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深淵に住む魔女 ―アノンノア天則―  作者: 久和調


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第11話「潰した泥と、掴んだ空」

 翌朝、朝食の席でオリーゼが口を開いた。


「昨日の話の続きをしましょうか」


 皿を下げようとした手が止まった。


「池のことですか」


「ええ。あなたが感じた地面の下の構造。それと、霧の中で脚がやられたこと。全部、繋がっているわ」


 オリーゼはテーブルの上の皿を端に寄せて、指先で空中に何かを描いた。指の軌跡に淡い光が残る。簡単な図——円と、そこから伸びる線が数本。


「あの池の霧に混ざっている魔法干渉は、魔浸酸(ましんさん)と呼ばれるもの。おそらく真魔・空と真魔・樹の複合。魔法回路の高分子結合を選択的に分解するの」


「選択的に……」


「そう。普通の生き物の体は壊さない。でも魔法回路——あなたのデンドロイドの中にあるような、魔法を使うための構造だけを狙って壊す」


 だから足首から先が鈍くなった。回路がやられたから。


「それ、酸とは別なんですか」


「別よ。あの池には普通の酸もある。これは化学的に物を溶かす、実法的な酸。それと魔浸酸。これらが『二層』になっているの」


 指先で描いた図に、二重の円が重なった。


「どちらか片方を防いでも駄目。両方揃って初めて、あの霧の中で行動できる」


 両方。


「酸の方はどうするんですか」


「コーティングよ。酸泥の膜を加工して作る。デンドロイドと、渡るための舟の表面に焼き付ければ、酸は通さなくなる」


「舟?」


「あの池は液体よ。歩いては渡れない。魔法回路のないただの木材で小舟を組んで、酸泥コーティングを施すわ」


「……あの酸泥をですか」


「ええ。あなたが持ち帰った分と、うちの棚にある分を合わせれば足りるわ」


 あの池で掬った二匹と、オリーゼの在庫。そうか、オリーゼは薬の材料として酸泥を前から使っていたのか。


「それで、魔法干渉の方は?」


 オリーゼが指先の光を消した。こちらを真っ直ぐ見る。


「打ち消すわ。あなたの威魔・空で」


「……威魔・空?」


 聞いたことのない言葉だった。威魔は知っている。デンドロイドに組み込まれた威魔・地の回路で「一撃」を撃っている。でも、威魔・空というのは——


「あなたの体には、威魔・空の魔法回路がある」


「……持ってる? 俺が?」


「ええ。ただし、真魔を扱えるようにならないと起動しない。真魔は魔法の根本——法則を操る力。威魔や聖魔は、その上で動く応用よ。土台が動いていなければ、上に乗っているものは使えない」


 オリーゼが少し間を置いた。


「あなたはここに来た時、魔法の気配すら感じなかった。それが今は魔探りを使い、ミミック・ルートを拒絶し、真魔・空で魔法に干渉できるようになった。——やっと、威魔が使えるところまで来たのよ」


 やっと来た。四十日かかって、やっと。


「威魔・空の効果は何なんですか」


「発光よ。対象を光に変換して放散する。それ自体は無害。でも、これを使えば飛んでくる魔法を受け取って、無害な光に変えて散らすことができるわ」


「魔法を……光に?」


「魔浸酸は魔法よ。魔法であるなら、飛んでくる魔法を、あなたの真魔・空で察知・干渉して、威魔・空で光に変換する。酸の方はコーティングで防ぐ。両方揃えば——渡れるわ」


 渡れる。あの池を。


「ただし」


 オリーゼの声が少し低くなった。


「燃費が悪い。飛んでくる魔法を片っ端から光に変換するのは、力ずくの対処よ。相手の魔法と同じかそれ以上の魔素を消費する。あなたの今の魔力だと、持って数分。それ以上は魔素が枯渇して倒れるわ」


