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深淵に住む魔女 ―アノンノア天則―  作者: 久和調


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第10話「掬えた泥と、動かない足」

 あの池が気になっていた。


 地面の下にあった、あの規則的な構造。酸を食べて生きる泥。オリーゼが見たことのない向こう側。数日間、訓練をしながらずっと考えていた。養魔酒は毎晩飲んでいる。相変わらず苦い。


「オリーゼさん、今日、酸の池を見に行ってきていいですか」


 朝食の席で言った。オリーゼが顔を上げる。


「見に行く?」


「前に通りかかった時、地面の下に何かあるのを感じたんです。気になって」


 オリーゼはしばらくこちらを見ていた。止められるかと思った。


「行ってきなさい」


 止めなかった。代わりに棚からガラスの瓶と、小さなガラスの匙を出してきた。


「酸泥を見つけたら捕ってきて。薬の材料に使うから」


 この人、最初から分かっていたのか。


「あと、これを」


 革の手袋と、口元を覆う布、それにフード付きの外套が出てきた。布は湿っていて、少し薬の匂いがする。外套のフードは目元まで覆えるようになっている。


「霧が濃い場所に行くなら、これを着なさい。酸の霧を吸い込むと肺をやられるし、目も焼けるわ」


 いつもそうだ。聞く前に、もう出てくる。


「リュート、行くぞ」


 リュートが尻尾を振った。ノクタが肩に飛び乗る。いつもの二匹だ。


 ガラスの瓶と匙を鞄に入れて、屋敷を出た。



 ◇



 森を歩く。


 足裏から菌糸のネットワークが流れてくる。もう慣れた。歩くだけで地下が見える。この感覚がなかった頃が思い出せない。


 しばらくして、菌糸が薄くなった。地面が硬くなる。酸の池が近い。鼻の奥がツンとした。前に来た時と同じ匂い。だが今日は装備がある。外套のフードを被り、口元に布を巻いた。薬の匂いが酸の刺激を和らげてくれる。


 魔探りで地面の下を探る。


 あった。前と同じ——規則的な構造。菌糸の流れとは明らかに違う、人工的な輪郭を持った何か。酸の池に向かって伸びている。やっぱりある。でも、前以上の情報は得られない。輪郭はぼんやりしていて、中身まで読めない。今の魔探りでは、「何かがある」以上のことは分からなかった。


