第17話「閉じた扉と、動く足」
朝が来た。
起き上がると、オリーゼが既にテーブルの上で道具を並べ終えていた。灯り、紐、食料。整然と並んでいる。
「早いですね」
「眠れなかったわけじゃないわ。習慣よ」
リュートが床で伸びている。俺が動いたのに氣づいて、尻尾を一回振った。
ノクタはテーブルの端で丸くなっている。
「この子は寝ていてもらうわ。遺跡の中の霊法に当てられると厄介よ」
オリーゼがノクタに手を触れた。短く何かを唱える。ノクタの体がふっと軽くなったように見えた。——動かなくなった。眠っている。ただの人形に戻っている。
ポーチに入れた。中で転がったが、動かない。冷たい。いつもの温もりがない。
外で足音がした。小さい。——ルカだ。
入口に立っている。昨日と同じ大きめの上着。胸元の霊珠を握りしめている。
目が違った。昨日の夜より、少し強い。怖がっているのは変わらない。でも、逃げる目ではなかった。
「おはようございます」
「おはよう」
「準備はいい?」
オリーゼが鞄を肩にかけた。ルカが小さく頷いた。
◇
村の中を歩いた。
朝の空氣は湿っている。石の残骸の間に霧が薄く漂っている。女たちが水場にいるのが見えた。こちらを見ている。——ルカを見ている。
ルカの足音が小さい。存在を消すような歩き方だ。村の中を歩く時はいつもこうなのだろう。
ヨルガの家の近くを通った。
ヨルガは外にいた。石段の上に立っている。背中を向けている。
振り返らない。何も言わない。
ルカが足を止めた。一瞬だけ。ヨルガの背中を見ている。——唇が動いた。声は出なかった。
歩き出した。
俺はヨルガの背中を見た。広い。硬い。——昨夜と同じだ。あの時もこうやって、背中を向けていた。
村の奥へ進む。石の残骸が増える。道が細くなる。建物が途切れる。
——門が見えた。
崩れかけた石造りの門柱。高さは俺の三倍ほど。左の柱は半分崩れている。右の柱は残っている。文字が刻まれていた。
ルカが門柱に近づいた。文字を見上げている。
「やっぱり……同じです。この文字、金属板に刻まれているものと同じものがあります」
革袋から金属板を出した。門柱の文字と並べる。——いくつかの文字が一致している。同じ形。同じ刻みの深さ。
門柱に手を触れた。魔探り。
——石の質が、酸の池の裂け目の岩壁と似ている。同じ種類の岩だ。だが、違う。加工されている。岩の中に何かが通っている。
回路だ。微かだが、確かにある。もっと細かい。精密だ。
「村の石とはほぼ一緒だ。だが、こっちの方がずっと込み入っている」
「古いわ」
オリーゼが門柱の反対側を見ている。
「崩れかけているわ。上に氣をつけて進みましょう」
門の奥。
広間だった。広い。天井が高い——いや、天井がない。崩落している。上の階があったらしい痕跡が残っている。瓦礫が散乱している。崩れた柱。割れた石の床。
天井の穴から光が差し込んでいた。白い光。朝日だ。まだ外の延長のような空氣がある。
広間の奥に、下りの階段があった。
石段。幅は二人分。手すりはない。——暗い。光が届かない。階段の先は闇だ。
リュートが鼻を鳴らした。階段の方を見ている。耳が立っている。
「行きましょう」
オリーゼが灯りを点けた。柔らかい光が広がる。
階段を降りた。一段ごとに、光が遠くなる。音が変わる。自分の足音が、壁に返ってくる。
◇
暗い。
灯りの範囲しか見えない。石壁が狭い。湿っている。壁面に何かが生えている。——苔。菌類。薄い緑色と灰色が混ざったものが、壁の表面を覆っている。
空氣が変わった。重い。古い。匂いがある。生き物の匂いではない。石と苔と、もっと深い——何だろう。土の奥にあるような、押し潰された時間のような匂い。
「足元に氣をつけて。石が濡れているわ」
オリーゼの声が壁に反響する。
通路が伸びている。——分岐。左右に分かれている。
左を覗く。十歩ほど先で崩壊している。瓦礫が積み上がって先が見えない。
「左は行き止まりだな」
「右も怪しいわね。でも、空氣が動いている。先に空間がある」
右へ進む。通路が曲がる。また分岐。さらに右。——行き止まり。戻る。左。通路が続いている。
迷宮だ。
