第8話「折れない木と、砕けた殻」
朝。工房の灯りが消えていた。
昨晩ずっと聞こえていた「かちり、かちり」が止んでいる。いつの間にか寝落ちしたらしい。あの音を子守唄にして眠るのはどうかと思ったが、実際に眠れたのだから仕方がない。
起き上がる。元の脚で歩く。
食卓にオリーゼがいた。いつもの椅子に座って、お茶を飲んでいる。徹夜したはずなのに顔色が変わらない。この人の体力の基準がよく分からない。
テーブルの横に、デンドロイドが置いてあった。
見た目はほとんど変わらない。同じデンドロイドの木目。同じ形。
「自分でつけてみなさい」
オリーゼがお茶を啜りながら言った。
接合部に意識を向ける。魔探る。今まではオリーゼが手を添えて、何かをしていた。それが「干渉」だったのだと今なら分かる。接合部の回路に特定のパターンで魔氣を流すと、脚と体の接続が変化する。鍵を回すような感覚。
やってみる。パターンを真似る。少し外れる。もう一度。
脚を外せた。続けてデンドロイドを接合部に近づけ集中する。
カチリ、とハマったような感覚がした。
繋がった。デンドロイドが自分のものになる感覚。今までオリーゼにやってもらっていたことを、初めて自分でやった。
「……できました」
「上手ね」
オリーゼが少し笑った。
「ただし、気をつけて。戦闘中にそこへ変に干渉が入ると外れるわ。意図しない時に外さないように」
戦闘中に脚が外れる。想像したくない。
立ち上がる。デンドロイドで踏みしめる。感覚が違う。前と同じ木の感触だが、内側に何かがある。回路が眠っている。蜘蛛の巣で感じた「空っぽの配線」と同じ。
「真魔・空で組み込んだ魔法回路を起動させれば、デンドロイドの質量が変わるわ」
オリーゼの説明はそれだけだった。使い方の詳細はない。この人はいつもそうだ。最低限のことだけ言って、あとは自分でやらせる。
◇
庭に出た。
オリーゼがゼクトを呼んだ。
今日もいつもの場所、庭の奥の大きな木の前に立っていた。
「見せるな。使え」
デンドロイドを見せようとした俺を、一言で止めた。
……この人に前置きは要らない。
「木を蹴れ」
ゼクトが顎で庭に立て掛けられた丸太を示した。深淵の木は硬い。外界の木とは密度が違う。
まず素の蹴り。魔法は使わない。助走をつけて、デンドロイドを振り抜く。
ゴッ、と鈍い音。手応えはある。だが木には何も起きていない。ヒビすら入らない。
「お前はまだこの程度だ」
ゼクトが同じ木の前に立った。構えもなく、ただ横に足を出した。
木が折れた。
力任せじゃない。音が違った。足を「置いた」ように見えた。そこから体重が乗って、木が耐えきれずに折れた。一連の動作が滑らかすぎて、何が起きたのか一瞬分からなかった。
「……魔法なしで、それですか」
「当たり前だ。魔法は上乗せだ。土台がなきゃ上乗せもクソもない」
分かってはいる。分かってはいるが、目の前で見ると言葉が出ない。
「やれ。魔法を使え」
魔法を発動する。真魔・空で威魔・地の回路に干渉し、魔氣を流す。流すタイミングと蹴りのタイミングを合わせる。オリーゼが言った「蹴りの質量が変わる」を、体で確かめる。
一発目。
魔氣を流した。瞬間、足が重くなった。鉛を詰め込まれたような重さ。蜘蛛の巣に縫い止められた時の、あの感覚が足だけに来た。
重い。振れない。
蹴ろうとしたが、足が上がらない。重すぎる。膝は曲がるが、振り抜けない。空振り。足が地面に落ちる。ずしん、と庭の土が凹んだ。
「遅い」
ゼクトの一言。
……なるほど。早すぎるとこうなるのか。
二発目。
今度は逆にする。先に蹴って、当たる瞬間に流す。
蹴った。足が木に当たる。普通の蹴り。
「早過ぎる」
一瞬遅れて回路が起動して、足が重くなる。木に当たった後に重くなっても意味がない。ただの蹴りだ。ヒビすら入らない。
三発目。
タイミングをはかる。蹴りの途中で流す。蹴りの七割くらいの位置で魔氣を入れる。
近い。さっきよりはマシだ。だがまだ合わない。重くなるタイミングと、足が木に当たるタイミングが微妙にずれている。一瞬。本当に一瞬分だけ、早い。
「足を置いてから踏め」
ゼクトが言った。
置いてから踏む? 蹴りなのに置く? 意味が分からない。でも、「当てる」つもりでやった三発は全部ずれた。何か違うんだろう。
四発目。
足を振る。木に当てる。置く。踏む。発動。
ゴッ。
