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深淵に住む魔女 ―アノンノア天則―  作者: 久和調


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第6話「借りた爪と、初めての獲物」

 ゼクトの訓練は五日間続いた。


 立ち方。受け方。体の流し方。毎日三十分、制限いっぱいまで、俺はただ押されて転がり続けた。


 五日目の終わりに、ゼクトが言った。


「もういい」


 それだけだった。「行ってこい」とは言わなかった。でも、ゼクトがもういいと言ったのなら、そういうことだ。



 ◇



 翌朝。深淵での生活、二十一日目。


「行ってきます」


 オリーゼが書物から目を上げた。


「気をつけてね。無理はしないこと」


「リュートも一緒ですから」


「リュートがいるから余計に心配なのよ。あの子、張り切りすぎるから」


 中庭に出ると、リュートがもう待っていた。尾が大きく揺れている。足踏みまでしている。こいつにしては珍しい。


「クルル」


「分かってるよ。行くぞ」


 ノクタが肩の上で「クー」と不満そうに鳴いた。


「お前は留守番。今日はちょっと危ないから」


「クー……」


 小さな手で耳たぶを引っ張られた。俺がいないとマッサージする相手がいなくなるのが不服らしい。オリーゼの肩に飛び移らせて、俺はリュートと並んで屋敷を出た。


 甲殻強化のデンドロイドが地面を踏む。ゴッ、ゴッ。この音にも慣れた。



 ◇



 前と同じ道だった。


 だが、見え方が全然違う。


 二週間前、リュートに付いていくだけだったこの森を、今は空属性で感じながら歩いている。足元に細い回路が走っている。苔の中を、枝の中を、そして地面の下の菌糸の中を。


 特に菌糸が濃い。光る茸の根が地中で網のように広がっていて、俺の空属性と繋がろうとしてくる。練習で何度か触れてみたことはあったが、森の中はまるで密度が違った。


 地面の下に、もう一つの森がある。


 リュートが前を歩く。俺はその横を、周囲を探りながらついていく。


 あの場所が近い。覚えている。この傾斜を超えたら、岩場だ。


 リュートが立ち止まった。鼻先を低くして、地面の匂いを嗅いでいる。


「いるか?」


 リュートの尾が低く揺れた。肯定だ。


 岩場が見えた。


 あの日と同じ光景。灰色の岩がごろごろと転がっている。苔に覆われた平たい岩。高さは腰くらい。座りやすそうな――


 俺は足を止めた。


 苔のパターンが違う。周囲の岩は苔がまばらに偏っているのに、あの一つだけ均一に覆われている。そして、表面がわずかに上下していた。


 呼吸している。


「……お前か」


 リュートに目配せする。リュートは静かに体を低くした。前脚の爪が、土を噛んだ。


 岩が、動いた。


 甲殻の継ぎ目が割れるように開き、畳まれていた鋏が展開する。黒褐色の甲殻。六本の太い脚。体長一メートル半。


 前回、俺の義足を砕いた相手。


 鋏鬼蟲。


 前回と同じ光景。だが、俺は地面に転がっていない。立っている。



 ◇



 最初の鋏が来た。


 横薙ぎ。俺の腰を刈り取ろうとする軌道。


 半歩、右にずらす。体を捻る。――正面から受けるな。角度をつけて、滑らせろ。ゼクトの声が、体の奥から響いた。


 鋏が空気を切り裂く音が、耳のすぐ横を通り過ぎた。


 避けた。前回はあれで終わった。


 だが感慨に浸る暇はない。二撃目。逆の鋏が下から跳ね上がるように振り上げられる。後ろに飛ぶ。着地。三撃目――真横から。


 ギリギリだった。甲殻の義足の表面を鋏の先端が掠めた。ゴッ、と硬い音。前の木の義足なら、今ので砕けていた。甲殻強化が効いている。


 鋏鬼蟲が鋏を体の下に戻し始める。畳み直す動作。数秒の隙。これが弱点だ。前回の記憶が正しければ――


 今だ。


 しゃがみ込んで地面に手を触れる。空属性を流す。菌糸のネットワークに繋がる。足元の地面の下に、細い回路が走っているのを感じ――


 鋏が戻った。


