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深淵に住む魔女 ―アノンノア天則―  作者: 久和調


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第9話「苦い酒と、甘い幼虫」

 朝食の席で、オリーゼが言った。


「これを里に届けてきて」


 テーブルの端に包みが置いてあった。布で丁寧に包まれている。中身は……聞かなくていいか。必要なら言うはずだし。


「ついでに足を延ばしてきなさい。最近庭ばっかりでしょ」


 気をきかせてくれているのか、庭にばかり居られると邪魔なのか。この人の場合、両方あり得る。


「リュート、行くぞ」


 庭でくつろいでいたリュートが耳を立てた。散歩と分かったのか、尻尾が揺れている。ノクタが肩に飛び乗ってきた。この二匹、外出の気配に敏感だ。


 包みを抱えて、屋敷を出た。



 ◇



 森の中を歩く。


 リュートが前を歩く。ノクタが肩の上でくつろいでいる。いつもの散歩と同じだが、今日は行き先がある。里まではそこそこの距離がある。オリーゼと一緒に一度行ったきりだ。


 足裏から情報が流れてくる。魔探り。意識しなくても、歩いているだけで地面の下が見える。菌糸のネットワーク。


 前に来た時は何も分からなかった。ただ歩いていただけだった。今は歩くだけで、地面がなんとなく「見える」。


 しばらく歩くと、足裏の感覚が変わった。


 菌糸が途切れている。木の根もここから先は浅い。地面の質が変わった。硬い。乾いている。そこだけ土が死んでいるような感覚。


 鼻の奥がツンとした。


 顔を上げると、木々の間から白い霧がうっすら見えた。


 酸だ。


 前にオリーゼと里に行った時、この辺りを通った。あの時は「変な匂い」くらいにしか思わなかった。今は鼻の奥が焦げる。


 魔探りで地面を探ると——地面の下に何かがある。


 菌糸のネットワークとは違う、規則的な魔法回路のようなもの。それが酸の池に向かって伸びている。


 なんだこれ。


 気になる。が、深追いはしない。酸の匂いが強くなってきたし、リュートがこれ以上近づきたくなさそうに鼻をひくつかせている。


 池の縁が見える。白い霧の向こうに、液面がちらちらと光っている。あそこに落ちたら溶ける。それは分かっている。


 池の岸辺に人がいた。


 特殊なフードの服を着て、岸辺にしゃがみ込んで、何かをやっている。


「あの、何してるんですか!?」


 遠くから呼びかけてみた。


 振り向いてこっちに来てくれた。フードを外すと、痩せ型で背の高い若い男だった。


 手に長い棒を持っている。棒の先端にガラスの瓶のようなものが括りつけてある。


酸泥(さんでい)を捕ってんだよ。こいつら、薬の材料になるんだ」


 岸辺の濡れた地面に、半透明のものがいくつか転がっていた。ぷるぷる揺れている。黄色い。ゼリーのような見た目だが、周囲の地面が微かに煙を上げている。


 ……地面が溶けてる。


「酸を食って生きてる生き物でさ。体が酸で出来てるから、素手で触ると溶けるぞ」


 酸を食って生きてる。深淵に来てから変な生き物ばかり見てきたが、こいつは群を抜いている。


「……酸を食べて生きてるんですか」


「そうらしいぜ。俺も詳しくは知らねえけど」


 もっと聞きたかったが、里に行かなきゃならない。包みを抱え直した。


「里に届け物があるんで、先に行きますね」


「おう。気をつけてな」


 男に軽く頭を下げて、先を急いだ。リュートが安心したように鼻を鳴らした。酸の匂いから離れたかったらしい。



 ◇



 里に着いた。


 石造りの建物が並んでいる。前と同じ風景だが、見え方が違う。あの時は右も左も分からなかった。今は建物の配置を覚えているし、すれ違う人の顔にも見覚えがある。


