第16話「握った石と、動いた足」
朝の石段を降りた。
霧は出ていない。空は灰色だが、昨日より明るい。石の残骸の間に朝日が差し込んでいる。白い光だ。
オリーゼが後ろにいる。鞄の中身を確認している。
ノクタがテーブルの上から俺の足元に降りてきた。くう、と鳴いて腕を伸ばす。——抱き上げると、肩まで這い上がって座った。
「ヨルガさんのところに行きましょう」
「はい」
昨日、明日また話すと言われた。遺跡のことを、もう一度聞きたい。
◇
ヨルガの家の石段を上がった。
昨日と同じ板の間。囲炉裏のようなものには、今日は火が入っている。小さな炎が揺れていた。燻した匂いの中に、芋を蒸した甘い匂いが混ざっている。
ヨルガが出てきた。昨日と同じ目。鋭い。ただ、少しだけ——何が違うのかは分からないが、空気が昨日ほど重くなかった。
「座れ」
また、短い言葉。でも今日は食事が先に用意されていた。蒸した芋と、昨日とは違う肉の干物。木の椀に温かいスープ。招くつもりで用意していたのだ。
「いただきます」
「うむ」
食べた。相変わらず塩氣がない。でも、昨日より少し慣れた。芋の甘みを味わえる余裕がある。
「もう一度聞いてもいいですか。遺跡のことを」
ヨルガが俺を見た。スープの椀を置いた。
「入った者は戻らん」
同じ答えだった。声も同じだ。怒ってはいない。事実を述べている。
「何人くらい」
「わしが知る限りで、三人。いずれも若い者だった。奥に何かがあると言って入っていって——そのままだ」
オリーゼが静かに聞いている。口を挟まない。
食事の途中、外の方で何かの気配がした。石段の下を誰かが通ったらしい。ヨルガがちらりと窓の方を見た。——表情が一瞬、変わった。
俺も窓の方を見た。石の残骸の向こうに、今朝見た少年の影がある。
ヨルガが俺を見ていた。俺の目がどこに向いたか、分かったらしい。
長い沈黙。囲炉裏の火が爆ぜた。
「……あの子のことは、放っておいてくれ」
それだけだった。声が低い。怒りではない。何かを押し込めている声だ。
それ以上は聞けなかった。
◇
ヨルガの家を出た。
石段を降りて、渡し板を歩く。朝の村は静かだ。女たちが水場で何かを洗っている。子供の声が遠くに聞こえる。
石の残骸が増える方へ歩いた。さっき、あの少年がいた場所だ。
——いた。
同じ石の上に座っている。膝を抱えている。大きめの上着の裾が石の表面に垂れている。風が吹いて、裾が揺れた。
オリーゼが隣で、わずかに足を止めた。
「……」
何かを言いかけて、やめた。目がわずかに細くなった。少年の方を見ている。——それから、視線を外した。
「ヴァン。私は先に戻るわ。少し調べたいことがあるの」
「はい」
「あの人は何かを恐れている。遺跡のことではなくて、あの子のことを」
オリーゼが歩いていった。振り返らない。
俺はしばらく立っていた。ノクタが肩の上でくう、と鳴いた。リュートが隣にいる。尻尾がゆっくり揺れている。
あの少年は、こちらを見ていない。今朝と同じだ。何か別のものを見ている。
◇
近づいた。
自分でもなぜかは分からない。放っておけばいい。ヨルガにも放っておいてくれと言われた。でも、足が動いた。
「よく一人でいるんだな」
少年の体がびくっと跳ねた。首が縮まる。大きな目がこちらを向いた。——すぐに逸れた。
「す、すみません……。どいた方がいいですか……?」
声が小さい。語尾が消える。まだ何もしていないのに、謝っている。
「いや。別にどかなくていい」
石の近くに座った。少年から少し離れた場所。こちらを見ていない。見ないようにしている。
リュートが俺の横に座った。少年がリュートを見た。——体が強張った。
「怖くないぞ、こいつは」
リュートの首を撫でた。リュートが目を細めて口を開けた。舌が出ている。嬉しそうな顔だ。
少年がそれを見ていた。体はまだ強張っている。でも、目は——リュートの、嬉しそうな顔を見ていた。
