第3話 遭難
ハァ ハァ ハァ ハァ
アリオは息を切らして走っていた。アリオはこれまで魔境についてあまり考えたことがなかった。そのため、なぜ村の人々が魔境に入ろうとしないのか、なぜタスラジ村には王国兵が常駐しているのか、なぜ冒険者たちは立派な装備を見に纏って魔境に入るのか、そういった大人なら誰でも知っているようなことを知らなかったのだ。アリオは魔鏡と呼ばれ人々に恐れられている土地を甘く見ていたのだ。
時を少し遡り、村でアレスタたちがアリオが朝食を食べにくるのを待っていた頃。アリオは森で1人朝食を食べていた。ふわふわのパンにたっぷりと厚切りの干し肉を挟んだ、仮にも旅をしているとはとても思えない贅沢な朝食である。パンを大きく頬張ると口中に肉の味が程良い塩味とともに広がる。普段よりも多い肉にアリオは頰を緩めて勢いよく食べていく。アリオは何分も経たないうちに朝食を平らげてしまった。アリオは少し名残惜しいと感じつつも荷物を片付けて村から離れるため、森を抜けるために森の奥へと歩いていく。
「なんだ、魔境って言ったってやっぱり大したことないじゃないか。」アリオは拍子抜けした様子で呟く。
ここまで森の浅い部分を歩いてきたが、魔獣の1匹も見ていない。全く危険なこともなく、アリオにしてみれば鼻歌を歌う余裕さえあるくらいだ。と、その時、アリオの右手奥方向にある茂みがガサッと鳴った。アリオはこれまでの余裕が嘘のように驚いて跳び上がり、大げさに距離を取ろうとした。しかし、慌てすぎていて飛び退く時に足を木の根に引っ掛けて転んでしまった。
ヒュンッ!
さっきまでアリオが立っていた場所を何かがものすごい速さで通過した。恐る恐る物体が飛び去った方を見ると、そこには明るい緑の小さなウサギがいた。ただしその額には角が生えている。ウサギは角が木に刺さってなかなか抜けずもがいている。側から見ているとなんとも滑稽な様子ではあるが、アリオはそれを見て顔を青ざめさせていた。アリオはそもそも魔獣なんて大したことはないと高をくくっていたのだ。普段村で子どもたちがチャンバラをして遊んでいる時のように簡単に倒せてしまうものなのだと。しかし実際は全くそんなことはなかった。魔境の木々は魔素の影響を受けて硬くなっている。実際、アリオが斧を持って木を切ろうとしても丸1日あっても倒せないだろう。しかしこの緑の小さなウサギはそんな木を易々と貫いて見せたのだ。もし、アリオが転んでいなかったらあの角に突き刺されていたのはアリオ自身だっただろう。アリオはまだ大した護身術を持っていない。鎧もなく、魔力による保護もない人間の子供の柔肌などあの角と速さを持ってすれば突き刺さるどころか風穴を開けられていただろう。旅に出た初日に体に風穴が開いて死ぬ。そんな光景を想像してしまったアリオの脳と体は恐怖に支配されてしまった。アリオは方向も確認せずに駆け出した。
アリオは茂みをガサガサと大きな音をたてつつ必死にかき分け進んでいく。森の中でそんな大きな音をたてていれば魔獣を撒くことなんてできる筈もないが今のアリオにはそんなことを考える余裕なんてなかった。硬く鋭い木々の葉によってかき分ける手や腕に切り傷が無数にでき、血が流れる。しかし、アリオは逃げることに意識を向けすぎてその痛みにすら気づいていない。ただただ必至に逃げて行く。
ガラガラッ!