「あ、オリーゼ様のとこの…」


 年配の女性が声をかけてきた。前に来た時、俺の義足を「個性的ですね」と言った人だ。


「おつかいですか?」


「はい。オリーゼさんからの届け物です」


「ああ、いつものね。助かるわ。あっちの集積所に置いといてちょうだい」


 包みを言われた場所に置いた。中身は聞かれなかった。定期便みたいなものなんだろう。


 用事が済んだ。帰ってもいいが、せっかく来たのだからもう少し歩いてみることにした。リュートは里の子供たちに囲まれて撫で回されている。あいつ、人に懐くのだけは早い。


 里の奥の方に行くと、建物の裏手に畑が広がっていた。菌糸を使った農園。地面から光る糸が伸びて、そこから茸が生えている。光る畑。深淵は隙あらば光る。


 畑の脇で、一人の男が地面を掘っていた。


 五十代くらい。日焼けした四角い顔。手が大きい。掘る動作が板についている。


「おう」


 男がこちらに気づいた。


「オリーゼんとこの兄ちゃんか。ちょうどよかった、ちょっと手伝ってくれんか」


「手伝いですか?」


「虫がよ。地中に潜りやがって。掘り出さにゃならんのだが、数が多くてな。一人じゃ日が暮れる」


 男はガルドと名乗った。この畑の管理をしているらしい。


 断る理由もない。暇だったし。


「場所はどの辺ですか?」


「こっちだ」


 ガルドが畑の奥を指した。菌糸の光が弱い一帯がある。根元が荒らされて、齧られた跡がある。


「菌の根を食い荒らしよるんだ。菌が切れると肥の巡りが止まってな、放っとくと畑一枚丸ごと死ぬ」


 菌糸が切れると畑が死ぬ。ただの害虫じゃない。


 ガルドが掘った穴から、白い虫を引っ張り出した。丸い。拳くらいの大きさ。硬い殻に覆われている。


「何の虫ですか」


「森でよく見るだろ、あのデカい硬い虫。あいつの幼虫だ」


 突撃虫だ。


 散歩中に蹴り飛ばしたあいつの幼虫。成虫は突進してくる嫌なやつだったが、幼虫は地中で畑を殺す嫌なやつらしい。


 棒で幼虫を突く。殻がカチカチと鳴る。硬い。成虫より小さいのに、殻の硬さが尋常じゃない。


「この殻がまた厄介でな。土の肥えを殻に取り込んで硬くなりやがる。菌は食うわ土は痩せるわで、こいつらが居ると畑が二重にやられる」


 菌糸を食って循環を止め、土の養分を殻に溜め込んで土を痩せさせる。親子揃って迷惑どころの騒ぎじゃない。


 殻の無い所を叩けば駆除はできる。問題は数と、地中に潜っていることだ。


「分かりました。手伝います」


 スコップを借りて、掘り始めた。



 ◇



 地味な作業だった。


 掘る。探す。見つける。掘り出す。潰す。掘る。探す。次。


 ガルドは黙々と掘っている。べらべら喋る人ではないらしい。たまに「こっちにもいるな」とだけ言う。


 俺も黙々と掘った。体を動かす作業は嫌いじゃない。ゼクトの訓練で毎日木を蹴っていたから、こういう単純作業は慣れている。


 足裏から情報が来る。魔探り。地面の下の菌糸の流れが見える。光る線のようなネットワーク——その中に、途切れている箇所がある。何箇所も。途切れた先に、固い塊。虫だ。


「……ガルドさん、この辺りの菌糸、何箇所か切れてます。その先に虫がいる」


「なに?」


「菌糸の流れで、なんとなく」


 菌糸が切れてる場所を探せば、そこに虫がいる。闇雲に掘るより、ずっと確実だ。


「……ここと、ここと、あの辺りの下。塊になっています。巣が三つくらい」


 地面を指差す。ガルドが眉を上げた。


「ほう」


 半信半疑の顔だが、掘ってみる価値はあると思ったらしい。


「掘るか」


「はい」


 巣の位置が分かると、作業の効率が全然違った。闇雲に掘るのではなく、ピンポイントで狙える。一つ目の巣を掘り当てた。地中三十センチくらいのところに、幼虫が固まっていた。十匹以上。殻を閉じて、硬い土の塊にくっついている。