「触ってみるか」
「……い、いえ……」
「噛まないからさ」
リュートが少年の方に首を伸ばした。少年がわずかに引いた。——リュートの鼻先が、少年の指に触れた。ふん、と鼻息。それだけだ。
少年の肩から、少しだけ力が抜けた。
沈黙。風が吹いている。石の残骸の間を抜ける風だ。乾いた音がする。
少年の目が、動いた。
俺の腰のあたり。革袋だ。——その中身を見ている。見えるはずはないのに、目がそこに吸い寄せられている。
「それ……その中にあるもの。見せてもらえませんか」
声が違った。さっきまでの尻すぼみが薄くなっている。
革袋を開けた。金属板を取り出した。灰色の、掌ほどの板だ。表面に細かい文字が刻まれている。
少年の目が変わった。
「この文字——」
食い入るように見ている。指が伸びかけて、止まった。
「見たことがあります。遺跡の壁に、同じものが刻まれているんです」
「遺跡を知っているのか」
「……入ったことは、ないです。でも、入口の近くまでは」
声が小さくなった。うつむいた。それからまた顔を上げた。
「禁じられているのは分かっています。でも、近くまで行ってしまうんです」
「なんで」
少年が黙った。目が揺れている。
「……ずっと、呼ばれているんです。遺跡の奥から」
声が変わった。尻すぼみではない。静かだが、芯がある。
「子供の頃からです。最初は気のせいだと思っていました。でも、年が経つほど強くなる。寝ている時に聞こえることもあります。誰にも聞こえないのに、僕にだけ聞こえるんです」
少年の胸元で、ネックレスの先にぶら下がっている小さな石が、一瞬だけ脈を打つように明滅した。少年は気づいていない。
肩の上でノクタが動いた。首をくるりと回して、少年の胸元を見ている。——小さな体が、わずかに前のめりになった。くう、と低く鳴いた。普段とは違う鳴き方だ。目の前に何か引っ張るものがあるような、そんな仕草だった。
「……俺はヴァン。そっちの名前は」
「……ルカ、です」
ルカ。声が小さい。でも、名前を言った。
「ルカ、お前、遺跡に行きたいのか」
ルカが俺を見た。まっすぐに。さっきまで持てなかった視線だ。
「行きたいって言ったら——変ですか」
「変じゃないだろ。行きたいなら行けばいい」
「……でも、怖いんです」
ルカの手が膝の上で握られている。指先が白い。
「怖いけど、行きたい。これっておかしいですよね」
「別に」
俺は石の表面を見ていた。乾いている。冷たい。ずっとここにある石だ。
「怖いのと行きたいのは別の話だろ」
ルカが黙った。俺を見ていた。何か言いたそうな顔だ。でも、言葉にならないらしい。
代わりに、また胸元の石を握りしめた。
◇
空き家に戻った。
オリーゼがテーブルの上に何かの資料を広げていた。ノクタが資料の上で丸くなる。オリーゼがそっと横にどかした。ノクタが不満そうにくう、と鳴いた。
「話してきたんでしょう」
「分かるんですか」
「顔に出てるわ」
ルカのことを話した。遺跡の壁に同じ文字があること。子供の頃から遺跡の奥の声に呼ばれていること。怖いけど行きたいと言っていたこと。
オリーゼは黙って聞いていた。
「それと——あの子が話している時に、胸のネックレスが光りました。一瞬だけ」
「霊珠ね」
「ノクタも反応して聞いたことのない鳴き方をしてました」
オリーゼがノクタを見た。ノクタはテーブルの端で丸くなっている。
「あの子に会わせてもらえるかしら」
「……はい。たぶん、まだあそこにいると思います」
◇
石の上にルカはまだいた。
オリーゼが隣にいる。ルカがオリーゼを見た。——肩がわずかに上がった。オリーゼの存在感は大きい。
「大丈夫よ。何もしないわ」
オリーゼが穏やかに言った。風の音みたいな声だ。ルカの肩から、少しだけ力が抜けた。