……手応えが違った。足の重さが一瞬だけ木に乗った。薄いヒビが入っている。指の腹で触ると分かる程度の、細い線。でもこれは、魔法なしの蹴りでは絶対に出来なかった痕だ。
いける。もう一回。
五発目。
集中する。さっきの感覚を再現する。足を振る。置く。踏む。
回路に魔氣を流そうとした——体から力が抜けた。
膝が折れる。地面に手をつく。視界が暗くなる。吐き気。頭の中が空っぽになる感覚。魔素が残っていない。デンドロイドが動かない。
庭の土の上に倒れた。
「……っ」
息が荒い。指一本動かすのがやっとだ。四発目で手応えがあったのに。あと一発、もう一発だったのに。
リュートが駆け寄ってきた。鼻先を押しつけてくる。心配しているのか、匂いを嗅いでいるのか、多分両方だ。
「……限界まで使い切る奴があるか」
ゼクトの声。呆れている。
「お前が倒れて動けない時に何か来たらどうする。残さなきゃ死ぬぞ」
返す言葉がない。文字通り、声が出ない。
ノクタが顔の横に降りてきて、頬を小さな手で叩いた。マッサージなのか叱咤なのか。多分両方だ。
オリーゼが魔素の回復ドリンクを持ってるまで、庭の土の上で、しばらく動けなかった。
深淵での生活、二十四日目。五発全部外して倒れた。成果:木に薄いヒビ一本。
◇
翌日から、ゼクトに魔法の使用を禁じられた。
「まず蹴りの形を体に入れろ。魔法はその後だ」
「魔法なしで折れるようになるまでですか」
「魔法がなくても折れるくらい蹴れなきゃ、魔法があっても意味がねえ」
三日間、ひたすら蹴った。魔法なしの素蹴り。百回。二百回。庭の木を蹴り続けた。足の形を整えるだけ。同じ動作を繰り返すだけ。地味で、退屈で、足がしびれて、それでも蹴った。
ゼクトは見ているだけだった。たまに「重心」とか「軸」とか一言だけ言う。それだけで七割の修正が入る。怖い。この人の目はどう出来ているんだ。
三日目の終わり。素蹴りで木にヒビが入った。魔法なし。自分の体だけの蹴りで。
ゼクトは何も言わなかった。ただ次の木を指差した。
◇
二十八日目。魔法使用の再開。
ただし一日三発まで。
「いいか。残り二発は絶対に使うな。何があっても、二発は残せ」
「五発のうち三発しか練習で使えないってことですか」
「そうだ。残りは素蹴りだ。それで十分だ」
初日は三発とも外した。タイミングの感覚が三日の間に薄れている。体は覚えているのに、魔法の方が合わない。
二日目も外した。三日目、初めて一発当たった。木にはっきりとヒビが入った。三発のうち一発。残り二発は空振り。素蹴りで蹴った木にはヒビが入るのに、魔法ありの蹴りは三発中一発しか当たらない。
成功率が低すぎる。だが、初日のあの手応えを知っている。合った時の感覚。あれを再現すればいい。
◇
三十一日目の朝。
「今日も三発だ」
ゼクトが庭の木の前に立った。
俺の一日は、この三十分で決まる。ゼクトの顕霊時間。この三十分の中で、三発の魔法と、残りの素蹴りをやる。一発一発が重い。
素蹴りから始める。体を温める。木を蹴る。魔法なしでヒビが入る。初日の自分には出来なかったことだ。
「使え」
ゼクトが言った。
一発目。
足を振る。木に置く。踏む。魔法を発動する。
——合った。
ゴッ。木にヒビが走った。深い。表面だけじゃない。繊維の奥まで亀裂が入っている。
「……入った」
「二発目」
二発目。同じように。足を振る。置く。踏む。
ずれた。魔法の発動が一瞬早い。足が重くなって、蹴りの軌道がわずかに落ちる。当たったが、浅い。表面だけ。
「力で蹴るな」
三発目。
足を振る。置く。踏む。二発目より少し遅らせる。
ゴッ。当たった。ヒビが入る。だが一発目ほど深くない。半分くらいしか乗っていない。
三発終了。残り二発。
……もう一発。あと一発だけ。一発目の感覚がまだ足に残っている。あれをもう一回、今ならできる気がする。
「残せ」
ゼクトが読んだ。一歩も動いていないのに、俺の考えを見透している。
「……はい」
残り二発を温存して、訓練終了。今日は三発中一発が深く入った。あのヒビの深さは初めてだ。
ゼクトが薄くなっていく。三十分が終わる。
「悪くない」
消える直前に、ゼクトがそれだけ言った。
……この人に「悪くない」と言われたのは初めてかもしれない。
◇
訓練が終わった。
リュートが庭から飛び出してきた。尻尾が揺れている。訓練中は離れて座っているが、終わるといつもこうだ。今日も散歩に行きたいらしい。
