第12話「渡れた池と、読めない文字」
朝、装備を確認した。
コーティング済みのデンドロイド。表面にうっすらと黄色味がかった光沢がある。酸泥の命が焼き付けられた義足。フード付きの外套。薬剤入りの布。革の手袋。腰の接合部を覆う革のカバー。
全部、昨日までに揃えたものだ。
「舟を出すわよ」
オリーゼが工房から小舟を引き出した。一人乗りの、木材で組まれた舟。デンドロイドと同じ光沢を帯びている。酸泥コーティング。櫂も同じだ。舟体に一本のロープが結ばれていて、長く巻き取られている。
「ロープにも同じ処理をしておいたわ」
ロープの表面を指で触る。ぬるっとした感触。コーティングされている。
庭にリュートがいた。簡易の荷車が繋がれている。木の板を組んだだけの、平たい台だ。
「舟を載せなさい」
舟を持ち上げる。軽くはない。荷車の上に載せて、革紐で固定した。ロープの束も横に置く。
リュートが尻尾を振った。ノクタが舟の上に飛び乗って座っている。
「ノクタ、お前は留守番」
クー、と鳴いた。動かない。オリーゼがノクタを摘み上げて、庭の岩の上に置いた。不満そうな顔をしている。
「行きましょうか」
屋敷を出た。
◇
森を歩く。
リュートが荷車を引いて前を行く。舟が荷車の上でかたかたと揺れている。オリーゼが横を歩いている。俺はその後ろだ。
足裏から菌糸のネットワークが流れてくる。慣れた感覚。歩くだけで地下が見える。
しばらくして、菌糸が薄くなった。地面が硬くなる。鼻の奥がツンとした。酸の池が近い。外套のフードを被り、口元に布を巻いた。
リュートが立ち止まった。鼻にしわを寄せている。酸の匂いが嫌いなのだ。でも今日は進む。オリーゼが手綱を軽く引いた。リュートが、少し躊躇ってから歩き始めた。
白い霧が見えてきた。池だ。オリーゼが手を上げた。止まれ、という意味だ。俺とリュートが止まると、オリーゼが指先を霧に向けた。何かを一瞬だけ放つ。光も音もない。ほんの微かに空気が揺れた。
「ここまで。これより先は私は入れない」
岸辺に着いた。足元を見る。地面に変化はない。霧も薄い。でも——ここが境界だ。
霧が漂っている。液面がちらちらと光っている。前に来た時と同じ景色。でも——前とは違う。あの時は装備もなく、魔浸酸のことも知らなかった。足が動かなくなって、引き返した。
今日は、渡る。
オリーゼが荷車から道具を下ろし始めた。鞄から鉄の杭を取り出す。岸辺の岩の隙間に杭を打ち込んだ。硬い岩に、魔法で杭を食い込ませる。短い金属音が響いた。
ロープを杭に通す。端をリュートの胴に繋いだ。革紐で固定する。リュートは大きい。引く力は十分だ。
舟を荷車から下ろして、岸辺に置いた。酸の液面がすぐそこにある。船底のコーティングが光を反射している。
「行きなさい。帰りはリュートと引っ張るから」
オリーゼが杭の傍に立って言った。
舟に乗る前に、一瞬振り返った。
オリーゼはロープの途中を握って立っている。表情はいつも通りだ。でも、握っている手に力が入っている。少しだけ。
「行ってきます」
「ええ」
深呼吸した。
威魔・空を起動する。右手の小指に意識を向ける。灯す。そして——外へ広げる。自分の周囲に、変換魔法を展開する。
淡い光が散った。空気が変わった。周囲に薄い膜のようなものが広がる。飛んでくる魔法を光に変えて散らす——あの感覚。訓練で掴んだもの。
行ける。
舟を池に滑り込ませた。酸が船底に触れた。——溶けない。コーティングが効いている。ロープが舟から岸へと伸びている。
舟に乗った。櫂を握る。水面に刃を入れるように、櫂を差し込んだ。
漕いだ。
◇
池の上。
霧の中だ。白い霧が舟を包む。左も右も白い。後ろを振り返ると、岸辺がぼんやりと見える。オリーゼの姿が小さくなっていく。
漕ぐ。櫂が酸の液面を切る。抵抗がある。水とは違う。粘り気がある。
全方向から来る。上から、横から、斜め下から。均一じゃない。濃い波が来ると変換が追いつかなくなりかけて、薄くなると余裕ができる。その波が読めない。
しかも、漕がなければ進まない。
櫂を引くたびに体が動く。体が動くと、展開が揺れる。変換魔法の膜がちらつく。光が乱れる。建て直す。漕ぐ。揺れる。建て直す。
この繰り返しだ。腕を動かし、体を傾け、そのたびに集中が削られていく。三分持つか分からない。
——持たせるしかない。
前を見る。霧の向こうに何かが見える。岩壁だ。まだ遠い。
漕ぐ。変換する。漕ぐ。変換する。体力と魔素が同時に削られていく。砂時計の砂が落ちるように——二つの砂時計が同時に。
池の中心に近づいた。
霧が濃くなった。魔浸酸の密度が跳ね上がった。変換が追いつかない——一瞬、デンドロイドの感覚が遠のいた。
——この感覚。
