第15話「乾いた石と、遠い影」
石の残骸の間を歩く。
灰白色の巨大な石が、苔に覆われた地面の上に転がっている。何かの建物だったものだ。柱の断面。壁の破片。天井の一部だったかもしれない石板。崩れた形のまま、ずっとここにある。そういう佇まいだった。
触れた。
冷たい。乾いている。——周囲の木や地面は苔に覆われているのに、この石だけは違う。表面が滑らかだ。新しい石のように。雨に打たれても、湿気に晒されても、苔一つ付いていない。
家が見える。石の上に建てられた木造の家だ。太い丸太を石の基礎に立てて、床が地面から持ち上がっている。壁は板と蔦で組んであり、屋根には厚い樹皮が何枚も重ねてあった。
一つではない。石の残骸の間に、いくつも。渡し板で繋がっている家もある。炊事の煙が薄く上がっている。煙と獣の脂の匂いが、風に混ざって流れてきた。
人の声がした。
遠い。こちらを見ている。二人、三人。立ち止まって、指差している。声が聞こえる距離ではないが、表情は分かる。警戒だ。
オリーゼが歩いている。止まらない。迷いがない。俺とリュートがついていく。リュートは物珍しそうに首を動かしている。初めて見る場所。初めて嗅ぐ匂い。尻尾は下がっていない。警戒はしているが、恐怖はない。
村人の一人が近づいてきた。壮年の男だ。額に汗をかいている。手に鉈を持っていた。作業中だったらしい。
俺たちを見た。オリーゼを見た。リュートを見た。それから俺を見て、足元のデンドロイドを見て、それからもう一度オリーゼを見た。
「谷の向こうから来たのか」
俺が頷こうとした時、男が続けた。
「……よく生きていたな」
冗談ではなさそうだった。本気で驚いている顔だ。
「村長はどちらに」
オリーゼが言った。落ち着いた声だ。男がリュートを見た。一歩引いた。
「噛まないわ。怖がらせてごめんなさいね」
オリーゼが短く言った。男はリュートをもう一度見て、それから頷いた。後ろを向いて走っていった。
待っている間に、他の村人たちが集まってきた。遠巻きに。近づかない。こちらが何者かを測っている。リュートを見て後退る者もいる。
子供が一人、柱の陰からリュートを見ていた。目が大きい。リュートが子供の方を向いた。尻尾がゆっくり揺れた。子供が柱の裏に引っ込んだ。
◇
連れて行かれたのは、村の中心に近い家だった。他の家より少し大きい。石の基礎が広い。梯子ではなく、石段で上がれるようになっていた。リュートは石段の下で待たせた。
上がると、板の間だ。囲炉裏のようなものが中央にある。火は入っていない。壁際に道具が並んでいる。獣の骨で作った何か。紐を束ねたもの。干した肉が天井から吊るされている。匂いがする。燻した匂いだ。
奥から、一人出てきた。
老人だった。背は曲がっている。顔の皺が深い。——ただ、目が鋭い。じっとこちらを見ている。俺を。オリーゼを。何も言わない。
長い沈黙があった。
「谷の向こうから来たのか」
さっきの男と同じ言葉だった。言い方が違う。確認ではなく、査定だ。
「ええ」
オリーゼが答えた。堂々としている。
「……魔女か」
ヨルガの目がオリーゼを見た。細めた目の奥で、何かを探っている。
「噂は聞いている。もっと恐ろしい姿を想像していたが」
「あら、残念ね」
オリーゼの声はいつも通りだった。軽い。でも笑っていない。
ヨルガが俺を見た。
「そっちの小僧は」
「弟子よ」
「……弟子」
「訳があって預かっているの。外にいる竜も連れよ。噛まないから安心なさって」
「座れ」
短い言葉だった。
板の間に座った。ヨルガが奥に向かって何か言った。しばらくして、年嵩の女性が盆を持ってきた。芋の蒸し物。何かの肉の燻製。茶色い液体が入った木の椀。
食事だった。
「いただきます」
芋を口に入れた。ほくほくとしている。甘みがある。燻製は硬いが、噎めば味が出る。——ただ、全体的に薄い。スープを飲む。骨でとった出汁の風味はあるが——足りない。
塩氣がない。
オリーゼは何も言わずに食べている。平然と。
「最近の谷のことを聞いたことがないか」
