第7話「重い糸と、軽い足」
借り物の爪で倒した初めての獲物。蟹より甘い白い肉を食いながら、俺は「次は一人で倒したい」と言った。
オリーゼの返事は武器の話だった。
「あの蜘蛛の廃棄された巣は、天然の魔法回路よ」
武器の素材になるかもしれない。そう聞いて食い気より先にそわそわし始めた俺に、オリーゼは「急がなくていいわ。今日はもう寝なさい」と言った。
翌日、オリーゼは一日中書斎に籠もっていた。地図を広げたり、棚から細い糸の切れ端を出して並べたり。覗き込もうとしたら「触らないで」と言われた。それだけ。
やることがないので素振りのつもりで義足を振ったら壁にぶつけて怒られた。
その翌朝。起きると、オリーゼがもう支度をしていた。
「準備できたわ。今日、行きましょう」
いつも書物に囲まれているオリーゼが、腰に小さな革袋を下げて立っている。髪を後ろでまとめている。遠出の格好だ。
……この人、そういう格好するとちゃんと若く見えるんだな。三百歳超えてるのに。
「俺もですか」
「蜘蛛の巣の扱い、教えないといけないから。次からは一人で行けるように」
リュートが中庭からこちらを見ていた。尾が揺れている。行きたいのが丸分かりだ。犬か、お前は。
「リュート、今日はお留守番よ」
オリーゼが静かに言った。リュートの尾が止まる。
「あなたの火は蜘蛛を刺激するの。今日は静かに行きたいから」
「クルル……」
不満そうな低い声。リュートは俺を見て、それからオリーゼを見た。お前に言ってもらえ、という目だ。無理だろ、俺にそんな交渉力はない。
「分かってるよ。すぐ帰るから」
俺がリュートの額を撫でると、鼻先で手を押し返された。拗ねてる。完全に拗ねてる。
ノクタが肩に飛び乗ろうとしたが、オリーゼに「あなたもよ」と言われて、リュートの背中の上でしぼんだ。
「クー……」
「二人とも、いい子にしてて」
オリーゼが屋敷を出る。俺も続いた。
リュートがいない。二人だけ。
オリーゼと二人で遠出するのは、初めてだった。
◇
森に入った。
リュートと歩いたのと同じ道。だが、リュートがいないと静かだ。あいつの呼吸音と足音がないだけで、森の音がよく聞こえる。枝葉の擦れ、遠くの水音、何かの虫の羽音。
足裏から伝わる感覚。地面の下を走る菌糸のネットワーク。歩くたびに密度が変わっていく。前に来た時より、少し深いところまで感じ取れている気がする。気のせいかもしれないが。
「あの子たちは賢いわ。巣に触れなければ何もしない」
オリーゼの足取りは軽い。だが目は常に周囲を見ている。
「でも、もし触れて動けなくなったら……あの子たちはちゃんと食べに来るわ」
さらりと言った。さらりと、怖いことを。いつものことだが慣れない。
「今日は地面に近い場所に行くわ。あなたの義足には地の回路が合うから」
「地の回路?」
「蜘蛛にも種類があるの。地面付近にいるのは威魔・地の蜘蛛」
「前に見た、光ってビリビリしてたやつは?」
「あれは雷の子。高い所にいるわ」
なるほど。場所で種類が違うのか。
「地の蜘蛛の巣に引っかかると、どうなるんですか」
「糸が重くなるわ。とても。獲物ごと地面に縫い止めるくらいに」
オリーゼが立ち止まった。
前方の木々の間に、細い糸が光っていた。
枝葉越しの薄緑の燐光を受けて、銀色の糸が幾何学模様を描いている。一本一本が光を帯びていて、風が吹くと微かに振動して、澄んだ音を立てる。
美しかった。
だが、美しいものが全部危ないのが深淵だ。光る茸、爆発する胡桃、岩に化ける蟲。ここの奇麗なものを信用したら痛い目を見る。
「ここからは静かにね」
オリーゼの声が小さくなった。
◇
蜘蛛の巣のエリアに入った。
木々の間に、巣が何枚も張られている。両手を広げたより大きいものから、手のひらほどのものまで。高さも様々で、地面すれすれのものから、頭上を横切るものまで。うっかり歩いたら絶対どれかに引っかかる。罠だらけだ。
使用中の巣の中心に、蜘蛛がいた。
俺の前腕くらいの大きさ。黒い脚に光沢がある。六つの目がこっちを向いている――かどうかは分からない。巣の中心でじっとしている。動かない。
……でかい。普通に怖い。
だが蜘蛛は動かない。糸に触れなければ安全だとオリーゼは言った。つまり糸を通じて振動で感知している。こちらが蜘蛛の巣に触れないかぎり、あいつにとって俺たちは存在しない。
理屈は分かるが、あのサイズの蜘蛛の目の前を通るのは心臓に悪い。
「目じゃないわ。感じなさい」