崩壊で本来の構造が変わっている。元はもっと整然とした配置だったのだろう。今は瓦礫と崩れた壁で、通れる道と通れない道がばらばらになっている。
壁際で何かが動いた。
小さい影。素早い。——ネズミだ。灰色の体が壁の隙間に消えていく。
「こんなところにも生き物がいるのか」
「……生き物がいるということは、ここは閉じた場所ではないのね」
オリーゼが壁面の苔を見ている。指で触れた。——何か考えているようだったが、何も言わなかった。
進む。分岐のたびに立ち止まる。どちらに行くか。
ルカが口を開いた。
「……あっち。左は行き止まりです」
「分かるのか」
「……分かります。声が、こっちから聞こえるので」
声。遺跡の奥から聞こえるという、あの声。俺には聞こえない。オリーゼにも聞こえない。ルカだけに聞こえる。
ルカの案内で進んだ。左。右。まっすぐ。左。——ルカが指す方向には行き止まりがなかった。一度も。
小部屋がいくつかあった。崩壊した棚のようなもの。石の台。割れた容器。何かの研究室か、倉庫だったらしい。中身はもう何も残っていない。
壁に手を触れた。魔探り。
——回路がある。壁の中に。門柱と同じ残留。もっと複雑だ。枝分かれしている。壁面全体に、回路が張り巡らされている。
「まだ動いている回路がある」
「そう。……ここを作った人たちは、相当な技術を持っていたのね」
オリーゼの声が低い。感心ではない。警戒だ。
ルカが立ち止まった。
「……ヴァンさん」
「どうした」
「ここ……見られている氣がします」
「見られている?」
「壁の中から。何かが——こっちを見ている感じがするんです」
壁を見た。苔が生えているだけだ。何もない。魔探りで回路の残留は感じるが、それ以外には何も。
「どの辺だ」
「……あの辺り。通路の先の、右の壁の——」
言い終わる前に、一歩進んだ。
轟音。
天井から、巨大な石の扉が落ちてくる。——通路の前方だ。
「ヴァン!」
肩を掴まれた。引き戻される。——石扉が目の前で落ちた。床に叩きつけられる音が通路全体を震わせた。
埃が舞い上がる。灯りが一瞬揺れた。
石扉が通路を完全に塞いでいた。厚い。重い。人の力で動かせるような代物ではない。
「……古い防衛機構ね。まだ動いているとは」
オリーゼが石扉に手を触れた。表面を確かめている。
俺も触れた。魔探り。
「石扉の中に回路が読めます。壁の中の回路と繋がっている」
「回路の魔氣の流れを断てば、動くはずよ。干渉できそう?」
「——やってみます」
目を閉じた。空で探る。回路の流れを辿る。太い流れが壁の中を通って、扉の接合部に集まっている。ここだ。
空で干渉する。回路の流れに、自分の魔氣を滑り込ませる。——弾かれた。抵抗がある。回路が干渉を拒んでいる。
……でも、ムラがある。古い回路だ。長い年月で劣化している箇所がある。そこを探す。——あった。接合部の一箇所。流れが薄くなっている。そこに力を入れる。
回路が途切れた。
石扉がゆっくりと——重い音を立てながら——上に持ち上がった。
「開いた」
「上手ね。でも、また同じことが起きるわ。センサーを止めないと」
ルカが壁の方を見ていた。右の壁。さっき「見られている」と言った場所。
「あそこです。壁の、あの辺り。何かが——こっちを見ています。ずっと」
「見ている? 目があるのか」
「目……かは分かりません。でも、こっちに氣づいています。確実に」
「先に塞ぎましょう」
オリーゼが壁面を見た。苔の下。ルカが指した辺り。
「ヴァンさん。少し離れたところから、壁に向かって石を投げられる?」
瓦礫の中から手頃な石を拾った。ルカが指した場所を目で測る。——投げた。石が壁面に当たった。苔ごと窪みを覆うように、ずれて止まった。
……何も起きない。
壁に触れた。塞いだ場所の隣。魔探り。——回路が集中している箇所がある。壁の中から外に向かって、何かが繋がっている。
「回路がここに集まっています。外に向かって繋がっている。……たぶん、さっきルカが感じていたものの正体です」
「触らなくていいわ。塞いだまま進みましょう」
通路を進んだ。今度は石扉が落ちてこない。
「あの子がいなかったら、ここで足止めだったわね」
オリーゼが短く息を吐いた。