 数分。短い。でも——あの池の幅を考えれば、漕げば片道は行ける。


「どうする?」


「やります」


 即答した。考える必要がなかった。あの地面の下の構造。あの池の向こう。オリーゼが三百年間、近づけなかった場所。


「——ただ、威魔・空はまだあなたの中で眠っている。起動したことがないの。使い方を覚える必要があるわ」


「練習ですか」


「そう。まず威魔・空を起こすところから」


 オリーゼが立ち上がって、工房へ向かった。


「来なさい」



 ◇



 工房の棚から、オリーゼがトレントの木片を取り出した。


 手のひらほどの大きさ。切り出された断面に、うっすらと線が走っている。魔法回路。魔探りで触ると、デンドロイドの中と同じ質感がした。同じ素材だ。


「まず、あなたの中の威魔・空を起こす。目を閉じて。自分の右手に意識を集中しなさい」


 目を閉じる。集中する。


 いつもは外に向けている感覚を、自分の右手に潜らせる。指を一本ずつ辿るように——


「……何か、ある」


 指の中に、感じたことのない回路があった。一本ずつ違う。親指、人差し指、中指、薬指——それぞれの中に、別々の何かが眠っている。デンドロイドの威魔・地とは違う。あれは外から組み込まれたものだ。これは——最初から、ここにある。自分の体の一部として。


「それが威魔の回路よ。右手の指一本一本に、生まれた時から組み込まれている。何の属性かは、起動するまで分からない。左手には聖魔の回路があるはずよ」


 触れてみる。魔探りで、そっと。


 ——何も起きない。


「魔蝕では起きないでしょう。真魔を通しなさい。土台を通さないと応答しないわ」


 真魔の回路を意識する。いつも魔探りで使っている感覚とは違う。今度は自分の中の回路の繋がりに意識を向ける。


 真魔・空と——右手の指の回路を繋げる。


 ——小指が、光った。


 右手の小指。そこだけが、うっすらと光を帯びている。他の四本は暗いままだ。小指の中で何かが灯った。


「……出た」


「そこがあなたの威魔・空。右手の小指——発光の回路よ。今のは回路が起動した時の反応。自分の魔素がほんの少し光に変わっただけ。でもこれが大事なの」


 小指の光が消えた。集中が途切れると、すぐに消える。


「仕組みは分かった? じゃあ次」


 トレントの木片をテーブルに置く。


「これを握りなさい。自分の威魔・空の領域に含めるの。あなたの体を守るように、この木片も守る——そういうつもりで。いい?」


 木片を握る。


「はい」


「行くわよ」


 オリーゼの指先が揺らいだ。木片に向かって、何かが放たれた。


 ——ぱき、と音がした。


 木片の表面に亀裂が入った。軽い傷。


「遅いわ。今のを威魔・空で変換するの。もう一度」


 新しい木片。集中する。威魔・空を起こす。飛んでくる魔法を感じ取って、光に——


 ぱき。


 また遅い。オリーゼの魔法が来た瞬間に威魔・空を向けたが、変換が間に合わない。来てから反応しても、もう木片に届いている。


「もう一度」


 ぱき。


 駄目だ。タイミングが全然合わない。飛んでくる魔法を一つずつ受け取って変換するのでは追いつかない。


「……全然、間に合いません」


「そうでしょうね。一発ずつ迎撃しようとしているもの」


 オリーゼがこちらを見た。


「考え方を変えなさい。飛んできた矢を一本ずつ叩き落とすんじゃないの。来る前に、自分の周囲に威魔・空を張っておくの。入ってきた魔法が自動的に光に変わるように。受け身じゃなくて、先に出しておく」