 速い。畳み直しに数秒かかると思ったが、さっきの三連撃で焦っている。鋏の振り上げが来る。慌てて手を離して転がる。


 集中が切れた。接続が途切れた。


「くそ……」


 避けることと、繋がること。同時にやるのは初めてだ。


 鋏が来る。避ける。隙を見て地面に触れる。繋がりかける。鋏が来る。避ける。切れる。


 同時にやろうとすると、どっちも中途半端になる。


「クルルルッ!」


 リュートが横から割り込んだ。喉の奥で火を溜めて、鋏鬼蟲の顔に向けて威嚇する。鋏鬼蟲が一瞬ひるんだ。複眼がリュートの方を向く。


 今なら。


 地面に手をつく。菌糸に触れる。繋がった。網の一端を掴んだ感触がある。鋏鬼蟲の脚の下に、太い菌糸の束が走っているのが分か――


 鋏が戻ってきた。リュートの威嚇を無視して、俺を狙っている。


 手を離す。避ける。また切れる。


「くそっ!」


 リュートが体当たりで鋏を弾いた。子竜の体では鋏鬼蟲を動かせないが、鋏の軌道をわずかに逸らすことはできる。


 だが、いつまでもは続かない。


 考えろ。じゃなくて、考えるな。


 ゼクトの言葉が頭をよぎった。


「体が覚え始めてる」


 体に任せろ。五日間、毎日三十分、転がり続けた体に。


 鋏が来た。


 体が動いた。


 半歩ずれる。鋏が横を過ぎる。そのまま、体が沈む。避けた姿勢のまま、左手が地面に触れた。


 ――繋がった。


 今度は切れない。避ける動きの中に、繋がる動きが溶け込んでいた。


 菌糸のネットワークが広がる。足元から放射状に。鋏鬼蟲の六本の脚の下に、太い菌糸の束がある。右側、三本目の脚の真下に特に集中している。


 干渉する。


 菌糸を一瞬だけ膨張させた。地面が小さく隆起する。


 鋏鬼蟲の右側の脚が浮いた。四百キロの甲殻が傾く。


 ――今だ。


 駆け込んだ。


 傾いた甲殻の右側、脚元に体を滑り込ませる。鋏が頭上を通過する。体勢の崩れた一撃には精度がない。


 体捌きの要領。力の方向を変える。こいつを正面から押すのは無理だ。だが、傾いている方向に力を足すなら――


 肩を甲殻の縁に当てて、膝を伸ばした。角度をつけて、滑らせろ。ゼクトの教えそのままだ。


 足元の菌糸にもう一度干渉する。右側の脚の下をさらに持ち上げる。


 鋏鬼蟲が横転した。


 ズドン、と甲殻が地面を打つ。重い。地面が震えた。六本の脚がばたばたと空を蹴っている。


 腹が見えた。


 黒褐色の甲殻と違う、灰色がかった柔らかい表面。


「リュート!」


 叫ぶ必要はなかったかもしれない。リュートはもう跳んでいた。


 低い姿勢から一直線に。翼の一振りで加速して、鋏鬼蟲の腹に到達する。


 鋭い前脚の爪が、灰色の腹を一撃で切り裂いた。


 鋏鬼蟲の脚がびくりと跳ねて、動きを止めた。



 ◇



 静かになった。


 俺は膝をついていた。息が荒い。全身汗だくだ。手が震えている。


 リュートが鋏鬼蟲の横に立っていた。前脚の爪に体液がついている。こいつは息一つ乱していない。


 リュートがこちらを向いた。


「……やったな」


「クルル」


 尾が大きく揺れた。俺はリュートの首元に手を伸ばして、くしゃりと撫でた。


 前回は、一方的に助けられた。何もできずに地面に這いつくばって、リュートに運んでもらった。


 今回は違う。


 二人でやった。


 リュートの爪がなければ倒せなかった。でも、俺がひっくり返さなければ、リュートの爪は腹に届かなかった。


 自分の手を見た。空属性で地面を動かした手。ゼクトの体捌きで蟲を転がした体。武器はまだない。でも、初めて自分の力でお膳立てをした。




 ◇



 リュートの爪で甲殻を剥がした。ナイフなんかなくても、この竜の爪は何でも切れる。


 白い肉が見えた。思ったより柔らかい。甲殻の内側にぎっしり詰まっている。


 持てるだけ切り出して、甲殻の破片と一緒に背負う。残りはここに置いていくしかない。全部は運べない。


 リュートが肉を一切れ咥えた。自分の取り分らしい。


「お前、食うの先かよ」


「クルル」


 帰り道は、行きより軽かった。体はくたくただが、足取りは妙に弾んでいる。



 ◇