ヨルガが聞いた。食事の途中で。
「数十年前に一度通ったきりよ。途中で引き返したけれど、あの頃より霧が濃くなっていたわ」
「谷はいつもあんなものだ。あの先にわしらが行くことはない」
「この村は、いつ頃から」
「百と数十年前にわしの祖父がここに住み始めた。それ以前のことは知らん」
「こちらも行く理由がなかったわ。——今まではね」
オリーゼが俺を見た。俺だ。
腰の革袋から金属板を出した。テーブルに置く。ヨルガの目がそこに落ちた。
「これを見つけました。遺跡に、この文字と同じ紋様があると聞いています。行って調べたいんです」
ヨルガは金属板を見た。触らなかった。
沈黙。長い。
「遺跡には近づくな」
短い声だった。
食い下がろうとした。口を開きかけた。——オリーゼの目がこちらを見た。静かな目だ。今じゃない、と言っている。
口を閉じた。
「深く入った者が戻ってこなかった。何度も。だからわしは禁じている」
ヨルガの声に怒りはなかった。事実を述べているだけだ。
「今日は休みなさい。空き家がある。明日また話す」
それで終わりだった。
◇
案内してくれたのは、さっきの壮年の男だった。
「あんたら、本当に谷を越えてきたのか」
「はい」
「よく生きてるな。あの中には霊法生物がうじゃうじゃいるぞ」
「うじゃうじゃ、は分かりました」
男が短く笑った。
空き家は村の端にあった。他の家より小さいが、造りは同じだ。石の基礎の上に、木の床。板の壁。屋根の樹皮は少し古いが、雨漏りはなさそうだった。
荷物を下ろした。リュートが床の匂いを嗅いで回っている。人が住んでいた痕跡がある。でも、しばらく空いていたらしい。
腰のポーチからノクタを取り出して、テーブルの上に置いた。
「もう大丈夫よ」
オリーゼの指がノクタの霊珠に触れた。
——ノクタが動き出した。目が開く。手足がばたばたと動いて、テーブルの上で起き上がった。きょろきょろと首を回す。知らない場所だ。
ノクタが俺の方を見た。——そのまま、短い腕を組んだ。
「……怒ってるのかお前」
クー。
「寝てただけじゃないか」
三秒ほど腕を組んだまま動かなかった。張り付いた笑顔の刺繍のまま、微動だにしない。それから、くうくうと鳴きながら手のひらに登ってきた。肩まで這い上がって、そこに座る。あったかい。いつもの重さだ。
日常が、少しだけ戻った。
◇
夕方になって、村の中を歩いた。
オリーゼは空き家に残っている。「少し休むわ」と言った。谷の中で見せた疲れた顔が、まだ残っていた。
リュートと歩く。ノクタは肩にいる。
村は小さい。家の数を数えると、二十ほど。でも人はもっといる。一つの家に何人かが暮らしているのだろう。
狩りから戻ってきた男たちが、大きな獣を担いでいた。六本足の、鹿に似た何かだ。角が不気味に曲がっている。霊法生物だろうか。男たちの手際は良い。吊るして、皮を剥いで、内臓を丁寧に仕分けしていく。骨を裂く音がした。肉は分厚く切って、燻す準備をしている。内臓は別の桶に。何も捨てない。
子供たちが走り回っている。リュートを遠巻きに見ていた最初の子供が、もう一人連れてきた。二人でリュートを指差している。リュートが尻尾を振ったら、一人が走って逃げた。もう一人はそのまま立っていた。
「触っていいぞ」
子供がおそるおそる手を伸ばした。リュートの鼻先に指が触れた。リュートが舐めた。子供が笑った。
ノクタが肩の上から子供を見ている。子供がノクタに気づいた。
「それ、何?」
「ノクタ。俺の——友達かな」
ノクタがくう、と鳴いた。子供が目を丸くした。
村人が毛皮を加工しているのを見た。何かの液体を刷毛で塗っている。塗った部分の毛皮が、微かに色を変えた。やり方が違う。見たことのない液体と、見たことのない道具だった。
全く違う。
同じ深淵にいるのに。
◇
夕食を食べた。
芋の煮込みに、何かの虫を乾燥させたものが散らしてある。見た目は豆のようだが——虫だ。カリカリしている。味は悪くない。栄養があるのだろう。微妙な顔をしていたら、オリーゼが何も言わずに自分の分を食べた。