 掘り出そうとしたが、土ごと硬い。幼虫が殻を張り付かせて、岩みたいになっている。スコップでは刃が立たない。


 ガルドが額の汗を拭いた。


「こいつがやっかいでな。硬い場所に張り付くと、剥がすのに手間がかかる」


 ……なるほど。だから人手が欲しかったのか。


 デンドロイドで地面を踏みしめた。巣の塊に足を向ける。


 足を置く。踏む。


 魔法が発動した。威魔・地。デンドロイドが一瞬だけ重くなり、その重さが地面を伝わる。


 ゴッ。


 巣の周りの土が割れた。硬い塊がほぐれる。幼虫がバラバラになって転がり出てきた。殻が外れて、白い体がむき出しになっている。


「おお」


 ガルドが目を丸くした。


「いい蹴りだな、兄ちゃん」


 虫の掘り方で褒められたのは初めてだ。


 掘り出された幼虫を棒で叩く。殻の無い部分は柔らかい。ガルドが手際よく潰していく。虫の潰し方が手慣れている。毎年これをやってるんだろう。ご苦労様です。


 二つ目の巣。同じ要領で。魔探りで位置を確認して、威魔・地で掘り起こす。


 三つ目の巣は少し深かった。六十センチくらい。足を置いて、踏む。一発で崩れない。もう一回。ゴッ。崩れた。


 計四発使った。今日は訓練をしていないから、まだ一発分の余裕があるはずだ。


「他にもいるか?」


 ガルドが聞いた。もう疑っていない。


 魔探りで畑の下を確認する。……巣はもうない。散らばった個体がいくつかいるが、巣ごと潰したから数は少ない。


「大きいのは三つで全部です。あとは散らばってるやつが何匹か」


「そりゃあ後からぼちぼち掘ればいい。巣を潰してくれたなら大助かりだ」


 ガルドが腰を伸ばした。背中がバキバキと鳴っている。


「助かったよ、兄ちゃん。正直、一人じゃ三日はかかると思っとった」


「いえ、大したことは……」


「また何かあったら頼むわ。オリーゼんとこの兄ちゃんがこんなに使えるとは思わんかったぞ」


 褒めているのか失礼なのか微妙な言い方だが、ガルドは笑っている。四角い顔が丸くなる。この人に悪気はない。


「そうだ、兄ちゃん。こいつ持ってけ」


 ガルドが掘り出した幼虫を二匹、布に包んで渡してきた。生きている。殻の中で丸まっている。


「焼くと美味いぞ。甘くてな。こっちの連中にはおやつ代わりだ」


 オリーゼが「幼虫はおいしい」と言っていたのを思い出した。あの時は成虫しか持って帰れなかったが、今日は幼虫を手に入れた。


「ありがとうございます」


「おう。また来いよ」


 幼虫二匹を包みに入れて、里を出た。



 ◇



 帰り道。


 日が傾き始めている。森の中の光が橙色に変わった。リュートが前を歩いている。ノクタが肩の上で寝ている。


 酸の池の縁に差しかかった。霧が晴れている。


 あの男はもういなかった。岸辺に足跡だけが残っている。


 足跡の近くに、酸泥が一匹残っていた。


 ゼリーのような塊が、岩の窪みでぷるぷると震えている。呼吸しているのか、ゆっくり膨らんだり縮んだりしている。


 近くに落ちていた木の棒を拾った。先端で突いてみる。


 ぷにっ、と弾力がある。突いた瞬間、酸泥の体表から薄い液体がにじみ出た。棒の先端がジュッ、と音を立てる。


 棒を引いた。


 棒の先が、溶けてなくなっている。リュートは酸の匂いを嫌って、とっくに離れた場所で待っている。賢い。


 酸泥をもう一度見た。触れない。持てない。でも、あの男は捕まえていた。ガラスの瓶で。


 どうやって瓶に入れるんだろう。あの棒で掬うのか。触れたら溶けるのに。


