がする。全く離れたくなかった。

 そのときに通っている放デイで仲良くしていた男の子が引っ越したんだと教えてもらった。

 修了式の日に会うはずだった仲の良かった子には会えず。その男の子にも会えず。

 学校に行きたい。帰りたい。放デイも行きたい。強く思った。

 それから毎晩泣いていた。学校行きたいって、泣いていた。たまにというかほぼ毎日家に帰る夢も見た。脱走して、家に帰る夢を。

 目が覚めて、見えるのは家庭センターの木の天井と、カビの匂いが漂う部屋と、タンスと。苦しかった。やっぱり帰られないんだと。


 ある夜、夜勤の職員に寝るまで頭を撫でられ続けた。そのせいで全く寝付けなかった。

 そんな撫でるなし、寢れんし。てかハゲるって。

 家に帰りたいと思いながら、撫で続けてくる職員に苛立ちながら。

 おかげで朝は眠かった。

 眠い、と言うとその職員に「寝るの遅かったから」と返された。

 いやお前のせいやんけ。口にはしなかったけど心のなかで叫んだ。


 その頃にはご飯小の少なめでは足りない、寝る時間にはお腹が空いている状態になった。

 家庭センターに慣れていっていた。

 それであいちゃんと職員にご飯小に戻して、と頼んだ。

 多分そのときに職員の名前がなにか当てるゲームが始まった。

 知らなかった、その職員の名前を。

 47都道府県どれかの名前。ヒントはそれだけ。

 紗菜は学校の授業で覚えた都道府県をひたすら投げつけ、その度に外れ。

 最終的には折れて教えてもらった。


 ラジオ体操等をやっているときに雨が降ってきた。

 雨に濡れるとハゲると中学生が騒いでいるのを聞いた。

 そうなのか、と紗菜は学んだ。なんでハゲるのかはそのときは知る由もなかったが酸性雨のことだったんだと退所してから知った。

 ある男性の職員二人が揃って出勤の日は雨が降るというジンクスがあった。

 ただ二人とも雨男というわけでもないという噂。片方は晴れ男だけど片方は雨男という。

 それで職員にみんなで雨男と言って室内に入った。

 今思えば可哀想な話だ。


 一度、男子全員が退所して女子だけになったときがあった。

 異性とは話したら駄目だったしそんなのどうでもいいはいいんだけど。

 後ろを振り向いてみれば男子側のテーブルに誰も居ない。どこか羨ましかった。

 男子のほうが愛されるんだという話を聞いたことがあった。やっぱりそうなんだと思った。

 男子が居ない日は二日もなかったが。

 お昼のときに、誰かお風呂掃除をしてくれないかと職員が女子中学生に頼んでいた。

 男子が居ない以上、代わりを務めるのは自動的に女子になる。

 先生もやるから、と嫌々ながら中学生たちが掃除に行った。

 思ったよりも楽しそうに掃除をしていた。

 紗菜たちはいつもより広く感じられるグラウンドに行った。


 おやつを食べたあとの掃除が終わったら男子小学生の部屋で時間潰す。

 夏はぼーっとしたりして過ごしていた。今回は謎の遊びが始まった。

 刑務所!刑務所!って手を叩きながら全員ではやし立てた。楽しかった。異質だけど。

 そのときだけは一体感が生まれる。いくらいじめてようといじめられてようと、一体となる。

 その場に居た勉強を見るおばさんが気まずそうにしていた。 最近入ったばかりなのに洗礼を受けていた。

 部屋の窓は換気できるくらいの幅しか開かないし、閉じ込められているんだからムショ同然だった。


 いじめも日常茶飯事ということで。仕方がない話ではある。中学生の子たちなんて当時の紗菜よりもっと辛かったはずだ。外も行けずに学校も行けずに友だちに会うこともできない。

