重正先生から僕のような無力な人間に期待が
僕は右横に澤村選手を、そして斜め右前の方向に重正先生を見ながら深呼吸をひとつした。
昨年の日本シリーズ第一戦の後、10月26日には日本シリーズ第四戦が行われた。場所は北海道で、球場は屋根付きのドームになる。ここはマウンドの土もしっかりとしている。どちらかと言えば、他の球場よりは固いかもしれない。第四戦、澤村選手は指名打者として臨む。試合も進み、8回裏の無死の時だった。澤村選手はショートへゴロを打つ。一塁ベースに駆け込む。相手チームの一塁手のからだとの衝突を避けるために、通常は左足で一塁のベース盤を踏むのだが、澤村選手はこのとき、歩幅が合わなかったのか、左足を出して踏むのが間に合わず、一塁手にぶつからないようにして、右足で一塁ベースの隅を踏み込んでしまう。その時、まっすぐ垂直の姿勢でトンとベース盤を踏めばよかったかもしれないが、一塁手との衝突を避けるためか、上体は反らし気味で踏んでしまい、ユルユルになっていた右足首に、いつもとは異なった方向から衝撃が与えられ、右足首の骨に異常が生じたらしかった。というのも、結局は、このショートへのゴロは内野安打とはならず、アウトとなったのだが、ベンチへ戻るとき、澤村選手は右足首に痛みを感じたため、少し右足を引きずる感じになったのだ。
その時、僕は、縦方向に伸びる脛骨・腓骨と横方向に伸びる距骨との接点がグニャと引違いを起こしたのかと、心配をしたことはした。しかし、ベンチに下がってきた澤村選手は、何ともない顔をしていたようだった。そのとき、『何か足の骨に異常を感じるんだけど』と言葉に出して他の者に伝えていれば、あるいは整形外科への診療をすぐに受診できていたはずなのだが。僕にはその時、単なる捻挫で、大したことにはならないと楽観視していたきらいがある。
僕の、重正先生への、故障に至るまでの経過についての話は終わる。そして、そこからは澤村選手の症状の訴えがはじまるのだが……。
結局のところ、その日、重正先生は僕たちに対して、『後足部と中足部の間にあるショパール関節及び中足部と前足部の間にあるリスフラン関節に異常が生じたかもしれないね。特に中足部の三角骨(=立方骨)と後足部の踵骨との間にある踵立方関節に、骨棘ができたかもしれない。だいたいにおいて、これら関節にはクッションとして働く関節軟骨というのがあるのですが。時として慢性疲労の結果、関節軟骨は摩耗し、滑膜が炎症を起こしたりします。さらに言えば、この関節軟骨が徐々に摩耗していくと表面がギザギザになり、骨が削られたところは、その削られた分の骨を再生しようと、関節軟骨の縁に骨棘というトゲを生むことだってあるのです。そうなると、このトゲが足の甲を走る神経や血管を圧迫し、痛みを引き起こしますからね。ともかく、まずはレントゲンを撮って確かめてみましょう』と言われたように僕は記憶している。
澤村選手とともに、都内の病院を訪れたのは、10月29日(土)に日本シリーズが終わり、広島市から都内に移動した10月31日(月)のことであった。その日以来ずっと、ここの重正先生にはお世話になっているのだった。
僕は、逃げられもせず、カウンター席のところで、重正先生と食事を摂るはめになる。
「今日は、澤村選手の治療ですか、酸素注入とか」
重正先生の声がした。横を見ると、先生の食事は終わったようだ。
僕は、緊張してまだサンドイッチを食べていた。急いで、ミックスジュースを飲み、口の中の物を喉の奥へと飲み込んだ。
「いえ、今日は、僕自身のことで内科の診察を受けまして。でも大丈夫でした。少し薬を飲めば治る程度のものですから」
僕は、手の指で頭を掻いていた。
「そうですか。気をつけてください。何しろ、澤村選手にしろ、わたしにしろ、あなたが頼りなのですから」
重正先生に、何か誉められたようなことを言われたような気がしたが、僕はピンと来なかった。先生の顔を見た。にこやかな感じだった。でも、目の色は真剣そのものだった。からかわれているわけではないと思った瞬間、僕は顔を赤らめていた。そんなに期待されるような力は僕にはないからだ。
すると、先生の声が、また僕の耳の中に入ってきた。
「わたしは求められれば、手術をしますよ。足の関節軟骨の縁にできた骨のトゲの削除とか、骨と骨の間の関節部分に挟まった骨の破片の駆除とかの手術を。でもね、手術してもアフターケアが必要なのです。手術しても生活習慣を変え、体のケアをしないで、また二年後、三年後にやって来られる患者さんがおられるのです。いや、むしろ、二度と手術に至らないよう、日頃から注意されていく人の方が数としては少ないかもしれないですね。足首は筋肉が薄くて冷えやすいところですから、トレーナーさんには気をつけてもらいたいのです。一塁のベース盤を踏み込んだ際の衝撃のエネルギーというものは大きいけれども、そこは足首の関節、膝の関節、股関節で吸収していかないといけません。あとは、ふくらはぎ、太腿の筋肉も、衝撃を吸収してくれます。そのためにも、トレーナーさんには、日頃からアスリートに対して、足首の関節、膝関節のマッサージや、下肢の筋肉をほぐし柔らかくするマッサージを、特にお願いしたいのです」
僕は、先生の言われることをきちんと聞かなくてはと思って緊張していた。ボールペンやメモ用紙を持っていないことを悔いていた。早く、地下の売店に行き、ボールペンとメモ帳を買わなくてはと思った。
その時、重正先生は食器のトレーを持ち上げられ、「お先に」と言われたような気がした。しかし、何としたことか、僕は舞い上がっており、ろくろく先生に声を出して感謝の御礼や別れの挨拶ができず、ひたすら腰を曲げ、頭を縦方向に振るしかなかった。(つづく)




