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深淵に住む魔女 ―アノンノア天則―  作者: 久和調


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第14話「嘘をつく茸と、本物の人形」

 朝。オリーゼの屋敷の居間。


 テーブルの上に荷物が並んでいた。紐の束。養魔酒の瓶が二本。保存の効く携帯食。小さな革の袋にまとめられた道具類。オリーゼが手際よくそれらを革のバッグに詰めていく。


「その紐、何に使うんですか」


「木に巻きつけながら伸ばしていくわ。あなたはそれを掴んで辿りなさい。途中で足りなくなったら引き返す」


 オリーゼの手が止まらない。迷いがない。初めてではないのだ。


「前にも行ったことがあるんですよね、あの方角」


「ええ。遺跡まで行ったことはあるの。ずいぶん昔だけれど」


「途中で何かありましたか」


「……色々あったわ。だから、もう行きたくなかったの」


 軽い口調だった。でも手は止まらなかった。


 ノクタがテーブルの上にいた。荷物の間を歩き回っている。養魔酒の瓶を抱えようとして、瓶が倒れそうになった。オリーゼが無言で瓶を押さえた。


「ノクタ。少しの間、眠っていてもらうわ」


 オリーゼがノクタの霊珠に指で触れた。ノクタは動きを止めた。開いていた目が閉じる。手足が力を失って、テーブルの上に倒れた。


 腰のポーチにノクタを入れた。さっきまで動いていたものが、もう動かない。布と革の感触。


「顕霊させなければ大丈夫よ。ただの人形だもの」


 リュートが庭で尻尾を振っている。出かけると分かっているらしい。



 ◇



 森を歩く。


 オリーゼが先頭。リュートが俺の横を歩く。見慣れた道だ。蜘蛛の巣が朝の光を反射して、糸が細い金属線のように光っている。ここに来たばかりの頃は、この森の全てが異質だった。木も、土も、空気も。今は怖くない。蜘蛛の巣がどこにあるか見当がつくし、足元の根に引っかかることも無くなった。四十五日。体が、少しだけこの場所に馴染んできている。


 歩きながら、昨日のことを思い出す。


 一昨日の夜、ベッドの中で考えていた。金属板。オリーゼにも読めない文字。ゼクトが見たという遺跡。苔の生えない石。それから——裂け目の奥の気配。


 あの文字を読む手段が要る。遺跡に行けば、何か手がかりがあるかもしれない。


 朝になって、オリーゼに言った。「ゼクト師匠が見た遺跡に、行ってみたいです」


 オリーゼは金属板を手に持ったまま、少し考えた。


「……準備が要るわ」


 断らなかった。


 一日かけて準備した。今日が出発だ。



 ◇



 森の雰囲気が変わったのは、歩き始めて二時間ほど経った頃だった。


 最初は色だった。木の幹に、灰白色の苔がこびりついている。里の近くでは見なかったものだ。手を伸ばして触ると、指先にざらついた粒子がついた。砂のようだが、もっと細かい。


「霊素を含んだ苔よ」


 オリーゼが振り返らずに言った。


「ここから先は、私の管理できる場所じゃないの」


 苔は木の幹だけではなかった。岩にも。地面にも。灰白色が、緑の森を少しずつ侵食している。色が変わるにつれて、音も変わった。里の近くでは聞こえていた虫の声が消えていく。代わりに、水が滴る音が増える。湿度が上がっている。


