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19話 Bad Night

「それ、本気で言ってる?」


「え?」


「このままでいいって?」


「いや、そういう意味じゃ──じゃあ、どういう意味?」


聞く声が少し大きくなった。

周囲の何人かが彼鉈と看空を見る。


「私、このままがいいなんて思ってない」


「……分かってるよ」


「分かってないよ」


看空の声が震えた。


「彼鉈さんは、私といるときだけ楽しそう」


「……」


「私だってそうだよ」


「でも」


途中で言いかけて口が止まる。


「でも、何?」


「僕は……」


言葉を探す。


「……君を助けたいんだよ」


その言葉に、看空の顔から笑顔が完全に消えた。


「なにそれ?」


「え?」


「助けるって何?」


「……」


「私、壊れてるように見える?」


「そういう意味じゃ──」


「じゃあ何なの?」


「僕だって……」


声が荒くなる。


「僕だって、君と一緒にいたいんだよ!」


言ってしまった。

一瞬、周囲の音が遠くなったように感じた。


目の前の看空が目を見開く。


「……一緒にいたい?」


「……うん」


「それって、私を助けたいから?」


「違う。いや、でもそうなんだけど...」


「じゃあ何?」


「……分からないよ!」


自分でも驚くほど大きな声だった。


「最初は君を助けなきゃって思ってた。でも今は……」


言葉が詰まる。


「君といるのが楽しいから」


「……」


「君がいない7月19日なんて、嫌なんだよ」


看空はしばらく黙っていた。

そして、小さく笑った。


「……最低」


「え?」


「私も同じじゃん」


「……」


「私も、空賀さんがいれば大丈夫って思ってる」


「だったら──」


「でも、それじゃダメなんだよ!」


看空さんが叫んだ。


「私の人生、彼鉈さんだけじゃない!」


「分かってる!」


「分かってない!」


「じゃあどうしろっていうんだよ!」


「知らないよ!」


「僕だって分からない!」


「だったら放っておいてよ!」


「……!」


その言葉だけ、胸に刺さった。


「……分かった」


彼鉈は手を離した。


「じゃあ、そうする」


看空も何も言わなかった。

二人の間に、長い沈黙が落ちる。


信号が青になる。


人々が一斉に歩き始めた。

二人だけが、その場に取り残される。


「……じゃあね」


看空がか細い声で言った。


「……うん」


今度は、どちらも振り返らなかった。


◇


帰り道、一人になった。いつもなら、今日あったことを思い返している。

看空が笑っていた。アイスを食べていた。浴衣を着ていた。音楽を聴いていた。


そんな記憶を思い出しながら帰る。

でも、今日は違った。


「……何やってんだよ」


独り言が漏れる。

スマートフォンを見る。


メッセージを開く。最後のメッセージ。

何度も打っては消した。


『ごめん』

消す。


『大丈夫?』

消す。


『また明日』

それも消した。


何を送っても、何かが違うと感じてしまう。

結局、何も送らなかった。


その頃、SNSには一つの動画が投稿されていた。


《渋谷でカップルがガチ喧嘩してる》


短い動画だった。


スクランブル交差点の近く。人混みの中で言い争う男女。

顔までははっきり映っていない。


コメント欄には、


《修羅場?》

《彼女泣いてね?》

《渋谷怖すぎ》

《これカップルなの?》


そんな言葉が並んでいた。

動画は、数時間でそれなりの再生数だった。


けれど次の7月19日には、その動画は存在しなくなっていた。

投稿者のアカウント、コメント、検索結果も全て。


最初から何もなかったかのように。


◇


看空は一人、タワーマンションのエレベーターに乗っていた。

鏡に映る自分を見る。


目は少し赤くなっているが、泣いてはいない。

というか泣くほどでもない。そう思いたかった。


エレベーターが上昇する。

数字が一つずつ増えていく。


「……」


自分は何をしているんだろう。

今日も楽しかった。


彼鉈といると、笑えて、言葉に表せない安心感があった。

家では絶対にできない話もした。


くだらないことで笑った。


何度も。何度も。何度も。何度も。

なのに、喧嘩してしまった。


「……私のせいかな」


呟く。


いや、彼のせいでもある。どちらが悪いわけでもない。

二人とも疲れていた。


同じ日を繰り返して。同じ人と会って。同じような時間を過ごして。

小さい変化には気づけても、現実は何も変わらなかった。


幸福を探しているはずなのに、いつの間にか、幸福そのものを、彼鉈に求めていたのかもしれない。

それが怖かった。


──34階です。


エレベーターが止まる。

扉が開き、使用人である黒木が待っていた。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


「……ただいま」


笑顔を作る。

いつもの表情で完璧な娘。完璧な青凪家の人間。


「本日はお疲れのようですね」


「ううん、大丈夫」


「お食事はいかがなさいますか?」


「……いらない」


「承知しました」


速攻で部屋に入り、扉を閉める。

一気に静かになった。


「……」


ベッドに座り、スマートフォンを見る。

メッセージ欄を見る。空賀彼鉈の名前をタップする。


いつもなら、『今日もありがとう』のメッセージが届いているはず。


だが、何もない。

どうせ明日になれば、この送られなかったメッセージもなかったことにされてしまうのに。


「……ばか」


誰に言ったのか分からなかった。


彼鉈に言ったのか、自分に言ったのか。それすら分からない。



彼鉈も、眠れなかった。

ベッドに横になり、天井を見る。


「……明日になったら」


7月20日になる。そう思っていた。


今日の喧嘩も、今日の気まずさも。

明日になれば、終わるんじゃないか。


少なくとも、時間は進む。そう思っていた。

それでも、胸の奥には嫌な予感が残っていた。


これまで何度も、同じ夜を過ごした。


楽しかった。幸せだった。

でも、楽しいだけでは終わらない。


幸福だけでは、現実を変えられない。


「……僕は、何を間違えたんだろう」


答えは返ってこない。

スマートフォンを伏せる。


目を閉じる。


二人は、それぞれの部屋で、7月19日の終わりを待っていた。

その夜が明ければ、また、何かが変わる。


──そう信じて、二人は眠りについた。

お読みいただきありがとうございます!

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