ルカは何も言わなかった。胸元の霊珠を握りしめていた。
◇
さらに下った。
空間が変わった。一氣に広くなった。通路ではない。——大きな通廊だ。天井が高い。灯りが届かない上に闇が広がっている。
壁面に文字が刻まれていた。大きい。金属板の文字と同じ系統のもの。——だが、規模が違う。壁面一面を覆うように、文字と幾何学的な紋様が並んでいる。
オリーゼが立ち止まった。壁を見上げている。長い間、何も言わなかった。
「……これは」
「何か分かりますか」
「文字と紋様が分離していないわ。普通、文字は文字、紋様は紋様として刻む。でもこれは——文字そのものが紋様になっている。文字を読むことと、何かを起動することが、同じ行為になるように設計されている」
オリーゼが壁面を指でなぞった。
「……読めたら、ここを丸ごと動かせるかもしれないわね」
オリーゼが壁面から手を離した。
「でも、今はやめておきましょう。何が起きるか分からない」
先に進んだ。大通廊が続いている。左右に小さな部屋が枝分かれしている。さっきの通路とは作りが違う。整然としている。崩壊も少ない。
歩いた。しばらく歩いた。
——何かがおかしい。
いや、何がおかしいのか分からない。体は動いている。足は前に出ている。呼吸も普通だ。でも、何かが——
「あの、ヴァンさん」
ルカの声。後ろから聞こえる。
「ん?」
「さっきから、ずっと右に曲がり続けてますけど……」
「え?」
立ち止まった。——分岐があった。右と左。俺は右に曲がろうとしていた。
考えてみる。さっきの分岐も右に曲がった。その前も。意識していなかった。足が勝手に——
立ち止まろうとする。止まった。——足がまた動く。前に。右に。
「……何だ、これ」
意識的に足を止めた。止まる。力を入れて止める。——足の裏が床を蹴りたがっている。前に行きたがっている。俺の意志じゃない。
「効いてきたのね」
オリーゼの声が静かだ。
分岐。オリーゼが通廊の先を見ている。
「右よ」
一歩踏み出しかけて、止まった。
「……いえ、左だったわ」
「珍しいですね。オリーゼさんが迷うなんて」
「ああ……効いているのね。少し」
オリーゼの顔は穏やかだった。パニックにはなっていない。でも、目の奥に今まで見たことのない——迷いがあった。
「ルカ」
オリーゼがルカの方を見た。
ルカは通廊の真ん中に立っていた。両手で胸元の霊珠を握りしめている。——目が揺れている。
「声は……こっちです」
左を指した。
「でも、体が行きたがるのは……あっちなんです」
右を指した。
「……方向が違うのか」
「ずっと、同じものだと思ってました」
ルカの声が震えていた。でも、目は逸れない。何かに氣づいた人間の目だ。
「でも……違います。声は、呼んでいるんです。体を引っ張るのは……呼んでいるのとは全然違うものです」
オリーゼが短く頷いた。
「……あの子の感覚を信じましょう。今はあの子だけが信頼できるわ」
ルカが先に立った。声の方へ進む。左。
俺の足は右に行きたがっている。意識的に左に向ける。重い。自分の足なのに、言うことを聞かない。
——谷の梟を思い出した。あの時は走りたくなった。怖かった。今は違う。怖くない。怖くないのに、自分の足が自分のものじゃない。
そっちの方が、質が悪い。
ネズミが増えてきていた。壁際を走る影が、一匹から三匹になり、五匹になり、十を超えた。群れのように壁面を這っている。全て同じ方向へ。俺たちが向かう方向ではない。別の方向。——もっと奥。
「……おかしいわ」
オリーゼが立ち止まった。ネズミの群れを見ている。
「全部、同じ方向に向かっている。何かに引き寄せられているわ」
ネズミたちは俺たちを無視していた。目の前を横切っていく。リュートが一匹を追いかけようとした。——首元に抱き着いて引き戻す。
「リュート、やめろ。食うな」
ルカが小さく笑った。——この遺跡に入ってから初めて見る表情だった。
ルカが立ち止まった。
「……あのネズミ、何か変です」
「どれだ」
全部同じに見える。灰色の小さな体。素早い動き。
「あの一匹だけ……見た目がズレているように見えます」
「ズレている?」
「上手く言えません。——あの一匹だけ、何か被っているような……」