「分かった。行くか」
ノクタが肩に乗った。軽い。
屋敷の裏手から森に入る。いつもの散歩道。リュートが先を歩く。鼻先で地面を嗅ぎながら。俺はその後ろをゆっくり歩いた。
足裏から菌糸のネットワークが感じられる。魔探りの感覚が自然に広がる。三週間前は意識しないと出来なかったことが、今は歩くだけで勝手に感じる。
風が静かだ。木漏れ日が揺れている。リュートがたまに振り返って、俺がちゃんとついてきているか確認する。
足元に、違和感があった。
魔探りが拾った。地面の下。菌糸のネットワークとは別の何か。小さいが、硬い。動いている。こっちに向かって――
リュートが先に反応した。立ち止まって、低い位置に身構える。喉の奥で唸る。
地面が盛り上がった。
土を割って、何かが飛び出してきた。黒い甲殻。六本の脚。体長は俺の腕くらい。カブトムシを横に引き伸ばしたような形で、先端に分厚い頭殻がある。
そいつが、俺に向かって突っ込んできた。
速い。
考えている暇がなかった。
体が動いた。
デンドロイドを振った。蹴りの形。ゼクトに何百回と叩き込まれた形。足を振る。置く。踏む。
魔法が発動した。
狙っていない。意識していない。体が覚えた動きに、魔法が勝手に乗った。足が重くなる。その重さが、甲殻に当たる。
バキッ。
甲殻が割れた。黒い破片が飛び散った。そいつが横に吹っ飛んで、地面を二回転して止まった。脚がぴくぴくと動いている。もう突進してこない。
……。
…………え?
当たった?
足元を見る。デンドロイドで蹴った。魔法を使った。甲殻が割れた。虫が転がっている。
当たった。
今までの訓練で一番いい一撃だった。タイミング。重さ。角度。全部が合った。木を蹴った時より、ずっとはっきりした手応え。
でも狙っていない。考えていない。体が勝手に動いた。
ゼクトの声が頭の中で響いた。「当てることを考えるな。足を置け」。考えなかったから当たった。
リュートが俺を見ていた。構えたまま、動いていない。出番を取られた顔だ。
「……ごめん。先にやっちゃった」
クルル、とリュートが鼻を鳴らした。不満そうだが、怒ってはいない。匂いを嗅ぎに転がった虫に近づいて、鼻先でひっくり返した。興味はあるらしい。
温存していた二発のうち一発。虫に使った。
咄嗟に出た。来たから蹴った。
……残していて、良かった。
転がった虫を拾い上げた。重い。甲殻が分厚い。こいつが突進してきた時の速さを思い出す。まともに食らっていたら、多分かなり痛かった。
持って帰ることにした。食えるかもしれないし、オリーゼが何か知っているだろう。
◇
屋敷に戻った。
オリーゼがテーブルで書き物をしていた。転がした虫を見せると、ペンを置いて少し見た。
「ああ、それね。鎧走蟲。よくいるわ」
「よくいるんですか……」
「突進してくるだけの子よ。……成虫は食べるところないのよね。幼虫はおいしいんだけど」
食べられない。仕方ない。
「甲殻は使えるわ。ちょっとした加工の素材になるから、置いておいて」
オリーゼが虫を受け取って、工房の方に持っていった。
俺は心の中で「突撃虫」と名付けた。突っ込んでくるだけだし。突撃虫。名前としては雑だが、鎧走蟲より覚えやすい。
◇
夕食後。
自室に戻った。デンドロイドに手を当てる。回路がある。一週間前にはなかったものが、今はデンドロイドの中で眠っている。今日、あの虫を蹴った時だけ、完全に起きた。
まだ十回に一回か二回しか当たらない。木を蹴ってもまだ綺麗に折れない。ゼクトのあの一蹴りには程遠い。
でも、今日の一撃は違った。訓練じゃなかった。来たから蹴った。考えなかった。体が動いた。
ゼクトは言った。「当てることを考えるな。足を置け」。
三日間の素蹴り。何百回と繰り返した形。あれが体に入っていなかったら、今日のあれは出なかった。
窓の外でリュートの寝息が聞こえる。
枕元でノクタが丸まっている。
明日、ゼクトに報告する。「散歩中に虫を蹴りました」。多分あの人は「どうだった」とだけ聞く。「当たりました」と言ったら、「そうか」とだけ返す。
それでいい。
深淵での生活、三十一日目。
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第8話「折れない木と、砕けた殻」 ―― 了 ――




