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深淵に住む魔女 ―アノンノア天則―  作者: 久和調


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第18話「脈打つ壁と、冷たい石」

「降りましょう」


 オリーゼが階段の先を見ていた。ルカが小さく頷いた。


 階段の先は暗い。灯りの光がぎりぎり三段先まで届いている。その先は闇だ。


 足が動いていた。半分自分の意志で、半分——自分の意志ではない何かで。行きたいと思っている。行かなければならないと、体のどこかが勝手に決めている。


 ルカの胸元の霊珠が明滅していた。脈。ゆっくりとした、規則的な脈。——あの拍動と同じリズムだ。下から伝わってくる振動と。


「声が……呼んでます」


 ルカの声が震えていた。怯えている。それでも目は下を向いている。声のする方を。


 リュートの尻尾が下がっている。低い唸り声が途切れない。


 一段降りた。


 壁に手を触れた。魔探り。——回路がある。今までと同じだ。壁面に張り巡らされた、古い回路の残留。だが。


 信号が弱い。


 上の階よりも明らかに弱い。何かに覆われている。壁の表面に、石とは別の層がある。指先で撫でる。——湿っている。苔ではない。もっと生々しい。


 もう少し降りる。回路はまだ感じる。だが弱くなっていく。壁の表面を覆う何かが、厚くなっているのだ。


 手触りが変わった。


 石壁の硬さが減っている。表面に、柔らかい何かが貼りついている。指で押すと、ほんの少しだけ沈む。——弾力がある。


 匂いが濃くなった。石と苔の匂いとは違う。もっと温かい。生きているものの——


 ……生きている?


 壁が、脈打ったような氣がした。


 ——氣のせいだと思いたかった。でも足は止まらない。降りたい。もっと深くへ。その衝動が、さっきから少しずつ強くなっている。怖くない。——なんでだ。こんな場所なのに。


 階段が終わった。


 広い空間に出た。天井が見えない。灯りの範囲だけが世界で、その外は闇だった。


 足の裏が沈んだ。


 石ではない。力を抜くと、少し戻ってくる。——弾力がある。踏み直す。靴底の下で、何かが潰れる感触がした。苔でも菌類でもない。もっと厚い。もっと——


 名前が出てこない。知っている何かに似ているのに、頭がそれを拒否している。


 魔探り。


 ——何も感じない。


 壁にも、床にも、回路の残留がない。ここまで降りてくる間にずっと感じていた信号が、完全に消えている。覆われている。


 魔探りが使えない。手がかりが一つ減った。


 リュートが低い唸り声を上げた。俺の横に立ったまま、前方の闇を睨んでいる。


「ルカ」


 ルカの目が動いた。何かを見ている。俺には見えない何かを。


「ここです。この部屋の中に——」


 声が途切れた。


 灯りを上に向けた。


 ——天井だと思っていたものが、動いた。



 ◇



 目が追いつかない。


 天井ではなかった。暗い灰色の、巨大な何かの表面だった。灯りの光が届く範囲で、ゆっくりと膨張し——収縮している。呼吸のような。


 壁も。


 振り返った。入ってきた方の壁面。——同じだ。石壁を覆うように、何かが広がっている。湿った、柔らかい。さっき階段で触れたのと同じ手触りの、あれの延長。


 床も。


 足の下も。全部。


「部屋の中にいるんじゃない。部屋がこいつだ」


 それは部屋の中央にいるのではなかった。部屋そのものだった。壁面を覆い、天井に張りつき、床を埋め尽くしている巨大な軟体の——生き物。遺跡の一室に癒着して、部屋全体が体の延長になっている。


 全体像が見えない。灯りの範囲では、体表の一部分しか照らせない。ただ、ゆっくりと膨張し、収縮しているのだけが分かる。しかもそのリズムが、あの拍動だ。足の裏から伝わってきていた巨大な鼓動。——こいつの心拍だった。