 先に出しておく。変換魔法を、自分の周りに。


「……やってみます」


 新しい木片。目を閉じる。


 威魔・空を起動する。さっき右手の小指で灯した光。あれを、小指だけじゃなく、自分の周囲に広げる。光に変える力を、空間に展開する——


 難しい。体の中で灯すのは何とかなった。それを外に広げるのは、全然違う。魔素が散っていく。膜のように広げようとするが、すぐに薄くなって消える。


「——行くわよ」


 オリーゼの魔法が飛んだ。


 ぱき。


 傷が入った。展開が崩れた。一瞬は形になりかけたが、オリーゼの魔法がそれを素通りした。


「惜しいわね。方向は合ってる」


 崩れた。でも、一瞬だけ——オリーゼの魔法が自分の周囲を通過する時に、ほんの微かに光った。変換が、一瞬だけ起きた。


 一日目は、それ以上進まなかった。



 ◇



 三日かかった。


 初日の夜、ゼクトに稽古をつけてもらいながら考えた。変換魔法を張るという感覚。ゼクトの拳を受けるのと同じだ。来てから対処するのではなく、来る前に構えておく。そうか、これは構えだ。


 二日目。展開は数秒持つようになった。オリーゼの魔法が領域に入ると、淡い光に変わって散る。だが強度を上げると変換が追いつかず、突き抜けてくる。


 三日目。変換魔法の「密度」を変えることを覚えた。薄く広く張るのではなく、自分の周囲だけ厚く。範囲は狭いが、オリーゼの中程度の魔法を光に変えて散らせるようになった。


 四日目の夕方。初めて一分持った。


 五日目。


「強めでいくわよ」


 オリーゼの目が変わった。


 両手を木片に向ける。指先に集まる魔力の密度が、今までとは段違いに高い。


 展開する。自分を中心に、半径一メートルほどの変換魔法。ここに入った魔法は全て光になる。


 ——来た。


 重い。今までの訓練とは比較にならない密度の魔法が流れ込む。変換が追いつかない——いや、追いつけ。


 持ちこたえている。流れ込む魔法が、次々と淡い光に変わって散っていく。


 変換魔法の内側の木片に、傷がつかない。


 一分。


 魔素がどんどん減っていく。砂時計の砂が落ちるように、体の中から何かが流れ出ていく。変換のたびに、自分の魔素も一緒に光になって消えていく。


 二分。


 変換魔法が薄くなってきた。補充する。集中を切らすと一瞬で崩れる。


 三分。


 限界が近い。視界の端がぼやけてきた。


「——止め」


 オリーゼが魔法を止めた。


 変換魔法を解いた。膝に手をついて、荒い息をついた。全身の力が抜けている。訓練の後に似ている。


「三分十二秒」


 オリーゼが腕を組んでこちらを見ていた。


「……いいわね。それなら、渡れるかもしれない」


 渡れる。まだ息が荒い。でも、渡れる。三分あれば——漕げば、片道は行ける。


「ただし、本番はこんなものじゃないわ」


「分かってます」


「本当に分かっているの? 練習では私が一方向から魔法をかけているだけ。実際の霧は全方向から降り注ぐ。濃度も一定じゃない。しかも舟を漕ぎながら維持するのよ」


「……はい」


「それでも行くんでしょう」


「はい」


 オリーゼがほんの少しだけ、口の端を上げた。


「じゃあ、準備を進めましょう。コーティングの方ね」



 ◇



 工房の棚から、オリーゼがガラスの瓶を取り出した。五本、六本——八本。棚の奥から次々と出てくる。


 六本には、ぷるぷると揺れる酸泥が入っている。半透明で、瓶の内壁に張り付きながらゆっくり動いている。オリーゼの在庫だ。残りの二本は、あの日——俺が池の岸辺で掬った二匹。