前に来た時と同じだ。足が聞こえなくなる、あの恐怖。霧に踏み込んで、足が動かなくなった時の感覚が蘇った。
でも今は、違う。
集中を絞る。変換魔法の密度を上げる。自分の周囲だけ、もっと厚く。範囲を狭めて、密度を上げる。訓練三日目で覚えた技だ。
光が、鮮やかに散った。
変換が追いついた。デンドロイドの反応が戻る。足が聞こえる。——立て直せた。
前に来た時は、引き返すしかなかった。今は立て直せる。
中心を過ぎた。霧が薄くなり始めた。変換魔法の負荷が軽くなる。魔浸酸の密度が落ちている。向こう岸に近づいている。
岩壁が大きくなった。切り立った壁。白い霧の向こうに、灰色の岩肌がそびえている。
岸に着いた。
舟の底が岩に擦れた。立ち上がって、舟を岸に引き上げた。数歩、陸へ進む。霧が薄い。空気が違う。変換による発光も消えた。——ここまで来れば、もう届かない。変換魔法を解いた。
——渡れた。
膝に手をついて、息を整えた。魔素が減っている。砂時計の砂が半分以上落ちた感覚。全身が重い。
でも、立っている。ここに、立っている。
顔を上げた。
霧がない。魔浸酸の圧迫感が消えている。池の上にあった、あの全方向からの圧力がない。
振り返った。池の向こう、霧の奥にオリーゼの姿は見えない。遠い。ロープだけが池の上を横切って、霧の中に消えていく。
◇
岩壁を見上げた。
巨大だ。高さが分からない。天井の暗闇に消えている。深淵のさらに奥の、岩盤の壁。
その壁面に——亀裂があった。
不自然な裂け目。縦に走る大きな割れ目。人がすれ違える程度の幅がある。自然にできた亀裂とは違う。縁が整いすぎている。何かの力で切り開かれたように見える。
裂け目の入口の脇に、何かがあった。
岩壁の表面に、幾何学的な紋様が彫り込まれている。細い溝。複雑に交差する線。等間隔の点。
魔探りで触れた。
——回路だ。
地面の下で感じたものと同じ質感。人工的な魔法回路。でも今度は、もっと近い。もっとはっきり分かる。回路は生きている。微弱な魔力が流れている。五百年以上前に作られたものが、まだ動いている。
ここが——何かを制御する仕組みだろうか。あの池の底で感じたものと、同じ質感。繋がりまでは読めないが、関係はある気がした。
手を当てた。
何かが応答した。——微かに。回路が手のひらの下で震えるように反応した。でも、それだけだ。何をすればいいのか分からない。押してみる。撫でてみる。魔探りで干渉しようとする。反応はあるが、操作にならない。
岩壁の一部に、欠けた凹みがあった。
何か嵌まっていた痕だ。長方形の窪み。手のひらほどの大きさ。元々ここに何かが取り付けられていたのが、外れて——
足元を見た。
小さな金属板が落ちていた。
岩に紛れるような灰色。拾い上げた。手のひらに収まるサイズ。ずっしりと重い。岩壁の凹みと、形が一致する。
表面に文字が刻まれていた。
——読めない。
見たことのない文字だ。規則的な配列。文字であることは分かる。でも、何と書いてあるのか全く分からない。
金属板を外套の内側にしまった。
裂け目に目を向けた。暗い。奥が見えない。でも——入口の幅は人が通れるだけの余裕がある。
数歩、入った。
壁面が近い。両側の岩壁に手が届く。足元は緩やかに下へ傾斜している。
壁面に、文字が彫り込まれていた。
大きい。さっきの紋様よりもずっと大きな文字が、壁一面に刻まれている。金属板と同じ文字体系だ。何かを記録しようとしている。量が多い。誰かがここに、大量の情報を残した。
——読めない。何一つ。
さらに数歩、奥へ。
裂け目は続いている。緩やかに下りながら、暗闇の奥へ。光が届かなくなってきた。魔探りだけが頼りになる。
壁面に手を触れた。指先が溝に落ちた。
三本の筋。壁面を斜めに横切っている。岩が抉れている。深い。指先で溝の縁を辿る——広い。俺の手のひらよりも遥かに大きい。何かが、この壁を引っ掻いた。硬い岩を、三本の爪で。
大きい。この傷を残したものは、大きい。
手を離した。
もう少し奥を見ようとした時——魔探りが、何かを捉えた。
すぐそこではない。でも、裂け目の奥の暗闇の中に——回路がある。
生物の魔法回路。
巨大で、重い。菌糸のネットワークとも、制御盤の回路とも、全く違う質感。生物の体内にある回路。体に沿った構造。——そして大きい。輪郭しか感じ取れないが、それだけで分かる。
動いていない。
眠っている? でも、いる。あの奥に、確かにいる。
後ずさりした。
外套の内側の金属板を、手で確認した。ある。
裂け目を出た。明るい岩壁の前に戻った。
◇
舟に戻った。
ロープを確認する。杭からこちらまで、池の上を横切って繋がっている。
変換魔法を展開した。右手の小指に灯す。外へ広げる。淡い光が散る。