 足が止まらない。


 前に出ようとしている。こいつの方に。こいつの体表に触れたい衝動が、頭の中ではなく足の裏から来ている。——行きたくない。なのに、体が言う事を聞かない。


「止まりなさい」


 オリーゼの声が硬い。


「これは霊法よ。誘引——感覚を置き換えて、近づきたくさせている」


「分かっています。分かっているのに、足が——」


「意志では止められないわ。だから、別の方法で」


 オリーゼの目がルカの胸元に向いた。


 ルカの霊珠が明滅している。強い。先ほどよりずっと強い。——あの拍動と、干渉し合っている。こいつの心拍と、ルカの霊珠の脈。波が重なるように、打ち消すように。


「ルカ、それを強く握りなさい。……少しだけ、楽になるはずよ」


 ルカが両手で霊珠を握りしめた。


 ——足が軽くなった。


 止まれる。完全にではないが。——止まれた。


「……ルカだけが怖がっているのね」


 オリーゼが低い声で言った。


「あなたも私も、もう怖いという感覚がない。でもルカだけが怖い。——それが正常な反応よ」


 ルカが何かを指した。こいつの体の、一部を。俺には何も見えない。灯りの光で照らされた、巨大な軟体の表面。それだけだ。


「あの中に……声がします。奥の方。体の中の——あそこです」


 魔探りでは何も分からない。灯りで見ても、ただの肉壁だ。ルカの声だけが頼りだ。


 ルカにしか、見えない。



 ◇



 オリーゼが生き物を見ていた。長い沈黙。視線が巡っている。考えている。三百年の経験が、今この場所で何が起きているのかを推測している。


「ルカ。声はまだ聞こえている?」


「……はい。ずっと。あの辺りから」


 沈黙。


「……この生き物は霊法生物よ」


 オリーゼの声が静かだ。


「霊法を使っている以上、体の中に霊珠がある。……でも、ルカに声が聞こえるということは、この生き物の霊珠とは別に、もう一つあるかもしれない。声の主の霊魂が入った霊珠が」


「……声の正体が、それですか?」


「確証はないわ。でも、辻褄は合う。ルカにだけ声が届く理由も——」


 少し間があった。


「無理に戦う必要はないわ。あの中にある霊珠に辿り着ければいい。……ただ、私にもヴァンにも、霊珠がどこにあるかは分からない」


「……ルカにしか」


「ルカ。声のする方を、ずっと教えて」


「……はい」


 ルカが声で方向を教える。俺が近づいて霊珠を取る。オリーゼとリュートが護衛する。——計画はそれだけだった。


 足が前に出た。


 今度は、利用する。どうせ誘引で体が前に出たがっている。抵抗しなければ自然に近づける。——ルカが霊珠を握りしめているおかげか、意識だけは保てた。


 こいつの体表に触れた。


 温かい。湿っている。指先が沈む。生きている手触り。——ここにあるのは全部、一つの生き物の体だ。


 反射的に魔探りをかけた。——何もない。ここでも同じだ。


「ルカ、もう少し詳しく教えてくれ。もっと右か、左か」


「……こっちです。もう少し低い、です」


 ルカの声だけを頼りに、手で体表を探る。上下に。左右に。何を探しているのかすら手触りでは分からない。冷たいのか硬いのか、魔探りが効かない以上、触らなければ何も分からない。