「足と舟、両方に塗るから、これくらい要るわ」


 それと、工房の奥からオリーゼが引っ張り出してきたものがあった。


 小舟だ。


 木材で組まれた、一人乗りの小さな舟。同じ素材の櫂も一本。


「いつ作ったんですか」


「昨日の夜。あなたが寝ている間にね」


 昨日の夜。訓練の後、この人は工房で舟を組んでいたのか。


「まず足を外しなさい」


 テーブルの端に座って、デンドロイドを外す。魔探りで接合部のロックを解いて引き抜く。もうこの動作は慣れた。


 元の脚に戻る。テーブルから足を下ろすと、床が冷たい。裸足だ。


 デンドロイドをオリーゼに渡す。オリーゼはそれを作業台の上に置いて、しばらく眺めた。舟も並べる。


「甲殻の光沢がいいわね。強度も悪くない。これなら下地を整えれば乗るわ」


 オリーゼが袖をまくった。


「工程は四つ。足も舟も同じ。最初は表面処理よ。見ていなさい」


 オリーゼの右手の指先に、空気がすっと流れた。同時に、ねっとりとした気配も纏った。


 二つの魔法が同時にデンドロイドの表面を撫でていく。その後、同じ手が舟の表面も撫でる。舟本体、櫂、全て同じ処理。


 見ていると、木材の表面が変わっていった。微細な毛羽立ちが消え、繊維の向きが整えられていく。樹皮の凹凸が滑らかに均されて、表面が一段明るくなる。


「威魔・水で脂や汚れを流しながら、威魔・樹で繊維構造を均一化しているの。コーティングの密着性が変わるから」


 精密だった。この人の魔法は、いつ見ても正確だ。


「次、接着層。ここからは手伝って」


 オリーゼが棚から革の手袋を取り出した。黄味がかった光沢を帯びている。


「酸泥は体液に酸を持っているの。素手では触れないわ」


 同じ手袋がもう一組、こちらに投げ渡された。


「あなたも着けなさい」


 革の手袋をはめる。


 オリーゼが酸泥の瓶を手に取った。——俺が掬った方の瓶だ。


 蓋を開ける。ぷるぷると震えている酸泥が、瓶の口まで伸びてきた。


 オリーゼが棚からガラスのナイフを取り出した。細く、透明な刃。酸に耐える素材だ。


「見ていなさい」


 瓶の口から、ナイフを一突き。


 躊躇いなく。正確に。


 ぷるぷるが止まった。酸泥が瓶の中で動かなくなる。一瞬だった。苦しんだ様子はない。


 あの日、ガラスの匙で掬った。水面近くのぷるぷるを、そっと。嬉しかった。初めて捕れた。


 それが今、瓶の中で静かになっている。


「……」


「薬を作る時も同じよ」


 オリーゼは淡々と言った。こちらを見もしない。


「生き物を殺して素材にするのは、ここでは日常。食べるのも、薬にするのも、道具にするのも同じことよ」


 分かっている。でも——あれは俺が掬ったやつだ。


「——はい」


 オリーゼがガラスの匙で瓶の中を操作していく。締めた酸泥が、瓶の中で分かれていった。半透明の膜。粘液の入った袋。そして体液——黄色みを帯びた酸性の液体。


「体液は薬の材料にする。捨てないで。膜と粘液だけ取り出すわ」


 オリーゼの手の周囲で、空気がすっと流れた。威魔・水。ガラスの匙で膜と粘液の袋を瓶から持ち上げる——その瞬間、付着していた体液が弾かれるように瓶の中に落ちた。膜と粘液の袋だけが、乾いた状態で石の板の上に載る。


 酸は一滴も外に出ない。


 二匹目。三匹目。——八匹目。


 全部同じ手順だった。オリーゼの手も、俺が手伝った分も。ナイフを刺す。瓶の中で分ける。威魔・水で酸を弾いて取り出す。膜と粘液の袋が石の板の上に広がっていく。膜はうっすらと虹色の光沢を帯び、粘液の袋にはとろりとした透明な液体が入っていた。


