整形外科医の重正先生の真摯さ
沖田さんの食事が終わった。沖田さんが僕の方を見て、問われる。
「それで、何か心配ごとでもあるの?」
「いえ、特には」
「そうかな。さっきまで顔色が、わるかったけど」
沖田さんが、僕の目を見つめている。
僕はうそがつけなかった。
「実は、胃が痛くて」
「そうなの。ちょっと、おなか、触ってもいいかな」
「えっ?」
「そのまま、そのまま」
沖田気功師は右手を伸ばしてきて、その手を僕のおなかに当てられた。服の上からだった。しばらく、その手の指をおなかの上で動かしておられたような。僕は目をつむっていた。
「うーん」
沖田さんの声に僕は目を開けた。そして、沖田さんの目を見た。真剣だった。
「潰瘍はないと思うよ。でも微爛だね。胃壁が荒れていると思う。ともかく病院に行って鼻からでもいいし、口からでもいいから、胃カメラを入れて診てもらいなさい」
沖田さんの目はそんなに深刻そうではなかった。少なくとも、胃潰瘍や胃がんではなさそうだ。それで、僕は胃カメラを飲む気持ちになれたような感じがした。
僕は都内の総合病院に行った。ここは澤村選手も右足首の捻挫や左太腿裏の肉離れの治療で通っているところだ。
僕はすでに消化器内科で胃カメラの予約を入れていた。胃カメラは口、喉、食道と、すんなり胃の中まで入ったのだが、それからが長くかかった。胃壁に微かながらも爛があったからだ。でも、丁寧に見てもらって潰瘍やがん細胞は見つからず、僕はホッとした。医師からは微爛を鎮めるため、二週間分の飲み薬を出してもらった。そして、今後胃潰瘍などの懸念を無くすために、ピロリ菌駆除の薬も勧められたので、承諾した。胃癌や胃潰瘍にならない予防薬で保険適用なら、これはやるしかないと僕は思ったのだ。
診療費の計算を済ませ、薬局で薬ができるまで少し時間がありそうだったので、十五階の食堂に行った。朝、何も食べなかったので、ミックスジュースとサンドイッチを取ろうと思った。実際、胃潰瘍などでなく、安心したせいか、急におなかが空いたのだ。注文の品をトレイに載せてカウンターの席へ向かう。カウンター席からは実にいい景色を見ることができるからだ。白衣の男の人の背中が見えた。ここの医師なのであろう。ひとつ椅子を開けて、僕はトレイをカウターのテーブルの上に置いた。ちらりと横を見る。何と整形外科の重正先生だった。重正先生には、去年の10月31日以来、澤村選手の右足首捻挫の治療などで大変お世話になっている。
昨年のあの日、トレーナーとして付き添って病院にやってきた僕は、澤村選手と一緒に重正先生の診察室に入った。
白衣の先生が座っておられた。まっすぐこちらを見られた。黒縁のメガネをかけておられた。顔色は白いというより青白かった。そして、頬も口元も、しっかりとした作りで、僕にはすごく厳格な雰囲気が感じられた。
「重正といいます」
先生は自分の名前を言われた。そして、目の前にパソコンがあり、画面は映し出されているのに、机の引き出しからA4版の大学ノートを出され、ボールペンを握られた。
「どうされましたか?」
重正先生が澤村選手を正面から見て、問われた。すると澤村選手が横に座っていた僕を見て、うなずいた。それは、僕に代わって最初はあなたの方から説明してもらえないかという合図であった。それで僕は、右足首を捻挫した過程については僕がしゃべって、そのあと、痛みとか患部の現状など詳しいことは澤村選手が自ら語ってくれるだろうと思い、緊張しつつも、重正先生の方を向いて、手を膝の上に置き、澤村選手が怪我をした場面を思い出しながらしゃべった。
思い起こせば、昨年の10月22日のことだった。この日、広島市で日本シリーズの第一戦が行われた。わがチームの先発投手は澤村選手だった。しかしあいにく、この日は朝から雨だった。午後になっても降り止まない。ここの球場は屋根付きのドーム球場ではなく、屋外の球場であった。試合開始は午後六時、気温も下がってきた。僕は見に来られたファンの方にはわるいけれども、降り続く雨でピッチャー・マウンドの土もビニールシートは被せてあったとはいえ、水分を含んで、かなりぬかるんでいるとマネージャーから聞かされていたので、ホームグラウンドの固いマウンドの土に慣れている澤村選手のことを考えると、今日の試合は中止になればいいのにと本気で思っていた。
澤村選手の場合、指名打者として打つ時は左バッターボックスに入るのだが、投手として投げる時は右足をプレート板に置き、セット・ポジションで左足を踏み出しながら右腕を振って投げる。右投げといえば、当然軸足は右足になるのだが、澤村選手はボールをリリースする(解き放つ)瞬間、右足のつま先で、プレート板の前の土を蹴り上げて、ボールに勢いをつける。しかし、雨でぬかるんだマウンドの土はやわらかくて反発力が弱く、極論すれば蹴りの力が半減されてしまう。それどころではない。右足のつま先はスパイクを履いているにもかかわらず、柔らかい土の中にのめり込み、足の甲が左右に揺れ、ひいては右足首に不必要なまでのねじれを引き起こす結果を招いてしまった。
ともかく、この雨の中の試合で、澤村投手は6回まで投げたのだが、この間相手チームのバッターに2本もホームランを打たれ、自責点3で負け投手となった。
僕は、ふと、こんな話は重正先生には退屈だろうなと思う。それで心配になり、やや下に視線を落としながら話していた僕は、視線を上げて、重正先生の目を見た。何ということか。先生はしっかりと僕の方を見ておられた。そして先生の手元のノートは、さっきまで薄い青い線しかなかったのに、黒い文字がぎっしりと書き込まれていた。重正先生は一生懸命、僕の話を聞いてくださっていたのだ。僕は、先生の聴く姿勢の真面目さに感心し、さらに説明を続けていった。(つづく)