 もう少し。もう少し深く。


 手を押し込もうとした。体表の下に——


 瞬間、こいつが動いた。


 収縮。


 体全体が一斉に縮んだ。足の下の床が、壁が、天井が——全部が動いた。


 何かが伸びてきた。壁面の一部が管状に突き出して、腕に巻きつこうとする。——反射的に手を引いた。間に合わない。管の先端が手首を掴もうとした、その瞬間——


 リュートの前脚が光った。


 橙色の体液が飛散する。管が根元から切断されていた。リュートの爪。


 こいつが暴れ始めた。


 部屋全体が振動する。壁が波打つ。天井が揺れる。床がうねる。——こいつの体の一部だ。部屋全体が暴れている。


 誘引が急激に強まった。足が前に引っ張られる。ルカの霊珠が激しく明滅している。光の脈が速い。


「やはりこうなるわね」


 オリーゼの声は落ち着いていた。


 管が伸びてくる。壁面から。天井から。複数。太いもの、細いもの。先端が開いている。——口だ。管状の口器。捕食のための器官。


 右足で蹴り上げた。靴底が管の側面を捉える。地で踏み込んだ衝撃が管を弾き、千切れた先端が壁面に叩きつけられた。


 振り向きざまにもう一本。左から来ている。——リュートが先に噛みついている。前脚で押さえ、爪で引き裂く。橙色の体液が散る。


 オリーゼが左手を壁面に向けた。


 触手の表面が白くなった。色が抜けていく。触手が根元から崩れ落ちた。——白い粉と橙色の液体が床に散らばる。


 だが、こいつは止まらない。


 焼いた端から、別の場所で新しい管が伸びてくる。壁が動く。天井が動く。床が盛り上がる。——一部を壊しても、他から再生する。


 しかも、管がオリーゼの腕を見ている。攻撃の直前に引っ込んで、別の角度から出てくる。


 読まれている。



 ◇



 時間が経っていた。どれだけかは分からない。


 靴底が体液でぬるつく。息が上がっている。指先が冷たい。あと何回蹴れるか——ゼクトの声が頭の中にある。「残り二発は絶対に残せ。どんな状況でもだ」。


 リュートが炎を吐いた。壁面の管を焼く。だが巨体のほんの一部分しか焼けない。


 オリーゼの魔法で触手を落とせる。だが本体に届かない。管の動きが巧妙すぎて、オリーゼの攻撃タイミングを読んでかわす。通常の生き物の反射ではない。先読みしている。


「長引くと不利よ。このまま削り続けても、先に私たちが保たないわ」


 オリーゼの声が冷静だ。


「霊珠を抜ければ、霊法が止まる。……本来ならこの生き物の霊珠を抜きたい。でも——ルカ、誘引の元がどこから来ているか、分かる?」


「……全部です。部屋中から来ています。場所が——分からないです」


「でしょうね。——声の方は?」


「声は……あそこです。さっきと場所が違う。……動いています。でも、声はこっちに来たがっている。——僕が呼んだら、もっと近くに来るかもしれません」


「なら、声の霊珠を取りましょう。抜いた後の方が、戦いやすくなるかもしれない」


 他に手がない。


「ルカ。呼べ」


 ルカが目を閉じた。霊珠を握りしめる手が震えている。


「……こっちです。こっちに来てください」


 小さな声だった。部屋の暗闇に吸い込まれるような、細い声。


 しばらく何も起きなかった。管が暴れている。リュートが唸って燃やしている。オリーゼが一本、二本と落としている。


「……来ています」


 ルカの声が変わった。


「近づいてきています。もっと手前に。……あの辺り。壁の——あそこです」


 ルカが指さした方向。壁面の一部。——俺には何も見えない。見えないものを、見えない場所から取り出さなければならない。


「行きます」


 足を踏み出した。管が来る。右から。——左足で蹴り上げた。靴底が管の側面を打つ。もう一本。リュートが咬みついて引き千切った。


 壁面に近づいた。体液で滑る。


「オリーゼさん」


「ええ」


 オリーゼが左手を壁面に当てた。——体表が白くなる。崩れる。分解。こいつの体に、道が開いた。


「ルカ! 方向!」


「もう少し右です。……もう少し下。——そこです!」


 腕を突っ込んだ。


 生温かい。ぬるぬるする。体液が腕を覆う。肘まで入っている。——嫌な手触りだ。柔らかい。重い。動いている。中で何かが脈打っている。


 見えない。手の感覚だけだ。


 こいつが収縮した。腕を押し返そうとしている。締まる。痛い。リュートが咆哮した。炎が壁面を焼く。——少しだけ力が緩んだ。


「ルカ!」


「あと少し右……そこ……!」


 何かに触れた。


 冷たい。


 硬い。周囲の肉とは全く違う。小さい。丸い。——これだ。


 掴んだ。


 引く。体液がまとわりつく。腕全体にぬるぬるした液が絡みつく。こいつの体が収縮して、抵抗する。離すまいとしている。


 リュートが吼えた。喉が赤く光っている。炎がこいつの側面を焼いた。体表が痙攣する。——今だ。


 ——引き抜いた。


 腕が体外に出た。体液で濡れている。肘から先が橙色にまみれている。生臭い。


 手の中に、小さなものがある。


 丸い。冷たい。硬い。——あの巨体に、これだけのものだ。


 こいつの動きが変わった。


 管がまだ暴れている。だが——さっきまでと違う。パターンが変わった。無軌道。ただ暴れているだけだ。


 オリーゼが目を細めた。


「……さっきまでの賢さがない」


「誘引は——まだ来てます」


 足が引っ張られる感覚はまだある。前に出たい衝動はまだある。


「誘引はこの生き物本来のものみたいね。でも、これなら——」


 オリーゼが一歩前に出た。


 左手で、こいつの本体に直接触れた。


 ——音がした。


 乾いた、何かが罅割れるような音。触れた場所から色が抜けていく。表面だけじゃない。中まで。さっきの触手とは規模が違う。崩壊が手のひらを中心に広がっていく。


 管が来る。——だが遅い。さっきまでの先読みがない。ただの反射。動きが単調で、避けられる。


 オリーゼの左手がこいつの本体を撫でるように移動する。触れた場所から白い崩壊が広がっていく。ゆっくりと、しかし確実に。


 こいつが暴れている。壁が波打ち、天井が震え、床がうねる。だが、知性のない暴れだ。パターンが読める。リュートが噛み千切る。俺が蹴り落とす。その間にオリーゼの手が進んでいく。