 家庭環境がどうだった、というのは知らないが。ある中学生の子は親との面会があると泣いていた。

 また叩かれる、と。

 中学生と仲は良くなかったし、一緒に過ごしているからって話すわけでもない。

 それでも可哀想というか、なんというか。

 紗菜からすれば怖いと思う対象だった、過呼吸でよく倒れていた子が「大丈夫」と面会のある子に言って慰めていた。

 みんなそれぞれ大変なんだと分かった。

 数日だけだが、叩かれると怯えていた子と夜に編み物をして過ごしたこともあった。

 優しい子なのは分かっていても、緊張した。


 たまに心理士さん、謎のおばさんに知能検査をされたりした。

 謎のおばさんのときはケースワーカーが隣に居た。

 人見知り全開の紗菜。なにをどう答えたらいいのかも正解なのかも分からず。正解なんてなくても話せなかった。


 いつの面談だったかは忘れたが、ケースワーカーに「帰りたいか」と聞かれた。

 この人何言ってんだ。そう思いながら帰りたいと即答した。

 その日くらいになみちゃんが「施設入ることになるかも」と教えてくれた。

 なにも言えなかった。反応に困った。

 なんせ自分は家に帰りたいんだから。

 でも同時に思った。

 あの質問って、そういうこと?家に帰らせないための、施設に行かせるための質問だったの?