「食べられるものよ」
「……はい」
食べた。カリカリしている。甘みがわずかにある。大丈夫だ。大丈夫。
食後、オリーゼが鞄から瓶を二つ出した。一つは養魔酒。見慣れた黒い液体だ。もう一つは——灰白色の、濁った液体だった。蓋を開けた瞬間、養魔酒とは全く違う匂いが広がった。鼻の奥を掴むような、甘いような苦いような、妙に生々しい匂いだ。
「養霊酒よ。谷の中で霊法の影響を受けたでしょう。飲んでおきなさい」
オリーゼが自分の椀に灰白色の液体を注いで、そのまま飲んだ。それから、水で薄めたものを俺の椀に入れた。
「……薄めたんですか」
「原液はあなたには強すぎるわ」
椀に口をつけた。灰白色の液体が水で淡くなっている。匂いはまだ残っている。飲んだ。——養魔酒の苦さとは違う。舌の上でじんわりと広がる、粘っこい甘さと渋みが混ざったような後味だ。体の中の、魔素とは違う何かが反応している気がした。
オリーゼが窓の外を見ていた。ノクタがテーブルの上で丸くなっている。リュートは床で寝ている。
「ヨルガさん……明日、もう一回話してみましょうか」
「いいわ。ただ、無理に押さないこと。あの人には、あの人の理由があるの」
「……遺跡に入った人が戻ってこなかったって話、本当ですか」
「本当でしょうね。そうでなければ禁じる理由がないもの」
オリーゼが窓から目を離した。
「この村は、谷の向こうの世界を知らないわ。私の里のことも知らない。でも谷のこちら側で、ちゃんと生きている」
古い石に寄り添って。獣を狩って、芋を育てて、虫を食べて。
「深淵って、一つじゃないんですね」
「そうよ。広いの、ここは」
ノクタがテーブルの上で寝返りを打った。小さな手が空を掴んでいる。寝ぼけているらしい。
◇
翌朝。
目が覚めて、外に出た。リュートが先に出ている。庭先——と呼べるような空間に座っていた。朝の空気が冷たい。霧は出ていない。谷の向こうとは空気が違う。石の残骸の間から、空が少しだけ見えた。灰色だが、明るい。
散歩をしようと思った。
リュートを連れて、村の外れの方に歩いた。家が減っていく。灰白色の塵が増える。村人はこちらにはあまり来ないようだ。崩れた柱や壁の断片が、墓標のように並んでいる。
石に触れた。冷たい。乾いている。最初に触れた時と同じだ。苔一つ生えない。湿気の中にあって、この石だけが乾いている。——何がこの石をこうさせているのだろう。
——人影があった。
遠い。石の残骸の上に、座っている。
少年だった。
俺より少し小さい。色白で、細身だ。大きめの上着を着ている。体に合っていない。風が吹くと裾が揺れる。
こちらを見ている——ように見えた。でも、視線がわずかにずれている。俺を見ているのではない。俺の後ろでもない。何か別のもの——あるいは何もないもの——を見ている。
リュートが止まった。低く、短く唸った。警戒ではなく、戸惑いだ。
通りかかった村人——昨日の壮年の男だった——が、俺の視線に気づいた。
「ああ、あの子は……」
男が言葉を切った。少し黙ってから、続けた。
「……気にしないでくれ」
それ以上は言わなかった。歩いていった。
もう一度見た。少年はまだそこにいた。胸元の何かを握りしめている。小さくて、ここからは分からない。石や金属の光沢が、わずかに見えた。
——ふいに、目が合った気がした。
少年がこちらを見た。一瞬だけ。大きな目が、俺を捉えた。——それから、逸らした。石の上から降りて、背を向けて歩いていった。大きめの上着の裾が揺れている。すぐに石の残骸の影に消えた。
リュートが小さく鼻を鳴らした。
「……何だったんだ、あの子」
誰にも聞こえない声で言った。リュートが俺を見上げた。答えはない。
石の残骸だけが、静かに並んでいる。
深淵での生活、四十六日目。
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第15話「乾いた石と、遠い影」 ―― 了 ――