「粘液を先に塗るわよ。筆を持って」


 粘液を筆に含ませて、デンドロイドの表面に塗る。薄く、均一に。酸泥が生きている時に岩に張り付くために分泌していた粘液。それが接着層になる。


「もう少し薄く。溜まりを作らないで」


「はい」


 筆を動かす。デンドロイドの表面に沿って、甲殻の光沢の上を粘液が這っていく。関節の隙間。足首の曲面。甲の平面。全部、均一に。


「いいわ。次はコーティング」


 膜を載せていく。石の板の上に広がった八匹分の膜を、粘液の上に重ねて延ばす。オリーゼが細かく形を整えて、デンドロイドの曲面に合わせていく。


「膜の向きを揃えなさい。繊維の方向が合っていないと、焼付けの時に剥がれるわ」


 薄い膜を指先で伸ばしていく。虹色の光沢が、角度を変えるたびにゆらゆらと動く。


「最後。焼付け」


 オリーゼが両手をデンドロイドの上に翳した。指先に粘りを帯びた濃い気配が纏う——さっきの表面処理よりもずっと強い。何かが組み替わろうとしている。


 熱くはない。でも、空気が変わった。デンドロイドの表面で、何かが起きている。


 酸泥の膜が——溶け込んでいった。


 木材の表面に、膜の成分が浸透して結合していく。境界が消える。膜だったものが、木の表面の一部になる。


 色が変わった。木の茶色がわずかに淡くなり、表面にうっすらと光沢が出た。甲殻の光沢とは違う、もっと滑らかな、脂を帯びたような光り方。


「触ってみなさい」


 指先で触れた。


 ぬるっ、とした。指が滑る。木の感触じゃない。何かに包まれた木の感触。舟の表面も同じだ。櫂も。全部、あのぬるっとした光沢を帯びている。


「これで実法的な酸は通さないわ。高分子化した酸泥の膜が化学的な障壁になっている。普通の酸で溶けることはない」


「ただ——」


 オリーゼが真っ直ぐ見た。


「これは酸に対する備えであって、魔浸酸の魔法干渉には効かない。魔法は化学障壁では止められないわ。つまり」


「分かってます。魔法の方は——」


「ええ。あなたがやるの」


 コーティングされたデンドロイドが、作業台の上で鈍い光沢を放っている。


「それと、接合部のカバーも作っておいたわ」


 棚から革の帯を取り出した。デンドロイドと生身の境目——腰の接合部を覆う革のカバー。


「ここだけは生身が露出するから、物理的に覆うしかない。着けなさい」


「ありがとうございます」


「道具は揃ったわ」


 オリーゼが作業台を拭きながら言った。


「コーティングで酸を防ぎ、威魔・空で魔法干渉を打ち消す。制限時間は三分。それで、あの池を渡る」


 道具は揃った。


 デンドロイドを受け取る。テーブルに座って、デンドロイドに換装する。


 立ち上がる。


 足を動かす。表面がわずかに滑る感覚があるが、動き自体はいつもと変わらない。歩く。問題ない。見た目はほとんど変わらないが、光の角度によってうっすら黄色味がかった光沢が走る。


 コーティングされたデンドロイドと、同じ光沢を帯びた小舟。酸泥の命が焼き付けられた義足と舟。



 ◇



「明日、行きましょうか」


 夕食の後だった。オリーゼが、何でもないように言った。


「……一緒に、ですか」


「池の手前までは私も行くわ。あなたが渡るのを見届ける。何かあった時にすぐ対処できるようにね」


 池の手前まで。あの人が三百年間、近づかなかった場所に。


「よろしくお願いします」


 オリーゼがうなずいた。


 夕食の皿を片付けた。養魔酒を飲む。


 ——苦くない。


 口に含む。喉を通る。初めて飲んだ時のような強烈な苦さが消えている。


 もう苦くない。


 窓の外を見る。暗い。リュートが庭で丸くなっている。ノクタが腹の上で寝ている。小さな体がゆっくり上下している。


 池を渡る道具は揃った。あとは行くだけだ。


 でも、あの霧の中で感じた恐怖は消えていない。足が聞こえなくなった瞬間。魔探りが消えた瞬間。目を開けているのに暗闇にいるような、あの怖さ。


 今度は、消せるはずだ。威魔・空を展開すればいい。五日間で掴んだものを、本番で出すだけだ。


 ——本当に、それだけだろうか。


 分からない。でも、行く。


 深淵での生活、四十日目。


---


第11話「潰した泥と、掴んだ空」 ―― 了 ――

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