 帰りたいって言わなかったら。そう思うと背筋が凍った。

「紗菜はどうするの?」

 なみちゃんに訊かれた紗菜は、分からないとだけ答えた。

 分からない。帰れないかもしれない。帰れるかもしれない。

 帰れるとしても、施設に行くなみちゃんに言えるはずもない。

 傷付けるのは嫌だった。


 くるちゃんとあいちゃんと、グラウンドに出られるときはひたすらダンゴムシを捕まえて遊んでいた。

 滑り台の場所にある桶を使って、毎日のように集めていた。

 花壇にいるダンゴムシを。

 中学生からはまたやってる、と呆れられていた。お風呂から上がってからもそんなことをしていた。呆れられていたし汚いとも呟かれていた。

 室内は基本、紗菜は漫画を読んでいた。

 シリーズを読み終わっても繰り返し読んで。吹き出しの言葉も覚えるほどに。

 某名探偵の漫画も置かれていて、繰り返し読んでいたものに飽きてから読み始めた。巻数が多すぎて読み終わらなかった。

 夜はミサンガだったりマフラーを編んだりした。

 くるちゃんとあいちゃんが四六時中隣に居るということはなかった。

 一人で黙々と作業するか読書をするか、で個人の時間というものをどうにか作っていた。

 あいちゃんと職員と、UNOをしたこともあった。

 職員に目をつぶってもらって、あいちゃんとドロー4とドロー2を抜き取って、手持ちのカードとして持った。

 職員にそんなことで嫌がらせをしていた。ルールガン無視だけれど、それが楽しかった。


 日常茶飯事のいじめ。自分もやった。そう、紗菜もやった。

 中学生に媚びる子がいて、でも全然いい子とかでもなくて。疎外した。同じことやってんじゃないよ、って感じだが。

 小学生の間でだったら、4月のうちにはなんでか紗菜に一番決定権があった。

 中学生になった子が抜け、紗菜が小学生の間で入所したのが一番早いことになったのも影響したのかもしれない。

 ずっとこっちを見てくる小学2年生とかだったろうか、女の子。

 一緒に遊びたいって、とあいちゃんが教えてくれた。くるちゃんに聞いてと言えば紗菜に聞いてと言われたと。

 どうするか。三人で固まってその子を見ていた。そのうち大ルームに戻っていった。

 感じ悪、という話になった。遊びたいなら遊べばいいのに、とくるちゃんが言った。同調した。こっちが悪いみたいじゃん、って。

 ダンゴムシ集めにも飽きてやめた三人。集めていることに気付いた職員に注意かなにかされて。

 同じようにダンゴムシを捕まえだした女の子に「可哀想じゃん、やめなよ」と3人で言った。

 お前らが言うなよ、と思ったことだろう。今の自分も思う。


 くるちゃんとご飯を食べているときであろうとなんだろうと遊びすぎて席を一席分離されたことがあった。

 最初は足を多少蹴り合っていたくらいだった。向かい合っていたこともあって段々バタ足になっていって。怒られてしまった。

 その後の最初は静かにしていた。でもそれも慣れてしまって遊んだ。

 ご飯を食べ終わって、食器を返すときにごちそうさまでしたと言う。

 ふざけてイントネーションをめちゃくちゃにして言っていた。

 ご↑ち↓そ↑う↓さ↑ま↓で↑し↓た↑てな具合に。

 くるちゃんを真似して、一緒にしばらくそう言い続けていたけど、ついにちゃんと言えと職員に怒られてやめた。

 勉強を見るおばさんが近くに座っていたときも遊びすぎて中学生に怒られたりした。

 数日経って席を戻してもらった。


 また押し入れで遊んだりしながら、くるちゃんにテイッシュでメガネ拭けば結構綺麗になるよと教えてもらった。

 くるちゃんと紗菜はめがねっ子。

 くるちゃんはメガネケースも持っていた。

 紗菜のメガネケースは家にあった。お風呂と寝るとき以外はずっとメガネをかけていたからケースを持ち運ぶ習慣がなく。

 学校から連れて行かれたせいで持っていけることもなかった。

 ランドセルの中に入れておけばよかったな、と紗菜は思った。

 メガネケースなら私物でも持ち込むことができたのに。


 ある夜、中学生がまた新たに入所してきた。

 家庭センターにある洋服の中でもかなりなんというか。色味の悪い服を着ていた。

 ゾンビ、と他の子たちが呼び始めた。

 あるときから仲良くなっていっていたが、最初から可哀想な扱いを受けていたのを覚えている。

 ゾンビは起きるのが遅いだとか。なにをするにも陰口を叩かれていた。


 いつだったか、中学生の間で喧嘩とかなにかあった。

 朝は卓球大会が開かれていたはずだったんだが。

 お昼ご飯を食べた後、紗菜とあいちゃんはやらなかったけどドッジボールをしていたはずなんだが。

 病院送りになって、昼間は中学生がほぼいなくて。いつもの威圧がなくて何なら過ごしやすくてよかった。

 夜に帰ってきたと思ったら骨折したのか、腕に包帯を巻いている子、松葉杖をついている子が居てびっくりした。

 その中学生たちは2日くらい個室に閉じ込められていた。

 個室とか入ったことがないから知らなかったが、退所して数年後にその家庭センターのこと調べてみたら説教部屋って呼ばれていて、2畳しかないらしかった。

 その2日間の朝の食パンを焼く人は職員がやってくれていた。そのほうが断然食パンを受け取りやすかったし食べやすかった。

 普段おかわりなんてしないのにくるちゃんと半分おかわりした。

 配膳も同様に職員が残りの中高生としていた。

 中学生が居ないうちに卓球で遊んだものだ。いつもはお風呂から早く上がって、中学生が来る前に遊んだりしていた。

 それか中学生が飽きているうちにやっていた。


 先生たちは家に帰れるんだからいいよね。と思い始めた紗菜。

 一番話しやすかった職員に言ったこともあった。

 夜勤があっても朝になったら帰れる。そんな羨ましいことがあるか。そう思っていた。


 大掃除の時間は色々な場所を掃除した。

 いつも勉強している部屋の床掃除、大ルームにあるおもちゃの掃除。

 掃除の時間に失神する子も居た。

 あまりに倒れる子が多くて、またかとしか思えなくなってきていた。心配しても職員に大丈夫だとだけ言われて終わってしまう。それも日常になっていく。


 祖母が面会に来てくれたこともあった。

 ジェンガをして遊んだり。そばにはなぜかケースワーカーが居たけど。

 通級の先生が来てくれる日は席を外すのに。

 懐いてもいなかったし祖母と二人にされるよりはマシだったけど。


 あいちゃんが4月20日に退所するという話を教えてもらったときは勝手にへこんで。せっかく仲良くなれたのに、と。

 5月20日になったと聞いたときは申し訳ないけどうれしくて。

 紗菜は夏に行ったときもいつ退所できるのかなんて聞いたことがなかった。退所したくてたまらないのに。

 夏にケースワーカーから退所すると聞いたのは当日だったし。

 お昼の勉強が始まる前に抜けられて嬉しかったりしたのを思い出した。

 なんであいちゃんは教えてもらえるのか不思議だった。


 ある日、母が面会に来た。

 紗菜はびっくりした。ケースワーカーにお母さんが来てると言われた。

 だって入院させれたか、って。

 退院したならなんで家に帰れないの?なんで?