オリーゼがささやいた。
目を閉じる。意識を広げる。霧のように薄く。足裏から数歩先の範囲で、回路がぼんやりと見えてくる。俺はこの感覚を、心の中で勝手に「魔探り」と呼んでいた。暗闇の中で手を伸ばして、回路を手探りする感覚。そのまんまだ。
巣の中に回路がある。菌糸を感じるのと似た感覚で、蜘蛛の糸の配列が浮かぶ。
使用中の巣。回路が脈動していた。心臓のように、規則的に。強い。はっきりしている。これは間違えようがない。
少し離れた場所に、別の巣がある。蜘蛛はいない。回路の構造は残っているが――脈動がない。空っぽだ。配線だけが残って、中身が抜けている。
廃棄された巣。これが「空」か。
「……こっちが空です」
指差す。オリーゼが小さく頷いた。
「上手ね。……それ、魔法回路蝕知って言うのよ。略して魔蝕」
マホウカイロショクチ。長い。略しても「マショク」。硬いな。俺の中ではずっと「魔探り」だったんだが。
空の巣に近づいた。慎重に、周囲の糸に触れないように。ここで引っかかったら洒落にならない。
手を伸ばす。指先が糸に触れた。
冷たい。……金属? 蜘蛛の糸って金属なのか。細いが弾力がある。指で弾くと、微かに澄んだ音がした。硬いのに、しなる。そしてめちゃくちゃ指に張り付く。蜘蛛の糸だから当然っちゃ当然か。
根元から丁寧に剥がしていく。触れても重くならない。ただの構造物。精巧な、だが空っぽの回路。引っ張ると弾力で跳ね返ってきて、余計に絡まる。格闘すること数十秒、なんとか剥がした。
ずっしりと重い。見た目の細さからは想像できない密度。これが武器の素材になる。
「いいわ。次を探しましょう」
二束目を探す。感覚を広げながら、巣の間を歩く。使用中の巣は避ける。蜘蛛のいない巣を探す。脈動がないものだけを選ぶ。
見つけた。回収する。二束目。
回収中、足元に違和感があった。
義足に何かが巻きついている。
見下ろす。地面から細い根が伸びて、デンドロイドに絡みついている。じわじわと締め付けが強くなる。
何だ。植物か? 根みたいだが、意思があるように動いているぞ。
「あら」
オリーゼが小声で言った。笑いを噛み殺している。なんで笑う。
「擬態根よ。……あなたの足、トレントの木材だから、同族だと思って反応してるの」
同族。木の根が、俺の義足を仲間だと思っている。
じゃあこれ、求愛か? 物理的に絡みつく求愛。重い。文字通り重い。
「あら、モテモテね。その足、魔素がよく通ってるから、野生の木よりお好みなのよ」
オリーゼが口元を押さえて笑っている。
笑い事じゃない。足が引っ張られている。体勢が崩れかける。すぐ近くに使用中の巣がある。倒れたら糸に触れる。触れたら縫い止められる。縫い止められたら――食われる。
「真魔・空で押し返してみなさい。木じゃないって」
意識をミミック・ルートに向ける。根の内部にも回路がある。そこに干渉すればいい。
だが、魔探りを維持しながら、同時にミミック・ルートに干渉するのが難しい。鋏鬼蟲の時と同じだ。避けながら繋がる。二つのことを同時にやれない。この壁、何回目だ。
一瞬、魔探りを切った。ミミック・ルートだけに集中する。
根の回路に干渉して、義足との接続を断つ。俺は木じゃない。お前の仲間じゃない。
根がするりと離れた。振られた、という表現が正しいのかもしれない。
息をつく。
「……笑い事じゃないです」
「でも上手に外せたわね」
……褒めて誤魔化さないでほしい。
だが、今の一瞬で魔探りが切れていた。復帰する。周囲の巣を再確認する。使用中の巣は動いていない。蜘蛛も動いていない。大丈夫だ。地面のミミック・ルートに改めて目をやる。何事もなかったように土に戻っている。未練はないのか。ないんだろうな。木の根だし。
三束目。四束目。順調に集まった。
少し慣れてきた。魔探りの精度が上がっている。どの巣が脈動していて、どの巣が空か、離れた場所からでも判別がつくようになってきた。
◇
五束目を探していた。
少し離れた場所に、小さな巣がある。蜘蛛はいない。
感覚を伸ばす。回路の構造が見える。脈動は……ほとんどない。かすかに、本当にかすかに何かが残っている気もするが、気のせいかもしれない。空の巣は完全に沈黙していたが、こいつはそこまで明確じゃない。でもまあ、蜘蛛もいないし、ほぼ空だろう。
手を伸ばした。
糸に触れた瞬間――
指に張り付いた。最初の巣と同じ感触。よし、問題な――
糸が、重くなった。
は?
