18話 Evening Everything
それから、来る日も来る日も、同じガムを噛み続けるように2020年7月19日はやってきた。
何周目なのか、完全に分からなくなっていた。
最初の頃は、スマートフォンのメモに数字を書いていたのを覚えている。
《3周目:〇〇〇祭り、〇〇映画館》
《4周目:散歩、〇〇博物館》
《5周目:〇〇ランド、海》
そうやって記録していたはずなのに、いつの間にかやめていた。
数えたところで、意味がないと気づいたから。
別の水族館。別の映画。そして夏祭り。
同じ音楽ライブ。同じ夜の渋谷。
そしてカフェ。
台風が近づいている日もあった。
逆に、雲一つない青空の日もあった。
雨の中、無性に走り回った日もあった。
同じ7月19日なのに、毎日が違った。
そして、二人の距離も少しずつ変わっていった。
最初は「青凪さん」と呼んでいた。
いつの間にか「看空さん」になった。
それが当たり前になって。
時々、名前を呼ぶことに照れが混じるようになった。
でも、一つだけ変わらないものがあった。
夜になると、看空は苦しくなる。
どれだけ楽しい一日を過ごしても。どれだけ笑っても。
彼鉈と別れて次の日が来てしまえば、果てしない現実が待っている。
厳しい母親、役員会議、青凪家。
そして、自分の未来。
おまけに彼鉈が知らせてしまった青凪海都の事件。
「……じゃあね」
「うん」
夜の渋谷。看空が改札へ向かう。
数歩進んだところで、立ち止まる。
振り返らない。
「……また明日」
「うん」
彼鉈は笑い、看空も笑う。
でも、改札を抜けた瞬間。
その笑顔は消えた。一人になる。
スマートフォンを見る。
SNSを開けば、知らない誰かの幸福。
知らない誰かの恋愛。知らない誰かの家族が流れてくる。
言葉にできない棘を感じれば、すぐに画面を閉じる。
「……」
家に帰れば、また笑わなければならない。
翌朝になれば、また、完璧な娘を演じなければならない。
だから、彼鉈といる時間だけが、自分が自分でいられる時間だった。
この7月19日が終われば、看空は青凪家の普段の日常に戻る。
それを本人が自覚しているのならば。
◇
2020年7月19日、朝7時。
朝になれば、また同じ日付が表示される。
それだけは変わらない。
ただし、同じ一日ではなかった。少しずつ違っていた。
自分たちが何かをするたびに、その違いは大きくなっていった。
「世界って、案外適当なんだね」
以前、看空がそう言って笑っていた。
最初はその言葉の意味が分からなかった。
でも今なら少し分かる気がする。
世界は、彼鉈たちが思っているほど決まったものじゃない。
ほんの少し違う行動をするだけで、別の結果になる。
ならこのループも、いつか何かを変えれば、終わるのだろうか。
少なくとも、最初はそう思っていた。
今はもう、一向に7月19日が終わる気配がない。
どうすればいいのかわからなくなっている。
焦りもあれど、この状況を楽しんでしまっている自分もいるのが事実。
彼鉈はそんな自分が嫌になってきていた。
「今日はどうする?」
朝9時の渋谷駅、ハチ公前。
看空がスマートフォンを見ながら聞いてくる。
「どうしようか」
「昨日は水族館だったし」
「一昨日は映画」
「その前は飛行機乗って遠くまで行って」
「その前は……」
二人とも考える。
「……何したっけ?」
「覚えてない」
それがおかしくて、二人で笑った。
以前なら、こんなことはなかった。
会ったばかりの頃は、会話一つするにも緊張していた。
何を話せばいいのか分からない。
どこへ行けばいいのか分からない。
沈黙が怖かった。それなのに。
今では、沈黙すら気にならなくなっていた。
「じゃあ今日は、何もしない日にする?」
看空が言った。
「何もしない?」
「うん」
いつだかの7月19日でも何もしない日があった。
「それ楽しい?」
「さあ」
「……じゃあ、やってみようか」
二人で歩いた。目的地はない。
ただ渋谷の街を歩く。
コンビニに入って、飲み物を買って。
公園のベンチに座って、くだらない話をする。
学校のこと。音楽のこと。昔見た映画。
好きな食べ物。嫌いな食べ物。
そして、どうでもいいこと。
「彼鉈さんって、変なところで真面目だよね」
「看空さんは変なところで適当」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
「ならいいや」
そんな会話をして、気づけば夕方になっていた。
空がオレンジ色に染まる。
看空さんがスマートフォンを見た。
「……もうこんな時間」
「帰る?」
「……うん」
その返事が、少しだけ早かった。
彼鉈は気づかなかった。いや、気づかないふりをしていた。
◇
夜の渋谷を二人で歩いていた。
人の波が、絶え間なく流れている。
信号が赤になる。
スクランブル交差点の前で、二人が立ち止まった。
以前なら、ここは特別な場所だった。
二人が初めて生死の境界へ行った場所。
けれど今では、何度も通った場所になっていた。
「……ねえ」
看空が言った。
「なに?」
「明日も会えるよね」
「……うん」
「本当に?」
「本当だよ」
「絶対?」
「絶対」
看空が笑った。
けれど、その様子はどこか不自然に感じるものだった。
「……そっか」
信号はまだ赤で、人々が二人の横を通り過ぎていく。
「じゃあ、また明日」
「うん」
看空が歩き出そうとした。
そのとき、彼鉈は思わず看空の腕を掴んだ。
「……待って」
「え?」
「もう少しだけ、ここいない?」
看空の表情が止まる。
「……どうして?」
「いや……」
言葉が出てこない。本当は分かっている。
一人になりたくない。
それに看空が自分と別れて孤独になっていることを感じていた。
看空が帰った後の夜が嫌だった。
静かな部屋でスマートフォンを弄る。
そして、また明日が来る。
それが怖かった。
「……僕も、明日が来るのが怖いから」
看空が目を伏せる。
「……私も」
その言葉に胸が締め付けられた。
だから、彼鉈は言ってしまった。
「だったら、ずっと一緒にいればいいじゃん」
「……え?」
「世界が7月19日を繰り返してるなら、ずっとこのままでいられる」
「……」
「学校も、家も、何も考えなくていい」
「……彼鉈さん」
「二人でいれば、楽しいじゃん」
言った瞬間、自分でもしまったと思った。
けれど、一度口から出た言葉は戻らない。
「……それ、本気で言ってる?」