 まあ、今日は聞けなかった。次の機会にでも。


 池の向こうを見た。白い霧の奥に、何があるのか分からない。地面の下のあの魔法回路が気になる。自然のものじゃない。あれは何だ。


 今は分からない。


 帰ろう。



 ◇



 屋敷に戻った。


 オリーゼがテーブルで書き物をしていた。いつもの光景だ。


「おつかい、届けてきました」


「ご苦労さま」


「あと、里で害虫駆除の手伝いをしてきました」


「害虫?」


「菌糸農園の地中に突撃虫の幼虫が湧いてたんで。ガルドさんって人に頼まれて」


「ああ、ガルドね。あの畑は毎年やられるのよ」


 知ってたのか。


「魔探りで巣の位置を探って、蹴りで掘り起こしました。なんとかなりました」


 オリーゼがペンを止めた。こちらを見て、布に包まれた幼虫に目をやった。


「あら、幼虫。持ってきたの」


「ガルドさんにもらいました。焼くと美味いって」


「そうなのよ」


 オリーゼが幼虫を受け取って、台所に持っていった。


「それと、帰りに酸の池の近くを通ったんですけど」


「酸泥ってやつがいました。捕まえてる人もいて」


「里の人がたまに捕ってるわね。薬の材料になるの」


「あの池の向こう側って、何があるんですか?」


 オリーゼが少し間を置いた。


「……さあ。行ったことがないから、気になるのよね」


 それだけだった。この人が「知らない」と言うのは、珍しい。



 ◇



 夕食。


 オリーゼが幼虫を焼いてくれていた。殻を外して中身を取り出し、薄く切って火を通している。皿に並んだそれは、見た目だけならちょっとした珍味だ。


 虫だけど。


 口に入れた。


 ……甘い。


 ほんのり甘くて、柔らかい。栗に近い食感だが、もう少しねっとりしている。噛むと甘みが広がる。美味い。ガルドが「おやつ代わりだ」と言っていた理由が分かった。


「美味しいでしょう? 成虫は食べるところがないけど、幼虫は別物よ」


 オリーゼも食べている。この人、個人的に気に入っているやつだ。だから「幼虫はおいしい」と言ってたのか。


 食後。オリーゼが棚から小さな瓶を出した。黒い液体が入っている。


「そろそろ飲めるようになった頃ね。養魔酒よ。魔素の器を広げるの。毎晩おちょこ一杯、夕食の後に飲みなさい」


「それって、胃が魔素中毒で爆発しません?」


「もう大丈夫よ。……たぶんね」


 今、たぶんって言った……?


 おちょこに注がれた。恐る恐る口に含む。


「……苦っ」


 舌の奥から喉にかけて、じわりと渋みが広がる。甘い幼虫の後だと、苦さが余計に際立つ。これを毎晩飲むのか。


「慣れなさい。即効性はないわ。じわじわ効くものよ」


 残りを飲み干した。二口目も苦い。


 窓の外でリュートの寝息が聞こえる。ノクタが足元で丸まっている。


 今日は訓練をしていない。おつかいに行って、畑の虫を掘って、幼虫をもらって帰ってきた。それだけだ。


 でも、「助かったよ」と言われた。木にヒビを入れるのとは、違う手応えだった。


 悪くない。


 酸の池のことが頭に残っている。あの地面の下の魔法回路。酸を食べて生きている泥。オリーゼが「行ったことがない」と言った向こう側。


 気になる。


 養魔酒の苦みが喉に残っている。明日も飲む。明後日も。じわじわ効くらしい。


 深淵での生活、三十二日目。


---


第9話「苦い酒と、甘い幼虫」 ―― 了 ――

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