8話 境界を歩いた自分
コーヒーを淹れる音だけが小さく響くなか、テーブルの上に置かれた古びた本を、二人で見つめていた。
紙は日に焼け、角は擦り切れている。
何十年も、誰かに読まれることを待っていたような本だった。
「これって……」
青凪さんが小さく呟く。
「とりあえず、読んでみよう」
僕は表紙をゆっくり開いた。
最初のページを開く。
そこには乱雑な字と、鉛筆で描かれた一枚の絵があった。
夜空のような世界に、地平線のない水面と星。
そして、一人の人影。
ページの端には、小さくこう書かれている。
『境界を歩いた自分』
俺はXと名乗っておこう。まず、この話を信じる必要はない。夢だったと言われればそれまでだからだ。
俺は仕事が上手くいかなかった。就職活動は何十社受けても落ちた。恋人も離れていった。家族にも迷惑しか掛けていない。あの日、自宅へ帰る途中。渋谷のスクランブル交差点で、突然白い光に包まれた。
気が付けば、宇宙のような場所を歩いていた。
下を見れば海にも見えるし、空にも見える。重力はある。でも、風は吹かない。説明できる言葉が見当たらない。少し歩くと、一人の女が立っていた。彼女は自分を『管理人』と名乗った。
──死にたかったのか。
最初に言われた言葉は、それだった。
「……」
「……」
店内は静かなままなのに。
自分の鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。
「これ」
看空がゆっくり口を開く。
「私たちと、同じだよね」
「うん……」
一語一句違わない。
スクランブル交差点のこと。死のうとしていたこと。管理人のこと。
あの星空。多分、全部同じだ。
ページを閉じる。
「つまり」
「スクランブル交差点を渡ればいい……って単純な話じゃないよね」
「うん」
青凪さんは静かに頷いた。
「多分」
「死のうと思っていた人が条件なんじゃないかな」
言葉が止まる。
それ以上先は、お互い踏み込めなかった。
「……」
「……」
沈黙。だが不思議と苦しくはない。
二人とも、その答えを知っていたからだと思う。
その時だった。
「お客さん?」
同時に顔を上げる。
店長らしき女性が眉をひそめていた。
「本読むだけなら図書館行きな!」
「あっ」
「すみません!」
「若い子は恋愛小説でも読んどきな!」
「「違います」」
声が重なった。
「息ぴったりじゃない」
「……」
「……」
「ほら、仲良し」
「「違います」」
また重なった。
店長らしき女性は呆れたように笑いながら注文を聞いてきた。
「忘れてた、注文はなんだい?」
「若いお二人さん」
思わず苦笑いが漏れる。
「アイスカフェラテと......」
青凪さんにアイコンタクトを取る。
「私もそれで」
「じゃあアイスカフェラテ2つで」
「あいよ〜」
さっきまでちょっと重かった空気が、少しだけ軽くなった。
やがて運ばれてきたアイスカフェラテを眺めながら、改めてテーブルへ向き直る。
「整理しよう」
看空が人差し指を立てる。
「共通点は3つ」
「1つ」
「私たちはスクランブル交差点で現象に遭った」
「2つ」
「管理人という人に会った」
「3つ」
「この本を書いた人も、多分同じ体験をしてる」
彼鉈も頷く。
「それと、もう一つ」
「......死のうとしていたこと」
看空は静かに目を伏せた。
彼鉈も、それ以上は言えなかった。
老舗のカフェを後にして、再び地下鉄に乗り出発地点である渋谷に戻る。
看空は連絡がたくさん来ているのか、カフェを出てからずっとスマホを弄っている。
「ごめんね、ちょっとお母さんからLINEが」
「いいよいいよ」
お嬢様は違うんだなと感じる。彼鉈は親以外まともに連絡先がない。悲しいやつである。
◇
渋谷駅に到着。夕暮れで、ビルのガラスがオレンジ色に染まり始めていた。
昼間ほどの暑さはない。それでもアスファルトは熱を抱えたままで、歩くたびに夏を感じる。
彼鉈と看空はスクランブル交差点へ向かっていた。
信号が赤で止まる。
横断歩道の前には外国人観光客や買い物帰りの家族、会社員に制服姿の学生。
いつもの狂騒であり、昨日と何一つ変わらない。
「……」
「……」
特に会話はなかった。信号機から電子音が鳴る。
──ピッ、ピッ、ピッ。
青になり、人の流れが一斉に動き出した。
「行こうか」
「……うん」
二人並んで歩く。昨日と同じ場所、交差点の真ん中。
彼鉈は思わず空を見上げた。
青空で、飛行機雲が一本。
昨日見た星空なんて、どこにもなかった。
一歩、また一歩。何も起こらなかった。
浮かないし、光ることもない。
風も吹かない。向こう側へ着いてしまった。
「……」
「終わっちゃったね」
看空が小さく笑う。
その笑顔は、少しだけ安心したようにも見えた。
「起きなかった」
「うん」
「じゃあ昨日だけだったのかな」
「……そうなのかもね」
そう言った。
でも、本当は信じていなかった。
昨日の出来事は夢じゃない。
管理人と名乗る女性に、死んだはずの青凪海都。
加えて、さっきのあの本。
全部繋がっているはず。
だからこそ、彼鉈は何も起きないということが一番不気味と感じるのだった。
交差点の中央を振り返れば、人の波だけが流れていた。
あの白い光は現れない。
「……夕方だし、帰ろうか」
「そうだね」
そのままハチ公前へ向かう。
昼より少しだけ歩く距離が近くなっている。肩が触れるほどではないが......二人は特に意識していない。
「......」
沈黙が続くが、気まずくはなかった。
「今日さ」
彼鉈が口を開く。
「楽しかった」
「……私も」
「図書館も」
「コンビニも」
「神社も」
「全部」
看空は前を向いたまま微笑んでいる。
「事件のこと、何も分からなかったけどね」
「収穫ゼロ......」
「いや」
彼鉈は首を振る。
「一つだけあった」
「?」
「また会いたいって思えた、かな」
看空は少しだけ立ち止まる。
その言葉に返事はしなかった。
できなかった。
代わりに、小さく笑う。
「……うん......またね」
「うん」
渋谷駅。改札は違う。
彼鉈はJRで看空は地下鉄である。
「じゃあ」
「また」
反対方向へ歩き出す。
数歩進いたところで、何となく振り返る。
すると、向こうも同じタイミングで振り返っていた。
目が合った。
少し照れくさくなって、誰からとなく笑う。
今度こそ、本当に別れた。
彼鉈もその場を離れ、JRの改札へ向かうのだった。
◇
『豊洲、豊洲です。ホームドアにご注意ください』
自動アナウンスが響き、人がたくさん改札に向かって流れていく。
明日は役員会議がある。ただただ憂鬱だ。
駅前に、黒いセダンが止まっている。
「お嬢様、今日は遅かったですね」
「つい話込んじゃって...ね」
「今日はお母様がご自宅にいらっしゃいますよ」
今日看空の母親が帰ってきてるのは、明日に役員会議があるからだろう。
「......わかった」
窓からぼーっと夜の景色を見ながら、看空はどこかに思いを馳せるのだった。
お読みいただきありがとうございます!なんか◇を乱用している気がしてしまっている...