 池が見えてきた。白い霧の向こうに、液面がちらちらと光っている。


 岸辺に人がいた。


 この前の男だ。フードの服を着て、岸辺にしゃがみ込んでいる。手元にガラスの瓶がいくつか並んでいる。


「あ」


 声をかける前に、向こうが気づいた。


「おう、この前の兄ちゃんじゃねえか。また来たのか」


 立ち上がって、こちらに手を振っている。


「はい。酸の池が気になって」


「気になるって、お前も変わってるな。俺はトーマ。よろしくな」


 トーマ。前回は名前も聞かずに別れていた。


「アルヴァンです。ヴァンって呼ばれてます」


「ヴァンか。オリーゼんとこの兄ちゃんだろ。里の連中が言ってたぜ。畑の虫退治してくれたって」


 噂が回るのが早い。小さい里だ。


 トーマの足元に、ガラスの瓶が三つ。中に半透明の黄色いものが入っている。酸泥だ。ぷるぷる揺れている。


「トーマさん、酸泥の捕まえ方、教えてもらえませんか。オリーゼさんに捕ってこいって言われて」


「いいぜ。道具は?」


 鞄からガラスの瓶と匙を出した。トーマが見て、うなずいた。


「ガラスなら溶けねえからな。やり方見せてやるよ」



 ◇



 酸泥の捕獲は、見るのとやるのでは全然違った。


 トーマがまず手本を見せてくれた。ガラスの匙を岸辺の酸泥にゆっくり近づける。酸泥は警戒すると動く。ぷるぷる震えて、岩の隙間に逃げようとする。


「こいつらが止まる瞬間がある。呼吸してるのか知らんけど、膨らんで縮んで、縮みきった時にちょっと動きが止まるんだ。そこを下から掬う」


 トーマが匙を構える。酸泥が膨らむ。縮む。止まった瞬間、匙が下に入った。持ち上げて、瓶の口に落とす。ぽとん。


「こんな感じだ」


 簡単そうに見えた。


 やってみた。


 匙を近づける。酸泥が動く。追う。逃げる。匙を入れるタイミングが分からない。縮んだ、と思った瞬間にはもう動いている。


 ……難しい。


「焦んなよ。リズムを覚えろ。膨らむ、縮む、止まる。三拍子だ」


 三拍子。膨らむ。縮む。止まる。


 もう一度。匙を構えて、リズムを待つ。膨らむ。縮む。——今。


 匙が入った。掬い上げる。酸泥がぷるんと匙の上で揺れる。瓶に——落とす前に滑り落ちた。岩の上に落ちて、ぷるぷる震えながら窪みに逃げ込んだ。


「あー」


「惜しかったな。掬ったら手首返すなよ。匙を水平のまま真っ直ぐ持っていけ」


 窪みに入った酸泥が出てこない。岩の隙間にぴったりはまっている。匙が入らない。


「……出てこないですね」


「こういうのが厄介でな。狭いとこ入ると、なかなか出てこねえんだ」


 トーマがしゃがんで窪みを覗き込んだ。


「兄ちゃん、蹴りで虫掘り起こしたってガルドが言ってたけどさ、この岩もいけねえか?」


 やってみるか。


 デンドロイドで岩に足を置く。窪みの脇を狙う。踏む。


 ゴッ。


 岩にヒビが入った。窪みが少し開く。でもまだ足りない。もう一発。


 ゴッ。


 岩が割れた。窪みが開いて、酸泥がぷるんと転がり出る。


「よし来た!」


 トーマが匙で掬った。瓶に入れる。ぽとん。手際がいい。


「すげえな兄ちゃん。岩蹴り割るのかよ」


「威魔・地っていう……まあ、蹴りです」


「蹴りで岩割れたら十分だろ」


 トーマが笑っている。ガルドとは違う笑い方だ。ガルドは黙って笑う。トーマは声に出して笑う。


 もう一匹。別の場所で酸泥を見つけた。またガラスの匙で挑戦する。膨らむ。縮む。止まる。——掬う。匙の上で揺れる。水平のまま、瓶に——ぽとん。


 入った。


「おっ、掬えたじゃねえか」


 掬えた。嬉しい。虫を蹴り飛ばした時とは別の嬉しさだ。


 もう一匹。また岩の窪みに逃げたやつを蹴りで出す。これで三発目。


 結局、五匹捕まえた。トーマに三匹、俺に二匹。


「兄ちゃん、筋いいぜ。初日で二匹は上出来だ」


「ありがとうございます」


「また来いよ。一人でやるより、岩割ってくれるやつがいた方が捗るわ」


 ガルドにも似たようなことを言われた。便利な奴だと思われている気もするが、悪い気はしない。


 捕獲の合間に、トーマに池のことを聞いた。


「なあ、あの池ってどこまで行けるもんなんですか」


 トーマの表情が少し変わった。


「あのなあ、兄ちゃん。あのへんは近づかねえ方がいいぞ」


「何かあるんですか?」


「あの辺の霧が濃い場所な。なんつうか、体の調子が悪くなるんだよ。頭がぼんやりするっていうか。俺だけじゃなくて、里の連中も近づかねえ」


 体の調子が悪くなる。頭がぼんやりする。


「あのラインより先は、俺も行かねえ。行かなくてもこの辺で十分捕れるしな。兄ちゃんも気をつけろよ」


 トーマは真面目な顔で言った。さっきまでの軽い感じとは違う。本気で心配してくれている。


「分かりました。ありがとうございます」



 ◇



 トーマと別れた。


 酸泥の入った瓶を鞄にしまう。リュートが少し離れた場所で待っている。酸の匂いが嫌いなのだ。賢い。


 池の方を見た。白い霧が漂っている。トーマが「あのラインより先」と言った辺りから、霧が明らかに濃くなっている。


 ……行ってみるか。


 口元の布を確認する。革の手袋も。オリーゼの道具は酸の霧を防ぐためのものだ。


 霧の中に足を踏み入れた。


 薄い霧。鼻がツンとするが、布が効いている。手袋も問題ない。酸の匂いはするが、体に影響は感じない。もう少し奥へ。池が近づく。霧が濃くなる。フードの隙間から白い霧が滲んでくる。