 疑問ばかりが浮かび上がった。

 手紙もケースワーカーとの面談のときに受け取っていたけど。受け取っても私物禁止だからまた没収だけど。

 部屋に入れば本当に母が居た。うれしかった。なによりもうれしかった。

 親が面会に来る、と泣いていた子とは正反対だった。うれしかったんだ。その矛盾にどこか心を縛られたりもした。

 1回目は母が買ってきてくれた長いグミを食べたりした。

 かるたをしたりして。読み上げてくれたのはケースワーカーだったが。完全に見張られていた。

 母が入院中にティッシュで作ったドーナツをもらったり。まあそのときはもらえないんだが。

 パステルで描いた絵だったりを見せてもらって過ごした。

 家に帰りたかった。


 ゴールデンウィークはなんと外に行けた。 いつ振りのシャバだっただろう。

 映画を見に行けた。凧揚げをしに行けた。

 映画なんて小1のときに祖母に連れて行ってもらって以来だった。

 そのときはジュースなんて買ってもらえなかったけど、このときはジュースだけなら買ってもらえた。

 メロンかオレンジかで悩んだ。

 紗菜はみかんが好きだった。馬鹿みたいに食べていた時期もある。

 学校の友達がメロンが好きだと言っていたのを思い出して、メロンにした。

 あいちゃんはオレンジにしていた。自分で選んでおいてなんだが羨ましかったり。

 メロンジュースを飲みながら学校に行きたくて仕方なくて。

 映画の途中からトイレに行きたすぎて死ぬかと思った。

 職員はみんな真面目に見てると思っていたらしいが。みんなトイレに行きたくて前のめりになっていただけだった。

 早く終われと念じていた。終わったらみんなでトイレにダッシュするという。

 凧揚げも楽しかった。外は広かった。

 入所したときはまだ木々に緑なんてなかった。桜もまだ咲いていなかったのに。

 なんか外が青々しているんだけどどういうこと?状態だった。まるで浦島太郎。

 もう桜は散っていた。そりゃそうだ、もう5月。とっくに散ってしまっていた。

 今年は見に行けなかったな。少し寂しかった。

 毎年母と見に行っていたのに。

 そんなことを思いながらお弁当を食べた。

 家庭センターで作られたものではないごはん。美味しかった。

 芝生にブルーシートを広げてみんなで食べて。

 そのとき食べたたくあんが美味しくて、でもこの黄色い物体がたくあんだと知らなくて。

 得体は知らないけど美味しいやつ、という認識だった。

 帰りに一人一個だけアイスか飲み物を買ってもらえた。

 紗菜はアイスを選び、中学生の子たちがみんなソフトクリームを選んでいたからそれに合わせた。

 家庭センターに戻るとか嫌だったけど仕方ない。楽しい時間なんてあっという間だった。

 このまま逃げてやりたかったけどそんなことできるはずもなく。世間知らずの小学生だ。一人で電車に乗ったこともなかったし家庭センターがどこにあるのかも把握していなかった。