舟に乗った。ロープを三回引いた。
一拍。——ロープが張った。
引かれ始めた。一定のリズム。リュートの歩幅だ。大型の体が安定した速度でロープを引いている。ロープが杭を通って、舟を池の上で滑らせていく。
漕がなくていい。集中だけでいい。
変換魔法を維持する。全方向から魔浸酸が来る。行きと同じだ。でも——漕がなくていい分、集中を保ちやすい。体が動かない。展開が安定する。
行きよりも楽だ。楽、というのは語弊がある。魔素はすでに半分以上使っている。残りの砂が少ない。でも、集中を保てている。
池の中心を過ぎた。霧が濃くなる。変換魔法の密度を上げる。——行きで一度やった。二度目の方がやりやすい。
霧が薄くなった。岸辺が近い。
杭が見えた。リュートが見えた。オリーゼが見えた。
舟の底が岸辺の岩に擦れた。岸に上がって、霧の外に出た。変換魔法を解いた。
倒れそうになった。魔素が底を突いている。体が重い。
舟から降りようとした時——手が差し出された。
オリーゼの手だった。
この人は普段、手を貸さない。自分でやりなさい、という人だ。
その手を取った。
岸に上がった。
「怪我は」
「ないです」
「……そう」
一拍の間があった。それだけだった。
外套の内側から金属板を取り出した。
「向こう側で見つけました」
オリーゼが受け取った。金属板を両手で持って、表面を見た。
表情が切り替わった。
「……これは私の知っている文字じゃないわ」
文字を凝視していた目が細くなる。指先で文字の溝をなぞっている。
「岩壁に何かが彫り込まれていました。回路みたいな紋様で、まだ魔力が通っていました。その根元の岩壁に凹みがあって、これがそこにはまっていたものだと思います」
オリーゼが金属板から目を上げた。
「裂け目がありました。岩壁に大きな亀裂が入っていて、中に入れます。壁面に同じ文字が大量に彫られていました」
「……続けて」
「裂け目の壁に、大きな爪痕がありました。三本の溝が岩を抉っていて——俺の手の幅よりずっと大きいです」
オリーゼの表情が変わらない。聞いている。情報を整理している。
「裂け目の奥に何かがいます。大きい。眠っているみたいでしたけど」
オリーゼが長い息を吐いた。
「……そう」
金属板を握ったまま、歩き始めた。帰ろう、とは言わなかった。ただ歩き始めた。リュートの手綱を引く。荷車が動く。俺もついていく。
帰り道。
オリーゼは無言だった。金属板を持ったまま歩いている。俺が爪痕の大きさや、魔探りで感じた気配の話をすると、聞いている。立ち止まらない。だが、歩く速度が少しだけ落ちた。
「……あの池を、誰かが私より先に見つけていた。しかも、向こう側に何かを封じていた」
三百年、知らなかった場所だ。近づけなかったから。そして今日、俺が渡って、持ち帰ったのは——読めない文字と、眠る何かの報告。
「オリーゼさん」
「何?」
「あの文字、読めるようになりますか」
オリーゼが少し歩みを遅めた。
「分からないわ。少なくとも、私の知っている文字体系じゃない。別の文化圏のものよ。……おそらく、あの池に関わった人間は——私とは違う場所から来た人間だったということかしらね」
屋敷が見えた。
◇
夕食を食べた。疲れていた。魔素を使い切った体が重い。でも怪我はない。池を渡って、帰ってこれた。
養魔酒を飲んだ。
——苦くない。
もう昨日から苦くない。だが今日は、それだけじゃなかった。
体の奥まで沁みた。
苦さとは違う。飲み込んだ養魔酒が、喉を通って胃に落ちて、そこからじわりと体全体に広がっていく。空っぽになった何かが、補充されていく感覚。使い切った魔素が、ゆっくり戻っていく。
これが養魔酒の本来の効き方なのかもしれない。苦い、苦くないの問題じゃなかった。体が求めているから、沁みるのだ。
金属板はオリーゼの手元にあった。テーブルの上に置いて、読めない文字を睨んでいる。三百年生きた魔女が、眉間に皺を寄せて見ている。
その姿を後にして、部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。
窓の外を見た。暗い。リュートが庭で丸くなっている。ノクタが腹の上で寝ている。いつもと同じ光景だ。
だが今夜は、その奥が少し遠く感じた。
あの裂け目の奥に、まだ何かがある。先住者。あの爪痕を残す何か。あの壁を覆う読めない文字に、何が書かれているのか。
——でもまず、あの文字を読む手段が要る。
深淵での生活、四十一日目。
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第12話「渡れた池と、読めない文字」 ―― 了 ――