引きずり込まれた。腕が落ちる。膝が折れる。糸がまとわりつくたびに重さが増していく。さっきまで指に張り付いてるだけだった糸が、一本一本鉛に変わっていく。
地面に倒れた。
糸が体に絡みつき、胸を圧迫する。息が浅くなる。声を出そうとしたが、胸の上の糸が重すぎて肺が膨らまない。
……嘘だろ。
地面に縫い止められた。顔の高さに、落ち葉がある。湿った土の匂いが鼻を突く。目の前にも蜘蛛の糸が何本も走っている。動いたら触れる。だが動けない。指一本すら持ち上がらない。
「ほぼ空」だと思った。ほぼ空だと判断した。でも「ほぼ」は「完全に」じゃなかった。蜘蛛がいなかったのは、去ったばかりだったからだ。魔氣がまだ微かに残っていたのだ。
馬鹿か、俺は。慣れてきたと思った瞬間にこれだ。
脈動が動き始めた。
近くの使用中の巣から。蜘蛛が動いている。糸の振動を感じ取って、こちらに向かっている。
死ぬかもしれない。
理屈じゃなく、そう思った。鋏鬼蟲の時は見えていた。何が来るか分かっていた。でも今は地面に張り付いて何も見えない。体が動かない。声が出ない。近づいてくるのが分かるのに、何もできない。
怖い。
足音が聞こえた。
軽い。静かな足音。
「動かないで」
オリーゼの声。小さいが、はっきりしている。
動けないから動かない。動かないでって言われなくても動けない。そうツッコむ余裕すらなかった。
視界の端に、オリーゼの手が見えた。しゃがんでいる。俺の体に巻きついた糸に、指先で触れた。
何も起きないように見えた。
数秒後。糸の色が変わり始めた。銀色が白に変わっていく。表面から粉が吹いた。まるで百年経った金属が一瞬で錆びたように。
糸が崩れた。
重さが消える。体が軽くなる。胸が広がって、深く息を吸い込んだ。肺に空気が入る。当たり前のことが、こんなにありがたいと思ったのは初めてだった。
「ほら、立てるわ。――でも、まだ動かないで」
蜘蛛がまだ近い。オリーゼが俺の前に静かに立った。動かない。呼吸すら抑えている。さっきまで笑っていた人間と同じとは思えない。
蜘蛛が近くまで来て、止まった。
糸の振動がもう消えている。獲物がいない。巣に反応がない。六つの目がこちらを向いている――向いているように見える。だが蜘蛛は振動で世界を感じている。振動がなければ、俺たちはここにいないのと同じだ。
数秒。長い数秒。心臓がうるさい。こいつに聞こえないのか。振動は感知するくせに心音は拾わないのか。それとも拾っているのか。分からない。分からないのが一番怖い。
蜘蛛がゆっくりと、脚を一本ずつ動かして向きを変えた。元の巣に戻っていく。
二人とも動かない。蜘蛛が完全に離れるまで。
巣に戻った。蜘蛛が巣の中心に座り直す。動かなくなる。
オリーゼが小さく息を吐いた。
「……大丈夫。行ったわ」
俺は立ち上がった。膝が震えている。糸の重さは消えたのに、膝が震えている。恐怖だ。何もできなかった。声も出せなかった。地面に張り付いて、死ぬかもしれないと思った。
……いや、待て。
あの糸を、指で触れただけで崩した。
あの人は指先一つで、粉にした。俺が最初の一束を剥がすのに数十秒格闘したあの糸を。
鋏鬼蟲の甲殻をリュートの鋭い爪と全力の一撃で切り裂くのだって大仕事だったのに。
この人は――
オリーゼは俺の肩についた糸の粉を払いながら、小さく笑った。
「怖かったでしょう。……次は、もっと慎重にね」
その声は、いつもの穏やかなオリーゼだった。さっきまで蜘蛛の前で石像みたいに動かなかった人と同じ声。
◇
慎重になった。
「ほぼ空」は信用しない。完全に脈動がゼロの巣だけを選ぶ。少しでも何か感じたら手を出さない。回収ペースは落ちた。でも、さっきあの重さを味わった体が「急ぐな」と言っている。体が正しい。
五束目。六束目。確実に集まる。
「それだけあれば十分よ」
革袋に糸の束。意外と軽い。さっき俺の体にかかった、あの重さが嘘のようだ。