「さっきヴァンに話してくれたこと、もう一度聞かせてもらえる?」
ルカが俺を見た。いいのか、と聞いている目だ。頷いた。ルカが、さっきと同じことを話した。遺跡の声。文字。呼ばれていること。——声がまた変わった。さっきと同じように、芯が出てくる。
話しながら、ルカの胸元がまた光った。微かに。脈を打つように。
オリーゼがそれを見ていた。目を細めている。何かを確認している目だ。
ルカが話し終わった。
オリーゼは何も言わなかった。しばらく。それから、短く息を吐いた。
「ルカ。あなた、家族はいるの」
「……ヨルガさんが、育ててくれました。六つの時にこの村に来て——それからずっと」
「その前は」
「覚えていません。ほとんど。……怖かったことと、嫌がられたことだけ」
オリーゼが頷いた。穏やかな顔だ。でも目は穏やかじゃない。何かを考えている。
「ありがとう。また来てもいい?」
「は、はい……」
ルカが不思議そうな顔をした。ありがとうと言われたことに驚いているように見えた。
◇
空き家に戻る道すがら、オリーゼが言った。
「あの子……霊法の素養が高いわ。かなり」
「分かるんですか」
「朝、帰り道であの子の近くを通った時から気になっていたの。空気の纏い方が、私が昔会った高位の術者に似ていた。今日直接会って確信した」
「ルカは——自分がそうだって知ってるんですかね」
「知らないでしょうね。自分の素養がどれほど高いか——あの子自身は気づいていないはずよ」
オリーゼが少し黙った。
「霊法の拍が漏れているの。無意識に。本人は何も気づいていないけれど、周囲の人は——居心地の悪さを感じる。それが、あの子の周りから人が離れていく理由よ」
「ノクタが反応したのも」
「ノクタの霊魂は霊法の影響を受けやすい。あの子の漏れた拍に、そのまま引っ張られたのでしょう」
俺はしばらく何も言えなかった。
「オリーゼさん」
「何」
「あの子と一緒に遺跡に行きたいです」
オリーゼが立ち止まった。俺を見た。
「あの子の話が本当なら——遺跡にあるものは金属板と関係がある。行く価値はあるわ」
止めなかった。
「ただし、ヨルガに話を通しなさい。あの人の許可なしに、あの子を連れ出してはいけないわ」
「はい」
「私もついて行く。あの子一人では行かせないし、あなた一人でも行かせない」
オリーゼの声は穏やかだった。でも、決定事項の口調だ。
◇
ルカを連れて、ヨルガの家に向かった。
石段を上がる。ルカは俺の後ろにいる。足音が小さい。存在を消そうとしている歩き方だ。オリーゼがその後ろを歩いている。
ヨルガが板の間にいた。俺たちを見た。——ルカを見た。
ルカの背筋が伸びたのが分かった。
「ヨルガさん。お願いがあります」
「聞こう」
「俺が——ルカと一緒に遺跡に行きたいんです」
沈黙。
ヨルガの目が俺を見ている。鋭い。査定の目だ。
「あの遺跡に入った者が戻ってこなかったとは言った」
「聞きました」
「それでも行くと」
「行きます。ルカが——呼ばれているんです。遺跡の奥から、ずっと。放っておいたらあの子はいずれ一人で行く。そうなる前に、俺が一緒に行きます」
ヨルガが俺から目を離して、ルカを見た。
ルカは——うつむいていた。指先が震えている。胸元の霊珠を握りしめている。
「ルカ」
ヨルガの声が、少し変わった。——柔らかくなった、のとは違う。力が抜けたのだ。
「お前も、行きたいのか」
ルカが顔を上げた。目が揺れている。唇が動いた。声が出ない。もう一度、口を開いた。
「……行きたい、です」
声が震えていた。でも、逃げなかった。ヨルガの目をまっすぐに見ていた。
「怖い、です。でも——ずっと聞こえているんです。あの声が何なのか、知りたいんです」
ヨルガが目を閉じた。長い。とても長い沈黙だった。
囲炉裏の火が揺れている。板の間に煙の匂いが漂っている。
「私もついて行くわ」
オリーゼが言った。静かな声だった。