 家庭センターに戻って、アイスを食べながらまた映画を見た。

 いつもはテレビで見るのに、テーブルと椅子を動かしてプロジェクターで見るという非日常。楽しかった。


 体育館を借りて運動会的なものをしたときもあった。

 秒で行ける場所にあった体育館。

 普段は絶対に行かないようなビルに入って、歩いて行った。

 仕事をしている人たちがドア越しに見えたときは家庭センターのそういう人たちか?と思った。

 どういう人であろうともうなんでもよかった。

 大縄跳びをしたり、走ったり。あまり覚えていない。

 やりたくない、と職員にあいちゃんと言っていたのはおぼろげに記憶している。

 でも楽しかったのは楽しかった。

 狭っ苦しいグラウンドよりもっと広かった。


 2回目の母との面会は紗菜は風邪を引いていた。くるちゃんも引いていた、風邪が流行しまくっていた。

 なのに暑いから半袖にしてくれと職員に抗議したりして過ごしていた。

 中学生からは風邪引いてんのにアホやろ、と言われていた。

 咳は出るけど至って元気な紗菜。

 その面談のときに、母に「もう死にたいって言わない」と言われた。

 びっくりした。

 うれしくもあった、安心した。

 これで死ぬんじゃないかって、死んだんじゃないかって思わなくて済むと。

 後で聞いた話によれば、死にたいって言わない、そう言わないと家に帰すことはできない。母はそうケースワーカーに言われていたらしい。

 紗菜の気持ちも母の気持ちもどうでもよかったんだろう。

 とにかく引き離したがっていた。違うと言われてもそうとしか思えない。

 なんでもいいから紗菜は家に帰りたかった。

 外に行けた話もしたけど、帰りたい気持ちは一層増していた。

 学校に行きたくて泣いていることは誰にも言わなかったけれど。


 小学6年生の女の子が入所してきた。

 中学生かと思った、と小学生たちに出迎えられた大人びた子。

 中学生と仲良くなるのも、小学生と仲良くなるのも早かった子だった。


 ある日にはおやつを食べてからの掃除の時間が終わってから、男子小学生の部屋に入らず階段に居た。

 あいちゃんと勉強を見るおばさんにケースワーカーを呼べ、無理なら心理士さんを呼べと要求していた。

 なんでそうなったのかは覚えていないが。あいちゃんも紗菜も限界だった。

 先生たちは帰れていいよね、と互いに思っていたこともあって。

 部屋に入ろうと言われても入りたくないと拒否して。呼べと要求して。

 そのおばさんにそんな権限はなかっただろうけど。言える人なんて居ないから。

 大ルームの掃除が終わり、大ルームに入った。

 まだ女子たちは男子小学生の部屋に居た。くるちゃんもその部屋に居た。

 あいちゃんとおばさんとドミノを並べて遊んだ。

 ひたすらの要求から打って変わってドミノで遊ぶ。

 精神的な浮き沈みは激しかったし死にたいし帰りたいし。もうめちゃくちゃだった。

 小学生でこうなら、中学生はもっと辛かっただろう。

 その頃も刃物を要求していた子は未だに要求を繰り返していた。


 なみちゃんに、うれしいひなまつりの替え歌を教えてもらったことがある。

 あかりをつけましょ爆弾に

 ドカンと一発ハゲ頭

 五人囃子も死んじゃった

 今日は楽しいお葬式

 今思わずとも酷い替え歌。

 あいちゃんも教えてもらっていたらしい。

 紗菜が歌うことはなかったけれど、今も覚えている以上印象的すぎたんだろう。


 ゴールデンウィーク中から終わりにかけて怒涛の退所が続いた。

 中学生は3人くらい連日退所していった。

 それくらいのときに長袖から半袖に変えてもらった。

 あいちゃんは紗菜が夏場着ていた某オレンジジュースのTシャツを貸し出された。

 懐かしさに打ちひしがれたりした。というかまだこれしかないんだ、と思った。

 あいちゃんに合うサイズがなくて、某ジュースのものでもぶかぶかだった。

 中学生くらいのサイズはあるけど小学校中学年以上の子に合うサイズがないんだと職員は言っていた。

 それなら家に洋服たくさんあるよ、送るよ。そうあいちゃんと言った。

 何年も経った今も送ったことはないけど。

 そのときはこれから入ってくる子たちが可哀想だった。洋服もなにも足りない、自由もない。せめて選べるくらいの服があれば。

 自由がなかったからこそそう思っていた。

 それくらいのときには遊ぶという行為すら面倒になっていた。

 あんなに遊んでいたのに。何に対しても興味がなくなっていた。

 遊んでいるうちは子どもで在れていた。

 もう子どもでもなくなっていた。

 漫画を読んでもつまらない。もう飽きた。

 なにをしようにもつまらない。

 なにもかもが。


 そしてついにくるちゃんが退所した。

 すごく寂しかった。

 勉強の時間に抜けていったくるちゃん。それっきりだった。

 くるちゃんの席から名前が書かれているシールが剥がされていた。

 シールの跡だけが残っていた。

 嫌でも退所したという事実を認めなければならない。

 多分あいちゃんは、くるちゃんから退所を聞いていた。紗菜はそんな話を聞いていなかった。

 掃除が終わり、階段を降りながらため息まで吐いて。

 グラウンドしか見えない窓に狭い青空が映っていた。

 羨ましくて。寂しくて。自分はいつ退所できるんだろう?そう思って。なんで言ってくれなかったんだろう、とも思って。

 あいちゃんには教えてなんで自分には?