 オリーゼが立ち止まった。


 振り返る。こちらを見る。いつもの穏やかな顔だが、目の奥が少し違う。引き締まっている。


「ヴァン。ここから先で見えるものは、全部本物とは限らないわ」


 リュートが低く唸った。耳を伏せている。リュートにも分かるのだ。空気が違うことが。


「もし私の姿が見えなくなっても、声だけは聞こえるようにしておくから。私の声だけを信じなさい」


「はい」


「紐は絶対に離さないこと。いいわね」


 バッグから紐の巻きを出した。端を近くの木の幹にきつく巻きつける。しっかりと、二重に。紐を伸ばしながら歩き始めた。



 ◇



 地面が傾き始めた。下り坂だ。木の根を踏みながら降りていく。足元が湿っている。苔が厚くなる。灰白色の苔に覆われた斜面を、リュートが先に降りて待っていた。


 霧が出てきた。


 地面から立ち上る白い靄。足元の苔から湯気のように上がっている。


「苔の成分が水蒸気に混じっているのよ。吸い込んでも害はないけど、視界は落ちるわ」


 視界が狭くなる。五歩先が見えない。十歩先は白い壁だ。


 地面に茸が生えていた。傘の大きさは手のひらほど。灰色がかった白。苔と同じ色だ。ぽつぽつと、等間隔に生えている。何も珍しくない。ただの茸に見えた。


 紐を握りながら歩く。オリーゼが先頭で紐を伸ばし、木の幹に巻きつけて固定していく。リュートが横にいる。霧は濃いが、三人の距離は保てている。


 ——何かがおかしい。


 さっき通ったはずの木が、また前にある。同じ形の枝。同じ位置の瘤。二回目だ。いや、三回目か。通り過ぎたはずなのに。


「オリーゼさん、道が——」


「分かっているわ。同じ場所を回っている」


 オリーゼの声は落ち着いていた。立ち止まる。


 俺は魔探りを伸ばした。周囲をさぐる。魔法の気配を探す。——何もない。魔法回路の反応がない。でも方向感覚は狂っている。矛盾している。


「魔法じゃないです。何も引っかからない」


「ええ。魔法ではないわ」


 オリーゼが屈んだ。足元の茸の、傘をそっと持ち上げた。


「これが原因よ。傘の裏を見なさい」


 オリーゼが傘を持ち上げた。——茸の下に、何かがぶら下がっていた。小さな蛙のような体。灰色で、指の先ほどしかない。死んでいるように動かないが、傘の裏面に張られた薄い膜だけが脈打っていた。ごくわずかに。人の脈拍よりもゆっくりとした、一定のリズムで。


「振動膜。この拍を地面に伝えて、近くにいるものの方向感覚を狂わせるの」


「……これが霊法生物」


「の、一種。一匹をどうにかしても意味はないわ」


 試しに踏み潰した。傘が砕ける。脆い。——瞬間、視界が一段クリアになった。さっきまで見えていた「同じ木」が消える。違う景色が広がる。


 でも、数秒で元に戻った。別の方向から、同じ歪みが入り込んでくる。


「何匹いるんですか」


「数える意味がないくらいよ。ここ全体がこの子たちの巣みたいなものだから」


 オリーゼが紐を引いた。たるみを確かめて、近くの木に巻きつけ直す。


「目で見える道は信じないこと。紐を辿りなさい。私が先に行くわ」


 紐を握り直した。オリーゼの背中は見えない。見えているものが本物かどうか分からない。でも、紐は嘘をつかない。手の中の感触は本物だ。


 歩く。茸を踏む感触がある。蛙のような小さな体が、傘の下から弾かれて転がった。潰れた。——でもまた次の茸がある。次も、その次も。


 方向感覚は相変わらず狂っている。でも、パニックにはならなかった。手の中の紐がある。オリーゼの声がある。


「まっすぐよ。あと少し」


 紐の残りが少なくなった。オリーゼが引き返して、通り過ぎた分の紐を木から解いて回収してきた。回収した分をまた先の木に巻きつけて伸ばしていく。その間、俺とリュートは動けない。霧の中で立っているだけで、方向感覚がどんどんずれていく。