 拍動が弱くなっていた。


 足の裏から伝わる振動が小さくなっている。心拍が遅くなっていく。体液の循環が——止まりかけている。


 崩壊が広がっていく。白い。もう半分以上が白くなっている。


 拍動が——遅くなる。


 もっと遅くなる。


 ……止まった。


 部屋が静かになった。



 ◇



 足が軽い。


 立っているだけだ。ただ立っている。——それだけのことが、こんなに楽だと思わなかった。前に行きたいという衝動がない。足が勝手に動かない。自分の意志で止まれる。


 久しぶりの感覚だった。


 リュートが唸り声を止めた。鼻先を俺の腕に押しつけてきた。尻尾が一回、二回、揺れた。——よくやった、と言っている顔だ。


 右腕が体液で濡れている。橙色。生臭い。冷たくなっていく。


 手の中の霊珠を見た。体液を袖で拭った。——ただの石にしか見えない。


 魔探りで触れてみた。


 何も分からない。魔法的な構造がない。ただの石と変わらないように見える。


「ルカ」


 ルカが座り込んでいた。膝を抱えている。


「……終わった、んですか」


「終わった」


 ルカは泣いてはいなかった。だが——何かを受け止め切れていない顔をしていた。


 こんな小さなものが、ルカをここまで導いた。


「これが声の元だ」


 ルカに霊珠を差し出した。ルカが顔を上げる。


「……もらって、いいんですか」


「声の元がこれなら、お前が持つべきだろう」


 ルカが両手を差し出した。手が震えている。


 霊珠を渡した。ルカの手のひらに、小さな石が載った。


 瞬間——ルカの目が見開かれた。


「……聞こえます」


 声が震えていた。


「今までとは全然違う。……言葉は分からないです。でも、強い。すごく強い」


 ルカの手が震えている。霊珠を握りしめる。


「怒っている……ような。待っていた……ような」


 ルカが霊珠を両手で包み込んだ。目を閉じる。何をしようとしているのか、ルカ自身も分かっていない顔だった。ただ——声に応えたかったのだと思う。


 ——ルカの体が強張った。


 霊珠が光った。ルカの手の中から淡い光が溢れ、体全体を包み込むように広がった。


 髪の色が変わった。淡い水色が、灰白に。顔立ちが変わった。少年の丸みが消え、彫りの深い、年を重ねた男の輪郭になっている。目が開いた。——深い藤色の、鋭い瞳。


 一歩引いた。


 オリーゼが息を呑んだ。


「——顕霊? 祈祷なしで?」


 口が動いた。ルカの声ではなかった。低い。やや枯れた、年を重ねた男の声。


「……ああ。やっと——」


 目が動いた。周囲を見ている。光源を見た。天井を見た。壁を見た。崩壊して白くなった肉壁の残骸を、見渡している。


 何かを認識しかけている。——しかし。


 霊珠が一瞬光った。灰白の髪が水色に戻り、顔が——ルカに戻った。体が傾いた。膝が折れる。顔面蒼白。——限界だ。


 オリーゼが支えた。


 ルカの目が、焦点が合わなくなっている。混濁している。


「……何か……あった。頭の中に。……分からない」


 ルカがそれだけ言って、崩れた。オリーゼが抱きとめる。


「オリーゼさん、今のは——」


「……祈祷なしの顕霊。普通はありえないわ」


 オリーゼがルカの額に手を当てていた。脈を診ている。


「この子の三霊紋と、あの霊珠の間に、よほど強い共鳴があるのね」


 ルカの手から霊珠が転がり落ちていた。拾い上げた。冷たい。静かだ。さっきルカが触れていた時の、あの強い反応が嘘のように。


「あの声の主が何者か、確かめたいわ。もう一度顕霊させる必要がある。今度は——きちんと準備をして」


 オリーゼが立ち上がった。


 壁の隙間から、何かが動いた。小さい影。灰色の。——素早い。壁面を走って、崩壊した肉壁の裂け目に消えていった。


 ネズミだ。


 こいつが死んで、残骸にネズミが群がり始めている。


 振り返った。白く崩壊した肉壁の残骸が、灯りの光の中で静かに乾いていた。もう動かない。拍動もない。ただの残骸だ。


 ルカを背負った。小さい。軽い。十五歳の体だ。


 オリーゼが先に立ち、階段を上った。


 有機物の層が薄くなっていく。石壁が戻ってくる。——魔探りに、反応が返ってきた。ただの石と、ただの古い回路。それだけのことが安心する。


 上の階に出た。光が明るくなった。空氣が変わった。湿っているが、あの匂いはない。


 リュートが一度だけ振り返った。階段の下——闇の中を見ていた。それから、前を向いた。尻尾が低い位置で揺れている。


 深淵での生活、四十八日目。


 まだ終わっていない。


---


第18話「脈打つ壁と、冷たい石」 ―― 了 ――


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