 友達じゃなかったのかな、とさえ思った。友達だったからこそ言ってくれなかったと思いたいが。真相なんて一生分からない。知る意味もない。

 本当に仲が良かったとも言えないし。段々距離感が分からなくなっていた。話しかけにくくなっていて。

 あいちゃんと居ることのほうが多かったし。

 自由時間は一緒に遊ぶ時間ももちろんあったけど。

 紗菜が本を読んでいればあいちゃんも本を読んでいた。くるちゃんはテーブルで中学生と遊んでいたりしていた。

 話が聞こえてくることもあった。こっちを見ながら「無視して」そう中学生に言われたくるちゃんは頷いていた。

 夜に編み物をしていればくるちゃんは本を読んだりしていた。

 胡乱だった。

 友達の定義も一瞬にして崩れ去ってしまうような場所。

 友達なんてない。いじめろと言われたらいじめる。無視しろと言われたら無視する。それが常態化していた。

 あいちゃんが退所したら自分は一人だし。どうしようもない途方感に暮れていた。

 くるちゃんが退所した日の夜、まだ小さい小学1年生の子が入所してきた。

 くるちゃんの居た席に新しい名前のシールが貼られたとき、誰かが入所してくるのはあいちゃんと勘づいた。

 早くない?と顔を見合わせた。

 まだ5月。最近まで園児さんだったんだから小さいのもそのはずだが。

 その子は腕も足もガーゼで覆われていた。いかにも虐待を受けていた子。

 遠目にでも分かるほどだった。自己紹介も恥ずかしいから、というより衰弱している感じで弱々しかった。

 くるちゃんが居た席にその子が座ることになった。

 くるちゃんと入れ替わり。くるちゃんが居なくなってすぐなのに。まだ寂しいのに。

 なみちゃんにこの子の世話は頼んだ、と言われた。そんな馬鹿な、と思ったけど。なんとも言えなかった。あざだらけの、傷だらけの子を見るのは初めてだった。

 優しくする以外に選択肢なんてない。


 くるちゃんの居ない朝。

 くるちゃんが居ないというだけで元気がない。

 なにも教えてくれないんだね、って。教えたくないくらいだったんだねって。思った。

 あいちゃんが居なかったら完全に孤独だったな、と思った。

 相変わらず窓から見える空が狭かった。

 死ねなかった。

 パジャマも半袖にして。とあいちゃんと職員に言った。

 あいちゃんは貸し与えられたけど紗菜は担当の先生に言ってと一掃された。

 誰だよ担当って。そう思ったけど職員は紗菜の退所を知っていたのかもしれない。だから貸さなかった。そう思えば納得できる。

 夜に入所してきた子がくるちゃんの席に居る。

 夜の大ルームは薄暗いからそんなにはっきりとは見えなかったけど、今は傷があらわに見える。

 痛々しいとしか言えない。本当に虐待する人なんて居るんだ、と紗菜は思った。

 その子は全く笑わなかった。

 口角がぴくりとも動かない。

 なみちゃんにバターナイフ貸してと言われ、渡した。

 隣に座っていた中学生たちが退所したこともあってテーブルは静かだった。

 こうやってパンに塗るんだよ、となみちゃんが教えてあげていた。

 その子は食パンを半分だけ食べた。

 みんな心配になるくらいに弱々しかった。

 いつも通りに過ぎる朝。ラジオ体操も何らかの運動も慣れたもの。

 ペアストレッチはくるちゃんとやることが多かった。隣に居る人と組むシステムだった。

 足が地面につかないくらい持ち上げられて怖かったのを覚えている。

 あいちゃんと背中を合わせて持ち上げ、持ち上げられ。

 くるちゃんなにしてるんだろう。なんて思ったりしていた。

 勉強の時間、勉強をする部屋の電話が鳴った。

 電話といっても学校の教室にあるような電話というか内線。

 誰か呼ばれるんだないいな。なんて思っていたら紗菜が呼ばれた。

 面談する部屋に行く道中。勉強する部屋に通じる階段を降りながら、ケースワーカーに退所を告げられた。

 びっくりした。うれしかった。心から喜んだ。

 うれしくて仕方がない。家に帰れる。学校に行ける。放デイも。

 でも同時にあいちゃんが気がかりだった。

 くるちゃんが居ない、自分も居ない。じゃああいちゃんは?