 まだ大丈夫。足裏から魔探りの情報が来ている。地面の下の構造物が、さっきより近い。もう少し——


 数歩、踏み込んだ。


 ——足が重い。デンドロイドの反応が鈍くなった。いつもなら意識しなくても動く足が、急に動きにくくなった。まるで足が聞こえていないような感覚。酸は装備で防げている。鼻も肌も問題ない。なのに——足だけが鈍い。


 これは酸じゃない。


 足裏の感覚が消えた。魔探りが途切れた。構造物が、ぷつりと消える。菌糸も。何もかも。目を開けているのに、暗闇にいるような——。


 引き返した。


 霧が薄くなる場所まで戻る。たった数歩なのに、足が重くて時間がかかった。霧の薄い場所に出ると、魔探りが戻った。地面の下の菌糸、構造物——見える。足裏の感覚は戻った。


 でも、デンドロイドが鈍いままだ。動くが、反応が遅い。霧から離れたのに、足が重い。さっきまでとは明らかに違う。


 戻らない。足が、戻らない。


 あの霧は酸だけじゃない。酸は防げていたのに、足がやられた。何か別のものが混ざっている。そしてそれは——離れても消えない。


 リュートが駆け寄ってきた。鼻を押しつけて、心配そうにこちらを見上げている。


「……大丈夫。大丈夫だから」


 大丈夫じゃない。足が動きにくい。帰れるか。


 帰ろう。



 ◇



 帰り道は長かった。


 いつもの半分くらいの速さでしか歩けない。デンドロイドが重い。反応が遅い。一歩ごとに足が地面に引っかかりそうになる。リュートが横について歩いている。俺が躓きそうになると、体を寄せて支えてくれる。大きい体が頼もしい。こいつに救われるのは何度目だ。


 ノクタが肩の上からじっとこちらを見ている。心配しているのか、観察しているのか、よく分からない顔だ。


 歩きながら考える。あの霧。酸じゃない何か。しかも影響が残る。近づくだけで足がやられる。渡るどころの話じゃない。


 ……でも、あの向こうに何かがある。魔探りで感じた構造物。自然のものじゃない。誰かが作ったものだ。


 ——そういえば。今日、何発使った?


 岩割りで三発。魔探りはほぼ一日中。歩いている間ずっと地面を探っていた。前は五発が限界だった。魔探りを含めたら、もっと消耗していてもおかしくない。なのに、足は鈍いが、魔素切れの感覚がない。


 あの苦い酒、効いてるのか……?


 じわじわ効く、とオリーゼは言っていた。実感はなかった。でも今日、限界を超えている気がする。超えていて、まだ立っている。苦かったけど、無駄じゃなかったのか。


 屋敷の明かりが見えた。



 ◇



 オリーゼはテーブルで書き物をしていた。いつもの光景だ。


「捕ってきました」


 ガラスの瓶を二つ、テーブルに置いた。中で酸泥がぷるぷる揺れている。


「あら。ちゃんと捕れたのね」


 オリーゼが瓶を持ち上げて、酸泥を透かし見た。


 鞄を下ろして、椅子に座ろうとした。その時——足がもたついた。


 オリーゼの目がこちらに向いた。


「足、どうしたの」


「……池の近くの霧の中に入ったら、デンドロイドの反応が鈍くなって。戻ってきたんですけど、まだ鈍いままで」


 オリーゼがペンを置いた。


「見せなさい」


 椅子に座って、デンドロイドを投げ出した。オリーゼがしゃがんで、義足を軽く確認した。


「回路が分解されかけてるわね」


「……分解?」


魔浸酸(ましんさん)よ」


 聞いたことのない言葉だ。


「外しなさい。工房で直すわ」


 魔探りで接合部のロックを解いてデンドロイドを外す。


「元の脚を付けなさい」


 オリーゼが奥から持ってきたのは、保管してあった俺の脚だった。魔探りで接合部に繋ぐ。……軽い。こんなに軽かったか。デンドロイドに慣れた体には、自分の脚が妙に頼りない。