物が転がる音がした。その転がっていた物が自分だったとアリオは遅れて気がついた。アリオは崖から落ちたのだ。幸いにもあの恐ろしい角ウサギは崖下にまでは追ってこないようだった。窮地を脱することができたと息を吐いた途端、全身に痛みが走った。崖を転がり落ちたのだ、当然全身を岩肌に打ち付け打撲している。興奮が切れたことで認識した手や腕の切り傷の痛みも無視できない。崖の上にはあの恐ろしいウサギがいるかもしれないし、このままあてもなく森を動き回れば、さっきのウサギのような恐ろしい魔獣に気づかれるかもしれない。そう考えるとアリオはとても動く気になれなかった。アリオは崖の近くの岩場に身を隠せそうな窪みを見つけるとそこでしばらく休むことにした。
夕方、アリオはお腹が減っていた。昼はウサギから逃げるために必死に走ったし、何も食べていない。逃げ切れた後も体が痛く、また魔獣を恐れて食べ物を探せていない。家から持ってきた干し肉も朝に全部食べてしまった。アリオは今更ながらに自分の計画性のなさを嘆いたが、もうあまりにも遅すぎた。それでも何か食べられるものはないかと岩陰からこっそり周りの様子を伺うと、とあるキノコが生えているのが目に入った。
(あれは•••魔力回復薬の原料になるキノコ!)
アリオは村にいた頃、引っ込み思案な子供だったが、薬師のおばあさんとは仲が良く、よく薬の調合をしているところを見学させてもらったりしていた。アリオには、魔力回復薬などといった魔法薬も魔法の神秘につながるもので、とても新鮮に映ったのだ。アリオには天の助けのように感じられた。或いは本当にそうだったのかもしれない。アリオは急いで、しかし慎重にキノコの下へ行き、一度周囲を確認してから次々と頬張った。本当は火で炙ったりしたかったが、この森で火を熾しているような余裕はなかったし、空腹で焼けるのを待つこともできなかっただろう。キノコは焼いてもいないのに香ばしい匂いがした。キノコが蓄えていた水分が溢れ出し、ほのかな甘みすら感じられる。空腹のせいもあるだろうが、アリオには今朝食べた厚切りの干し肉にも勝るとも劣らない絶品に感じた。当然、アリオの食べる手は止まらない。キノコを20個ほど食べてお腹が膨れてきたと感じ始めた頃・・・。
ドクンッ!
(なんだこれ•••体が熱い。まるで燃えているようだ。)
アリオは自分の体に異変が起こっていることに気がついた。夏に火の傍にいる時よりも、以前酷い風邪をひいた時よりも体が熱い。もしかしなくてもあのキノコのせいだろう。アリオは熱に浮かされる頭と体でなんとか先程までいた岩場の窪みに這いずって行き、身を潜めた。体の熱は一向に引く気配を見せず、アリオはそのまま気を失ってしまった。
翌朝、アリオが目を覚ますと喉がカラッカラに渇いてしまっていた。おまけに全身がいたい。アリオは寝起きのボンヤリとした頭で水筒を取り出し、水を飲む。しかし、水はもうあまり残っておらず、喉を十分に潤せたとは言い難い。アリオは舌打ちして井戸に水を汲みに行こうとして気づく。今は家出の途中で岩場の陰に隠れて一夜を明かしたことを。昨日の夜のあの燃えるような熱はいつのまにか綺麗さっぱりなくなっていた。アリオは体中の凝りを解すために大きく伸びをして歩き出す。余裕があるわけではない。しかし、水も食料もない以上動いて探すしかないだろう。
少し歩くと川が流れていた。これ幸いと喉を潤すために川に近づいていく。勿論周囲の警戒は忘れない。すると、1匹の鳥が水を飲むために川に降りてきたようだった。鳥が川面に近づいたその時、大きな魚が川から飛び出し、鳥をバクンと丸呑みにしてしまった。それを見てアリオはゾッとした。これでは川に近づくこともできない。水を飲むにも身の安全を確保するにも、とにかく魔境から出なくてはならない。アリオは落胆して歩き出す。出口の方向はわからない。どんどん喉が渇いていく。森の切れ目はまだ見当たらない。
だんだんと周囲を警戒する余裕もなくなってるいき、ガサガサと音をたてて進む。途中、見覚えのあるシルエットに出会した。昨日アリオを散々追い回したあのウサギである。一回り大きいし、少し青みがかっているので同じ個体ではないだろうが、同じ種なのは間違いない。しかし、昨日と違い今のアリオには逃げ回る元気はない。自分の死を予感したアリオだったが、何故かウサギは逃げて行った。何故だかは全く分からないし、考えている余裕もない。そうこうしている間ににもだんだんと意識が朦朧としてくる。アリオはそれでも足を動かし続けていたが、やがて気を失って倒れてしまった。




