20話 身近な光
──ピピピッ。ピピピッ。
「……ん」
スマートフォンのアラームが鳴り、目を開ける。
カーテンの隙間から差し込む光を、ぼんやりと眺めた。
しばらく動けなかった。昨日のことを思い出す。
渋谷のスクランブル交差点。看空との喧嘩。最後に交わした言葉。
『じゃあ、放っておいてよ』
『……分かった』
「……」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
でも、それだけだった。
驚きもしないし、焦りもしない。
もう分かっている。
枕元のスマートフォンを手に取り、画面を点けた。
──2020年7月19日、8時42分。
「……またか」
それ以上は何も思わなかった。
以前なら、この数字を見ただけで心臓が跳ね上がっていただろう。
どうして。何が起きている。どうすれば終わる。
そんなことばかり考えていた。
でも今は──
「……どうでもいいや」
スマートフォンをベッドの上に放り投げる。
7月19日だろうが、20日だろうが。
昨日と同じだろうが、違おうが。
今の自分には関係ない。
看空とは喧嘩した。傷つけた。それだけだった。
ベッドから身体を起こす。
顔を洗って、適当に髪を整える。
いつも通りの朝、階段を降りる。
リビングからテレビの音が聞こえていた。
『本日は7月19日火曜日。雨が多少降りますが、本日も各地で猛暑日になる見込みです』
画面には、昨日と同じスクランブル交差点。
同じ時間帯。同じような人の流れ。同じアナウンサー。
「……」
以前なら、気味が悪いと思った。
今は何も思わない。
「彼鉈、今日も早いわね」
母である夏子が味噌汁をよそいながら、こちらを見る。
「昨日も早かったじゃない」
「……うん」
「そういえば学校から進路の紙来てるから見ときな」
「母さんたちもう仕事行くから」
「わかった」
ほとんど反射的に答えた。
父の芳樹がコーヒーを飲みながら、スマートフォンを確認している。
そして、
「そうだ彼鉈」
聞き慣れた言葉。
「倉庫の古新聞、まとめといてくれ」
「明日の資源ごみの日だから」
「……うん」
「頼むぞ」
「分かってる」
父がコーヒーを飲み終える。母も鞄を持つ。
いつもと同じ。そのまま玄関へ向かう。
「じゃあ行ってくるから」
「いってらっしゃい」
扉が閉まり、静かになる。
「……」
一人になった。
テレビから流れるニュースの声だけが、リビングに響いている。
古新聞──それが何を意味するのかはわかっていた。
青凪海都の姫川家殺人事件。保護先のサマーカルム・エンターテイメント。
そして、青凪看空。
でも今は新聞をまとめる気にもなれなかった。
「……後でいいか」
そう呟いて、冷蔵庫から水を取り出す。
コップに注ぎ、飲む。
冷たい。ただそれだけだった。
◇
昼前、彼鉈は家を出た。
目的地はなかった。
ただ、家にいるのが嫌だった。
駅まで歩く。
いつもなら渋谷へ向かうが、今日は違った。
「……別に、行かなくていいか」
渋谷へ行っても、看空はいない。
昨日、互いにあんな言い合ったのだから。
『放っておいてよ』
なら、今日は一人でいよう。
最初に近くのショッピングモールを歩いた。
映画館も何回行っただろう。
何回、上映中に目を合わせただろう。
次に向かったのは、中学時代に通っていた学校だった。
もちろん、今は夏休み。
校舎の中に入ることはできない。
それでも、正門の近くには昔から変わらない小さなベンチがあった。
そこに座る。蝉の声が聞こえる。
暑い。
「……懐かしいな」
ここに来るのは久しぶりだった。
中学時代──彼鉈はあまり良い生徒ではなかった。
人間関係で揉めた。揉めて。揉めて。
自分も誰かを傷つけた。
今思えば、あの頃の自分は幸福なんて考えていなかった。
ただ、自分とかつての友人が傷つかないようにすることで精一杯だった。
スマートフォンを見る。
連絡先の中に、昔の担任の名前が残っていた。
「そういえば卒業式の時に校則破って教えてくれたんだったな......」
冨樫武留先生。
彼鉈が中2、中3と2年間に渡って担任を務めた数学担当の教員。
今思っても良い担任だったなと思う。
しばらく迷ってから、電話をかけた。
数分後、近くの喫茶店で会うことになった。
◇
「久しぶりだな」
「お久しぶりです。冨樫先生」
「大きくなったなぁ」
「もう高校2年生なんで」
「そうかそうか」
先生は笑った。昔と変わらない。
少し白髪が増えたくらいだ。
「それで、急にどうした?」
「……先生」
しばらく考えた。何と聞けばいいのか分からない。
「幸福って、何だと思います?」
冨樫は目を丸くした。
「……いきなり難しい質問だな」
「正直、高2のやつが言うことちゃうぞ。何か迷ってるのか?」
「......すみません」
「いや、いいよ」
少し考える。
「俺の場合は、生徒が卒業して元気にやってるって聞いたときかな」
「……生徒が?」
「そう」
冨樫はコーヒーを一口、口に運んだ。
「教師なんて、結局そういう仕事だからな」
「なるほど」
「自分一人が何かを成し遂げたっていうより、教え子が元気に生きてる。それを見られる方が嬉しい」
「……」
その言葉を、ただ頭の中に残した。
「ありがとうございます」
「なんだ、その質問」
「ちょっと気になっただけです」
「......お前みたいに元気なやつが連絡してきてくれるのが、一番嬉しいんだぞ」
「......ありがとうございます」
そう言い、店を出る。
外は相変わらず暑かった。
◇
次に向かったのは、アルバイト先のコンビニだった。
「おう、どうした?」
店長である近藤は休憩中のようで、レジの奥からひょっこり顔を出す。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「空賀くんからか。珍しいな」
「店長って、幸福って何だと思います?」
「……急にどうした?」
「いや、本当にちょっと気になってですね」
「幸福ねぇ」
近藤は腕を組む。
「仕事終わって家帰って、飯食って、嫁さんとくだらない話してるときかな」
「……家族ですか?」
「まあ、そうだな」
「仕事は?」
「仕事は仕事だよ」
「お金とかは?」
「そりゃ必要だけどね」
店長は笑った。
「金があっても、一人で食う飯はあんまり美味くないだろ」
「……」
「お前、何か悩んでる?」
「いや」
「そうか?」
「……たぶん」
店長はそれ以上聞かなかった。
「まあ、難しいこと考えすぎんなよ」
「はい」
「あ、あと明日の20日なんだけど、シフト松本さんと交代できる?」
「急な予定入っちゃったみたいで」
その明日も、僕にはどうせ来ることはない。
「いいですよ。何時ですか?」
「13〜18時。どう?」
「おっけーです」
「あんがと〜」
PALMを買って店を出る。
昼の街は暑かった。
スマートフォンを見ると、まだ昼過ぎだった。
「……」
二人に聞いた。
どちらも、誰かと過ごすことを幸福だと言った。
家族や生徒、妻、友人。
誰かと一緒にいること。彼鉈は歩きながら考える。
「……結局、人は一人じゃないんだな」
その言葉が、妙に引っかかった。
お読みいただきありがとうございます!あなたにとっての幸福とは...?