ルカが指した方を見た。ネズミの群れの中に、確かに一匹いた。他と同じ大きさ。同じ色。同じ動き。——俺には違いが分からない。
近づいた。リュートを連れて。
そのネズミが動きを止めた。こちらを見た。——体が膨らんだ。
ネズミの姿が剥がれた。
裂けるように。中から別の生き物が現れた。——猫だ。ネズミの三倍ほどの大きさ。灰褐色の毛並み。黄色い目がこちらを一瞬見て、踵を返した。壁の隙間に消えていく。
敵意はなかった。逃げただけだ。
「擬態……ネズミに化ける霊法生物。ここの生態系はかなり複雑ね」
オリーゼが猫が消えた壁の隙間を見ている。
「ルカがいなかったら、分からなかった」
「……僕にも、どうして分かったのか分かりません」
ルカが自分の手を見ていた。指先。——何もない。でも、ルカは何かを見ている。自分の指先に。
先に進んだ。
空氣がさらに変わった。重い。粘る。呼吸が少しだけ重くなる。——匂いが混ざり始めた。石と苔の下から、別の何か。生臭い。生きているものの匂いだ。
◇
大きな空間に出た。通廊が終わって、広い部屋に繋がっている。——ここまでで一番広い。
壁の文字は、もう読む氣にならない密度だった。壁も天井も床も、隙間なく覆われている。
部屋の中央に、祭壇のような構造物があった。石の台。高さは腰の辺りまで。表面がすり減っている。長い年月、誰かがここに触れ続けた痕だ。
その奥に——階段があった。
さらに下へ。
階段の先から、空氣が違った。密度が違う。ここまでの空氣が水だとすれば、あの先は泥だ。重い。——そして、匂いが強い。生臭い。生きている匂い。
足が動いた。
前に。下に。行きたい。行かなければ。——
意識的に止めた。止まらない。脚に力を入れる。止まった。——また動く。右足が。
右足を見た。義足が前に出ている。止めたはずだ。止めたのに、体が勝手に次の一歩を踏み出そうとしている。
「——止まりなさい」
肩を掴まれた。オリーゼの手。強い。——引き戻される。
我に返った。
俺は階段の二段目に立っていた。いつ降り始めた? 覚えていない。
「……すみません」
「謝らなくていいわ。意志で止められないものよ」
オリーゼの声は穏やかだった。でも、肩を掴む手は離さない。
ルカが階段の縁に立っていた。下を見ている。——目が大きく開いている。
「声が……はっきり聞こえます」
声が震えていた。
「この下です。……すごく近い」
オリーゼが階段の先を見ていた。目を細めている。
「何かいるわ。大きい」
「見えるんですか」
「見えないわ。でも、空氣で分かる。……三百年も生きていれば、なんとなく分かるようになるのよ」
リュートが唸っていた。低い音。尻尾が下がっている。——警戒している。
動物の方が正直だ。俺の体は行きたがっている。行きたくてたまらない。足が階段を降りたがっている。——でもリュートは警戒している。どちらが正常だ。
ルカの胸元。
ネックレスの霊珠が明滅していた。微かな光。ゆっくりとした、規則的な脈。——いや、ルカの脈じゃない。もっと遅い。もっと大きい何かのリズムだ。
ルカが自分の胸元を見下ろした。——今度は氣づいている。
「……光ってます。前より強い」
「そうね」
オリーゼがルカの霊珠を見ていた。何かを確認している目だ。
「……ここにいます」
ルカが言った。下を見ている。暗い。何も見えない。
「この下に。とても——大きいです」
沈黙。
階段の先から、微かな振動が伝わってきた。足の裏から。石の床を通じて。
心拍のような。ゆっくりとした。巨大な何かの——拍動。
階段の先を見下ろした。闇だけがある。
——奥に、何かがいる。
深淵での生活、四十八日目。
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第17話「閉じた扉と、動く足」 ―― 了 ――
【あとがき】
ネズミに化けていた霊法生物の猫は、遺跡内の食物連鎖で、ネズミを効率的に捕食するために霊法による擬態を会得したのだろう。
敵意はなく、ルカに正体を見抜かれて即座に逃げた。
なお、リュートは食おうとした。こいつに遠慮という概念はない。