……これが武器の素材か。素材に殺されかけたのは笑えない。いや、後から考えたら少し笑えるかもしれない。今は笑えない。
◇
蜘蛛のエリアを抜けた。
オリーゼの足取りが普段に戻る。俺は肩の力が抜けた。あのエリアにいる間ずっと、自分が息を詰めていたことに今さら気づく。
「……さっきの」
「ん?」
「糸を壊したの、あれは何ですか」
オリーゼがこちらを見た。少し考えるような間があった。
「聖魔・樹よ。あの子の糸は高分子だから、結合を弱めてあげれば崩れるの」
「弱めてあげれば、って……」
「化学結合を下げるだけ。私の専門よ」
「だけ」と言った。「下げるだけ」。
この人は手術の話もそうだった。俺の体を真っ二つから繋ぎ直した。この人の「だけ」は信用してはいけない。「だけ」の中に、とんでもないものが入っている。
「帰ったら義足に組み込むわ。地の回路を走らせて、あなたの真魔・空で起動できるようにする。回路に魔氣を流せば、蹴りの質量が上がる」
「……蹴りの質量?」
「さっき味わったでしょう? あの重さが、蹴りに乗るの」
あの重さ。指一本動かせなくなった、あの重さ。
それが、武器になる。
「……どれくらいかかりますか」
「一晩あれば」
帰り道が短く感じた。革袋が腰で揺れる。軽さが、不思議と嬉しかった。さっき殺されかけた原因なのに。
◇
家が見えた。
中庭からリュートが飛び出してきた。俺の周りをぐるぐる回って、匂いを嗅いでいる。鼻先を義足に押し付けて、くんくんと忙しい。蜘蛛の匂いが気になるらしい。
「クルル?」
「蜘蛛の糸を取ってきたんだ。お前が行けない場所だったんだよ」
リュートがじっとこちらを見た。不服そうだ。俺が無事なのは分かったらしいが、自分抜きで遠出されたことは許していない。鼻で手を突いて、それから中庭に戻っていった。
……拗ねてるな。帰ってきたのに出迎えが三秒で終わった。
ノクタが肩に飛び乗った。小さな手で耳たぶを引っ張る。留守番の不満を訴えている。
「ごめんごめん。お前がいなくて寂しかったよ」
「クー」
信じていない顔だった。頬を一発叩かれた。マッサージなのか報復なのか判断がつかない。
……両方だろうな。
◇
夕食後。
「さて、義足をもらうわね」
オリーゼが言った。
俺が一瞬考えているうちに、オリーゼは有無を言わさず手を伸ばし、馴れた手つきで義足から元の脚に換装した。
見慣れた光景のはずだったが、今日はその手つきの精度が前より分かった。あの蜘蛛の糸を粉にした指が、今は義足の接合部をミリ単位で操作している。この手で俺の体を繋ぎ直したのだ。
「そろそろ自分で付け外しできるようにならないとね」
オリーゼは義足を抱えて工房に向かいながら言った。
「先に寝ていいわよ」
その言葉だけ残して、扉が閉まった。
自室に戻り、寝床に入った。元の脚で歩く。元々はこっちの脚だったのに、感覚が違う。デンドロイドに慣れすぎたらしい。ゼクトに「自分の脚で立て」と言われた日のことを思い出す。あの時も、義足を外した直後のこの頼りなさがあった。
眠れない。
工房のほうから、かちり、かちりと細い音が聞こえる。糸を加工している音。一定のリズムで、途切れない。
あの糸だ。俺が蜘蛛に怯えながら集めた糸。指に張り付いて離れなかった糸。体を地面に縫い止めた糸。オリーゼが指先で粉にした糸。
それを今、義足に組み込んでいる。
明日には回路が入る。あの糸に触れた時の重さを思い出す。全身にまとわりつく糸が鉛のように重くなって、地面に縫い止められた感覚。息が出来なくなるほどの重さが、一瞬で降ってきた。
あれが、蹴りに乗る。
自分で集めた素材が、義足に組み込まれ、自分の一撃になる。
窓の外でリュートの寝息が聞こえる。穏やかだ。枕元でノクタが丸まっている。
工房の音は消えない。
かちり、かちり。
深淵での生活、二十三日目。
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第7話「重い糸と、軽い足」 ―― 了 ――