「あの子一人では行かせないし、ヴァンだけでも不安でしょう。三百年ほど生きた私がついて行けば——少しは安心できるかしら」
ヨルガがオリーゼを見た。長い視線だった。何かを測っている。噂だけで知っていた相手を、初めて本当に見ている目だ。
それから、ルカを見た。
「……必ず連れて帰れ」
ヨルガの声は低かった。震えてはいない。でも、何かを押し殺している声だ。
「わしが禁じていたのは——お前を守るためだ。分かっているな」
「……はい」
ルカの声が詰まった。目が赤くなっている。泣いてはいない。泣くのを堪えている。
ヨルガが目を閉じた。もう一度開けた時、鋭い目に戻っていた。
「明日の朝、出ろ。早いほうがいい。必要なものは用意させる」
「ありがとうございます」
俺が頭を下げた。ルカも頭を下げた。深く。
ヨルガはもう何も言わなかった。
◇
空き家に戻った。日が傾いている。
明日、遺跡に向かう。
オリーゼが道具の確認を始めた。鞄の中身を全部出して、テーブルに並べている。実務的な動きだ。必要なものと不要なものを仕分けている。
「灯りは多めに持っていくわ。紐は——足りないわね。ヨルガに分けてもらいましょう。それと食料」
「分かりました」
「ルカにもいくつか持たせなさい。あの子は体力がないだろうから、軽いものを」
「はい」
ノクタがテーブルの上に座って、並べられた道具を一つずつ触っている。小さな手で瓶を掴んだ。持ち上がらない。もう一回両手で掴んだ。持ち上がらない。首を傾げた。
「手伝ってるつもりか、お前」
クー。
ルカが空き家の入口に立っていた。さっき別れたばかりだ。入口の柱に手をかけたまま、中を覗いている。
「入ってこいよ」
「あ、すみません……。邪魔じゃないかと思って……」
「邪魔じゃないから呼んだんだろ」
ルカがおずおずと入ってきた。テーブルの上のノクタを見た。——目が丸くなった。
「この子……見たことない動き方をしてる」
「ノクタだ。細かい事はよく分からないけど、ずっと一緒にいる」
ノクタがルカの方を見た。首がくるりと回った。くう、と鳴いた。短い腕を伸ばして、ルカの方に体を乗り出した。
ルカが一歩引いた。
「大丈夫よ。この子は噛まないわ。……噛めないし」
オリーゼが言った。ルカが恐る恐る手を伸ばした。ノクタがルカの指先に触れた。小さな手が、ルカの指を握った。
ルカの顔が——少しだけ、緩んだ。
「あったかい……」
「あったかいだろ。いつもそうなんだ」
ノクタがくうくうと鳴いている。嬉しそうだ。ルカの指を握ったまま離さない。
「明日は早いわ。今日はもう休みなさい」
オリーゼが言った。ルカが頷いて、ノクタの手をそっと離した。ノクタが名残惜しそうにくう、と鳴いた。
ルカが入口のところで立ち止まった。
「あの——ありがとう、ございます」
小さな声だった。
「礼を言うのはまだ早い」
「……はい」
ルカが石段を降りていった。足音が小さい。消えるように。
リュートが入口のところで尻尾を振った。ルカの匂いを覚えたらしい。
◇
夜。
テーブルの上でノクタが丸くなっている。リュートは床で寝ている。オリーゼは窓際にいる。窓の外を見ている。
横になった。目を閉じた。
あの子の目が、頭から離れない。怖いと言いながら、逃げなかった。ヨルガの前で、声が震えながら「行きたい」と言った。
——ああいう奴を、放っておけるわけがないだろう。
明日は早い。
深淵での生活、四十七日目。
---
第16話「握った石と、動いた足」 ―― 了 ――
【あとがき】
霊法の素養が高い者は、無意識に「拍」を漏らすことがある。
本人に自覚はない。だが周囲の人間は、理由の分からない居心地の悪さを感じる。
ルカの周りから人が離れていったのは、嫌われていたからではない。
原因に氣づいた者がいたとしても、どうにもできなかった。