 屋敷に着くと、オリーゼが庭に出ていた。洗濯物を干している。生活感がすごい。深淵の魔女というより、田舎のおばさんだ。


 俺が甲殻と肉の塊を抱えているのを見て、オリーゼの手が止まった。


「……倒したの?」


「はい。リュートと二人で」


 オリーゼの目元が柔らかくなった。いつもの微かな笑みだが、今日のは少しだけ深い気がする。


「怪我は?」


「擦り傷だけです」


「そう」


 少し間があった。


「じゃあ、今夜はいいものを作りましょう」


 肉と甲殻を受け取りながら、オリーゼが甲殻を指で弾いた。コン、と硬い音。


「この子の甲殻、いい状態ね。義足の補修にも使えるわ」


 この人は、どんなものでもまず素材として見るらしい。



 ◇



 食事の前に、一つやることがあった。


「オリーゼさん。ゼクトに報告したいんですけど」


「そうね。少しだけなら」


 オリーゼが霊珠を取り出した。淡い光が器に流れ込み、ゼクトの姿が薄く現れる。輪郭がぼやけている。短い顕現だ。


「倒したか」


 開口一番、それだった。


「はい。リュートと一緒に」


「一人じゃねえのか」


「……まだ、武器がないんで」


 ゼクトは鼻を鳴らした。


「俺が教えてるんだ。ひっくり返すくらい、出来て当然だ」


 ゼクトの体が薄くなり始めた。十秒も持たない。消え際に、ゼクトの口元がわずかに緩んだのを、俺は見逃さなかった。


 消えた。


 オリーゼが小さく笑った。


「素直じゃないわね、あの人」



 ◇



 オリーゼの手際は相変わらず見事だった。


 鋏鬼蟲の肉を薄く切り分け、石の鍋に湯を沸かし、淡い色の茸と一緒にさっと煮る。味付けは塩と、何かの実を潰した香辛料。


「狙って狩猟はしないけど、おいしいのよね、この子」


 「この子」呼びか。俺が命懸けで転がした相手に対して。


 白い肉を口に入れた。


 ……蟹に似ている。だが蟹より甘い。甲殻の中に閉じ込められていた旨味が、噛むたびに溢れてくる。


 うまい。普通に。


「これ、売れますよ。表層で出したら高級食材ですよ」


「ふふ、売る相手がいないけどね」


 リュートが自分の分をがつがつ食べている。ノクタがリュートの皿からこっそり一切れ盗んで、肩の上でもぐもぐしていた。


 しばらく、ただ食べた。


 体を動かした後の飯は、何を食っても美味い。深淵だろうが表層だろうが、それだけは変わらない。



 ◇



「次は一人で倒したい」


 食事が落ち着いた頃、俺は言った。


 オリーゼが湯気の立つ器を両手で包みながら、こちらを見た。


「武器なしで?」


「ゼクトにはまだ早いって言われましたけど」


「普通の武器はね。でも……」


 オリーゼが少し考えるように間を置いた。


「あの蜘蛛、覚えてる? 巣が光ってた子」


魔紡績蜘蛛(まぼうせきぐも)?」


「あの子の廃棄された巣は、天然の魔法回路よ。あなたの空属性と、相性がいいかもしれないわね」


 俺は箸を止めた。


 空属性で操れる素材。それを武器にする。


「……それ、どうやって集めるんですか」


「急がなくていいわ。今日はもう寝なさい」


 オリーゼはそう言って、器のスープを飲み干した。


 聞きたいことはあった。でも確かに、今日は体がもう限界だ。全身の筋肉が悲鳴を上げている。


「はい」


 俺は立ち上がった。新しい義足で地面を踏む。ゴッ、と返ってくる硬い音。もう慣れた。


 リュートが食べ終わって丸くなっていた。俺の足音で薄目を開けて、すぐに閉じる。ノクタが肩から降りて、リュートの丸まった尾のあたりに潜り込んだ。


 借り物の爪で倒した、初めての獲物。


 まだ一人じゃ勝てない。でも、今日やったことは全部、自分の体と、自分の力だった。それだけは嘘じゃない。


 部屋に戻る途中、窓の外に甲殻が立てかけてあるのが見えた。リュートの爪痕が残った表面が、枝葉越しの薄緑の光を受けて、鈍く光っていた。


 深淵での生活、二十一日目。


---


第6話「借りた爪と、初めての獲物」 ―― 了 ――

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