 自分が危惧したのと同じようにあいちゃんだって一人になる。

 そう思っても退所できる喜びのほうが勝った。

 ケースワーカーとドラえもんのバランスゲームで遊んだ。

 倉庫みたいなところにあったおもちゃ。

 案外難しくて、普通に笑いながら遊んでいた。

 まだなにも知らない紗菜。なんで自分が警察に連れて行かれたのか。なんで家庭センターに連れて行かれたのか。

 このケースワーカーがどういう人なのか。


 お昼の時間まで遊んで、昼ご飯を食べに大ルームに戻った。

 その日は蕎麦。何気に蕎麦が苦手な紗菜。

 ご飯小の少なめからご飯小にしたのを後悔したほどには食べるのに苦戦した。

 いつあいちゃんに言おう。グラウンド行けるならそのときに。と考えていたけどその日はグラウンドに行けなかった。

 大ルームで過ごせ、とのお達し。

 退所する日は言ってはいけないルール。バレたらそれこそ帰れないかもしれない。どうしたものか。

 畳の場所であいちゃんを横目に見ながら考えていた。

 言う前に職員が紗菜を呼びに来た。

 どうしても隠しきれない喜び。それに混じるあいちゃんへの心配。

 スリッパを履き直して、部屋から出ようとしたとき。

 あいちゃんに背中を向けていたとき。

「もしかして退所?」

 なんで分かったんだろう。そう思いながら部屋を出た。背を向けたまま、なにも言わないまま。

 あいちゃんはそれしか言わなかった。

 表情も見ていない。見れなかった。

 だって自分は。くるちゃんが居ないってだけでこんなに寂しがってたのに。

 いくらなみちゃんとかが居るからって。あいちゃんは大切な友達だし。

 廊下に出て、職員に話聞いてる?と訊かれた。快活にうん!と答えた。

 思ったより快活に。あいちゃんに聞こえたかもしれない、と思った。申し訳なさはもちろんあるけど。

 でも帰りたいんだ。


 紗菜が入所した日のランドセルと服一式は母が持って帰ってくれていた。

 3月の終わりの服装と5月の服装も大分違う。薄い長袖を持ってきてくれていたらしい。

 着替えながらうれしくて仕方がなくて。洋服のボタンに苦戦して職員に手伝ってもらった。

 帰れる。帰れるんだ。

 逃げ出したくてたまらなかったけど、今ばかりは違う。

 夏と同じように退所するときのお決まり、これからの目標を言い。

 その場に居た職員に拍手されて、職員室を出た。

 ああ、帰れるんだ。

 警察に連れてこられたときを思い出した。

 くるちゃんもあいちゃんも思い出す。

 なみちゃんにお世話頼まれたけどできなかったな。

 色々思い出しながらエレベーターに乗った。

 いつもより広い部屋に通され、母の隣に座った。

 入所中に作ったプラバンやら風鈴やらけん玉やら諸々、教材やら諸々が入ったバカでかい紙袋がテーブルに置かれていた。

 その中に連れてこられたときに塗ったドラえもんの塗り絵が入っていた。

 こんなにやったっけ、なんて思いながら。

 なにか話を聞いて、最後の最後までケースワーカーに見送られ。

 退所した。

 退所できた。

 家庭センターの最寄り駅にヘルパーさんが居た。

 紗菜の家にはヘルパーさんが来ていた。

 その人と一緒に、そこら辺を歩いたりして。

 シュークリームを食べて、うれしくて。家庭センターに居たら食べることなんてないもの。

 あいちゃんにも食べさせたい、と思った。

 くるちゃんはなに食べたんだろう。考えたりした。

 紗菜の家の最寄りでヘルパーさんと別れ、家に帰った。

 久しぶりの家。

 家だ。

 帰れたんだ。

 あいちゃんは家庭センターなのに。

 これでやっと家に帰る夢なんて見ないでいい。学校に行きたいって泣かないでいい。うれしかった。

 本棚の前に風船がたくさんかけられていた。

 でかいぬいぐるみが本棚の前に居て。

 見たことない魚の風船が泳いでいて。

 家に帰れた。

 帰れた喜びに満ちていた。


 この時間にはもう寝る準備だな。

 もう寝る時間だな。

 でも家だから。まだ起きてたっていい。

 あいちゃんは。くるちゃんは。

 なみちゃんも入所してきた子も。

 しばらく家庭センターの記憶が抜けなかった。

 家庭センターの家具の配置はこうだったな、ドアはここで。なんて思い返して。


 久しぶりの家のご飯は美味しいし。

 久しぶりに見るいつものお茶碗。

 久しぶりの家のお風呂。

 もう見られないんだ、監視とかないんだ。

 久しぶりに触るゲーム、タブレット。

 もう新しいゲーム出てるんだ。

 そうか、そうだ。

 帰れたんだ。

 長い間家に居られる喜びが続いた。

 もう家庭センターの暮らしをしなくていいんだ。

 久しぶりに犬のぬいぐるみと一緒に寝た。

 やっと家に帰れた。



 

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