第13話「鈍った足と、覚えていた模様」
翌々日の朝。
オリーゼと庭に出た。オリーゼが霊珠を地面に置き、顕霊した。ゼクトが現れる。腕を組んで立った。オリーゼはそのまま屋敷に戻っていった。
俺を見た。
「構えろ」
昨日は休んだ。一昨日の池渡りで魔素を使い切って、体が重かったから。今日は戻っている。ただ——池の向こうで見たものが、頭から抜けない。三本の爪痕。裂け目の奥で感じた、巨大な何かの気配。
ゼクトが構えた。俺も距離を取って向き合った。
◇
蹴りの練習だ。
右脚のデンドロイドを当てる。重心の乗せ方。内蔵の威魔・地の回路をどこで起動するか。ゼクトとの訓練はこれが軸だ。
ゼクトが動く。俺が追う。ゼクトが受け流す。俺が崩れる。また構える。
中盤を過ぎた頃、ゼクトが止まった。
「足が鈍い」
「え」
「右だ。踏み込みの一拍目が遅れている」
言われてから意識を向ける。——確かに。踏み込む時に、右脚の反応が左よりわずかに遅い。動きに合わせて体が補正していたから、ずっと気づかなかった。
「一昨日の池か」
「……たぶん」
「オリーゼに見てもらえ」
ゼクトがそのまま屋敷の方へ歩き始めた。訓練を切り上げる、ということだ。
◇
工房に入ると、オリーゼが作業台に向かっていた。細い道具で何か小さいものをいじっている。俺が入ると顔だけ上げた。ゼクトも続いて入ってきて、壁際に立った。
「義足の反応が鈍いです。右が遅れている」
オリーゼが手を止めた。
「デンドロイドを外しなさい」
作業台の横の丸椅子に座る。オリーゼがデンドロイドの膝下を外した。接合部を手の感触で確かめている。
「魔浸酸の影響ね」
「残っていますか」
「回路の接合部に変性を起こしている。今回は軽い方よ、前のメンテよりずっとマシ」
工具を取り出して、接合部をいじり始めた。音がない。工房の中が静かになった。
作業台の隅に、金属板があった。一昨日から、オリーゼがここに置いたままだ。
手を伸ばして持ち上げた。ずっしりと重い。何度見ても一文字も読めない。
気配がした。
ゼクトが横から覗き込んでいた。
「……その板。向こう側で拾ったやつか」
「はい」
「何が描かれているんだ?」
「文字みたいなものが書かれているんですけど、読めないです。オリーゼさんも読めないって」
ゼクトが金属板を見た。口を閉じた。黙っている。
「……お前、呪われてるぞ」
「え?」
思わずオリーゼの方を見た。オリーゼは工具を動かしたまま、こちらを見ない。
「私にはそういうのは分からないわ」
「あと三日ってところだな」
「そうかもしれないわね。ゼクがそういうの分かるなら」
「いや待ってください、え、本当に——」
「本当だったら俺には分からん」
「……今のは何だったんですか」
ゼクトは答えなかった。金属板を見ている。
◇
「……見たことがある」
ゼクトが言った。
俺は顔を上げた。オリーゼの手が止まった。
「この紋様。似た模様を見たことがある」
「どこで」
ゼクトが少し間を置いた。
「遺跡だ」
オリーゼが工具を置いた。
「どこの遺跡」
「あっちの方だ」
ゼクトが腕を伸ばした。壁を透かすような方角。俺には地形が分からないが、オリーゼには伝わったらしい。表情が少し動いた。
「……何年前」
「数年の感覚だ。おそらく生前の終わり頃に一度通った。石造りの建物があった。壁に、こういう感じの模様が彫り込まれていた。細い溝で組まれた紋様だ」
「それ以外は」
「石の建物なのに、苔が一つも生えていなかった。あの湿気の中で。それが不気味だった」
俺はオリーゼを見た。オリーゼはゼクトを見たまま、少し考えている。
「……そこのことは、忘れていたわ」
独り言のように言った。
「確かに、あの方角に何かはあった。ただ、踏み込んだことはなかったの。あの先は——私の管理できる場所じゃないから」
「何があるんですか、向こうに」
「行きにくかったのよ。森に入ると、おかしくなる人間が出てくるから。幻を見たり、足が勝手に別の方向に向いたり」
「霊法生物ですか」
「そう」
名前だけは知っていた。遭ったことはない。
オリーゼが手元のデンドロイドに目を向けた。接合部を工具でいじりながら、続けた。
「あの辺りの生き物は、魔法とは別の力を使う。対象そのものを置き換えるの。見えているものを、別のものに」
見えているものが、別のものに置き換わる。目の前の景色が、気づかないうちに違うものになっている。自分の進む方向が、いつの間にか変わっている。——変換魔法は物質を光に変えた。霊法は、物と自分の間にあるものを変える。
「私はあまり得意じゃないのよ、霊法は。あの先に踏み込まなかった理由の一つよ」
オリーゼが工具を置いた。接合部を触って確かめる。
「……いいわ。終わったわよ」
デンドロイドを受け取って、換装し直す。立ち上がって床を踏む。
——右と左が、同じになった。
「ありがとうございます」
「ついでに蹴りの威力を三割上げておいたわ」
「え、本当ですか」
「ふふ。嘘よ。直しただけ」
「池に行った後はデンドロイドを見せなさい。ダメージがあれば分かるから」
オリーゼが金属板を手に取った。文字の部分を指でなぞっている。
「ゼクト。その遺跡の中に入ったことは?」
「入口付近だけだ。時間がなかった。それに——」
ゼクトが少し黙った。
「声がするような気がした。何もないのに。うまく言えないが、あの場所がそういう場所だった」
「声」
「聞こえるわけのない声が、聞こえるような感覚だ。長居したくなかった」
オリーゼが棚の方に歩いた。引き出しをいくつか開けて、中を探る。しばらくして、折り畳まれた紙を一枚引き出した。
広げる。
手描きの地図だ。里と森の輪郭、池の位置、岩壁の場所が書き込まれている。
オリーゼが指先で、紙の一点を押さえた。
「確かに、あの方角に遺跡があった。行ってみる価値はあるわ」
俺は息を止めた。
オリーゼが紙から目を上げた。
「ただし」
一拍置いた。
「あの先は私の管理区域の外よ」
◇
夕食を食べた。
養魔酒を飲んだ。
苦くない。今日は魔素を使っていない。池渡りの後とは体の状態が違う。飲んでも、なんともない。ただの液体だ。
部屋に戻って、ベッドに横になった。窓の外を見た。暗い。リュートが庭で丸くなっている。ノクタが枕の下に潜って寝ている。いつもの光景だ。
頭の中で今日のことが並んでいく。
ゼクトが見たことがある、と言った。遺跡。苔の生えない石。声がするような感覚。そして霊法生物の多い地域。あの先に何かがある。
金属板はオリーゼの工房に置かれている。三百年生きた魔女が読めない文字が、そこに刻まれている。
——でも俺には、あの文字が読めない。
読める手段が要る。
深淵での生活、四十三日目。
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第13話「鈍った足と、覚えていた模様」 ―― 了 ――