 オリーゼが戻ってきた。


「どっちを向いてるか、分かる?」


「……前、ですよね」


「それが後ろよ」


「…………」


「分かっているつもりが一番危ないの。紐を握りなさい」



 ◇



 茸蛙のテリトリーを抜けたと思った。霧は相変わらず濃い。でも足元の茸が減った。方向感覚の歪みが弱くなっている。


 ——代わりに、景色が変わった。


 周りの木が、おかしい。


 幹が太くなっている。枝が曲がっている。普通の木に見えたものが——よく見ると、獣の形をしている。倒木が地面を這う蛇に見える。岩が何かの頭蓋骨に見える。


 足元に、羽が落ちていた。


 小さな羽毛。拾い上げる。細かい紋様が描かれている。


「——この羽が付いてる木だけ、おかしくないですか」


「そう。散った羽が触れた物の見た目を変えるの。さっきの茸とは別の仕組みだけれど、やっていることは似ているわ」


 オリーゼの声が前から聞こえた。紐はその方向に張っている。——紐が偽物でない限り、声も本物だ。


 低い鳴き声が、響いた。


 ホーホー。


 深い。低い。腹の底に触れるような振動。空気が震えるのではなくて、体の中が震えている。


 心臓が跳ねた。


 足が止まった。——怖い。何が怖いのか分からない。理由がない。なのに、今すぐこの場所から逃げ出したい。走りたい。どこでもいいから、ここではない場所に。


 リュートが体を低くしていた。喉の奥で唸っている。尾が地面に張り付いている。リュートにも効いている。


 ——オリーゼだけが、歩いていた。


「落ち着きなさい。これは幻よ」


 声が、霧の向こうから届く。


「なんで歩けるんですか」


「……効きが鈍いだけ。怖くないわけじゃないわ」


 足が動かない。頭では分かっている。幻だ。恐怖に理由がない。理由がない恐怖は偽物だ。——それでも、足が動かない。


 無意識に、腰のポーチに手が触れた。


 ノクタを握りしめていた。


 冷たい。小さな人形の、布と革の感触。これは本物だ。ノクタは本物だ。俺の手の中にある。


 恐怖が、少しだけ引いた。


「……大丈夫です」


「目を閉じなさい。私の声と、手の中の紐だけを感じて。歩けるわ」


 目を閉じた。紐を握る。ノクタを握る。オリーゼの声を聞く。


 一歩。もう一歩。


 鳴き声は続いている。ホーホー。低く、深く、腹の中を揺らす。でも、目を閉じていると楽だった。見えないから、獣の形をした木が見えない。恐怖の理由が減る。声と紐とノクタ。それだけが本物だった。


 リュートが俺の脚に体を寄せた。震えている。でも歩いている。一緒に歩いてくれている。


「もう少しよ。あと少し」


 歩く。歩く。足が重い。紐を辿る。声を聞く。


 ——霧が、薄くなった。


 目を開けた。


 周囲の木が、ただの木に戻っていた。獣の形は消えている。倒木は倒木だ。岩は岩だ。鳴き声が遠くなっていく。振動が弱まる。


 抜けた。


 リュートが大きく息を吐いた。体が持ち上がる。尻尾がゆっくり上がる。


 オリーゼが立ち止まっていた。こちらを見ている。——少しだけ疲れた顔をしていた。いつもは見せない表情だった。


「……やっぱり、あそこは嫌いね」


「あの鳴き声は、何がしたいんですか」


「怖がらせて、走らせるの。逃げた先に巣がある。走れば走るほど深みにはまる。——だから目を閉じて歩いたのは正解よ」


 走らなくてよかった。体が動いていたら、今頃どこにいたか分からない。



 ◇



 登りにかかった。谷底から這い上がるように斜面を登る。苔が減っていく。地面に土の色が戻る。空気が軽くなる。


 谷を抜けた先は、開けた空間だった。


 霧が晴れていく。視界が広がる。——見えたものに、足が止まった。


 灰白色の巨大な石の残骸。


 何かの建物だったものだ。柱の根元。壁の断片。天井の一部だったかもしれない巨大な石板。それらが無造作に横たわっている。苔一つ生えていない。あの遺跡と同じだ。湿気の中で何百年も崩れずに残っている、不気味な石。


 その石の残骸の間に——家があった。


 太い柱で地面から持ち上げられた木の家。石の基礎の上に、さらに木の脚を立てて、宙に浮くように建っている。床下を風が通っている。壁は蔦と板で組まれていて、屋根には広い葉が重ねられている。一つではない。いくつも。石の上に木の家が乗り、木の家同士が渡し板で繋がっている。


「……村がある」


 オリーゼは立ち止まっていた。家々を見ている。——驚いている、というより、確認している顔だった。


「前に来た時は、なかったわ」


 短い声だった。独り言に近い。


 オリーゼの里とは全く違う。あちらは生きている里だった。ここは違う。古い石に——寄生するように暮らしている。


 近づくと、人影が見えた。


 遠い。でも分かる。こちらを見ている。動いている。——何人かが集まって、こちらを指差している。


 警戒されている。


 当然だ。あの谷の向こうから人が来ることなど、きっとない。


 オリーゼが歩き出した。迷いなく。俺とリュートがついていく。


 水が飲みたかった。谷の中で汗をかいた。でも今は、歩いた。目の前の景色から目が離せなかった。


 俺の知っている深淵は、オリーゼの管理区域だけだった。里と、森と、池。それが深淵の全てだと思っていた。


 違った。


 深淵は、まだ続いている。


 深淵での生活、四十五日目。


---


第14話「嘘をつく茸と、本物の人形」 ―― 了 ――

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