 オリーゼの後について工房に入った。


 工房の作業台にデンドロイドが置かれた。オリーゼが足の部品と、保管してあった蜘蛛の糸——回路のワイヤーを取り出す。


 デンドロイドの足首を外して、中の回路を露出させた。何本かのワイヤーが変色している。


「あの池の酸にはね、魔法的な干渉が混ざっているの」


 変色したワイヤーをピンセットで抜き取りながら、オリーゼが言った。


「普通の酸だけじゃないわ。魔法回路を分解する力がある。魔浸酸。回路の高分子結合を壊すのよ」


「だから義足が……」


「回路が霧の中でダメージを受けた。離れても回路自体が傷ついているから、反応が鈍いまま」


 抜き取ったワイヤーを見せてくれた。指で触れると、ぼろぼろと崩れた。


「ここが一番ひどいわね。……でも、浅い。短時間で引き返したのは正解よ」


「トーマさんっていう里の人が、あの辺は近づかない方がいいって」


「賢い人ね。……私も、近づけないのよ」


 新しいワイヤーを通しながら、言った。


「あの魔浸酸は、魔法回路が発達した者ほど影響を受ける。回路の密度が高いほど、分解のダメージも大きい」


 オリーゼの魔法回路の密度は、俺とは比べものにならない。つまり——


「オリーゼさんが近づいたら、もっとひどいことになるってことですか」


「そうね。私がうかつに入ったら、回路と一緒にその部位が焼け落ちるわ」


 あの霧に、オリーゼでも入れない。三百年もここにいて、池の先に行けなかった理由が分かった。


「あと——池の近くの地面の下に、何かがあるんです」


「何か?」


「菌糸のネットワークとは違う、規則的な魔法回路のようなものです。自然のものじゃないと思います。前回里に行ったときに感じたんですけど、今の魔探りではそれ以上分からなくて」


 オリーゼの手が止まった。


 顔を上げて、こちらを見た。


「……それ、本当?」


 食いつき方が違う。今まで聞いた何よりも、この言葉に反応した。


「はい。酸の池に向かって伸びてます。人工的な感じがします」


 オリーゼが少し考え込んだ。目が遠くなっている。三百年分の何かを思い返しているような顔だ。


「……面白いわね」


 手が再び動き始めた。残りのワイヤーを替えながら、ぽつりと言った。


「今度、一緒に見に行きましょうか」


 この人が自分から「行きたい」と言うのは、珍しい。


 しばらくして、オリーゼが足首部分に魔法をかけた。


「終わったわ。付け替えなさい」


 デンドロイドを受け取って、脚を外す。魔探りで接合部に繋いで、ロックをかける。


 足を動かす。


 ……戻っている。反応がいつも通りに戻っている。軽い。


「ありがとうございます」


「次からは気をつけなさい」


 オリーゼが道具を片付けながら言った。


「このデンドロイドの部品は替えが効くわ。素材もあるし、何度壊れても直せる。……でもね」


 こちらを見た。


「あなたの生身や接合部の回路は替えが効かない。あの霧の中に長くいたら、デンドロイドだけじゃなくて、あなたの体がやられるわ」


 義足は直せる。接合部も、替えようがあるかもしれない。でも俺自身の体は——そうじゃない。


「……気をつけます」



 ◇



 夕食。養魔酒。苦い。でも今日は、少しだけマシに感じた。気のせいかもしれない。


 窓の外は暗い。リュートが庭で丸くなっている。ノクタが足元で寝ている。


 霧に踏み込んだ時の感覚が、まだ残っている。足が聞こえなくなった瞬間。魔探りが消えた瞬間。目を開けているのに暗闇にいるような、あの怖さ。


 でも、あの向こうに何かがある。地面の下の、人工的な構造。誰かが作ったもの。オリーゼが「それ、本当?」と食いついた何か。


 オリーゼは知っていた。魔浸酸のことも、自分が近づけないことも。三百年間、ずっと。でも確かめる方法がなかった。初めて「一緒に見に行きましょうか」と言った。


 あの池を渡る方法を、見つけたい。


 養魔酒の苦みが喉に残っている。明日も飲む。じわじわ効くらしい。今日、それを身体で知った。


 深淵での生活、三十五日目。


---


第10話「掬えた泥と、動かない足」 ―― 了 ――

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