274 有栖川をたずねて三千里(2)
横浜発、シンガポール着のクルーズ船に乗り込んだ。
いのりが展望デッキへとダッシュしていき、太平洋に向かって胸を張る。
「我こそが我が運命の支配者なり!」
太陽に向かって拳を突きあげる。
「我こそが我が魂の統率者なり!」
胸に向かって拳を振り下ろす。
セリフはイギリス詩人W.E.ヘンリーから借りたやつで、気合いを入れるルーティーンみたいなやつだ。
映画の主人公がやると格好いいかもしれないが、女の子がやると野蛮な感じがする。
「やった! やった! 憧れのクルーズ船だよ!」
「二週間以上の船旅だからね。はしゃぎすぎるとバテるよ」
念のため荷物にはマスクを30枚入れてある。
過去に新型ウイルスが大流行したとき、アジアの主要都市でマスクが供給不足になり『旅行のお供にマスクを』みたいな風潮が生まれてしまった。
(ガイドブックにそう書いてある。現地でマスク調達できません、売り切れています、とのこと)
「二週間以上、マサくんと同室だね」
「そうだね」
「何か起こるかな?」
「何かって何が?」
「男女が同衾するといったら、アレしかないよ!」
「……」
「夜のプロレス!」
「それって……」
「布団の奪い合いだよ! 限られた陣地を巡る二週間の攻防!」
昔からちょっと天然だからな。
『夜のプロレス』で検索して大赤面するオチになりそう。
「私がマウントを取ってやるのじゃ〜♪」
「それ、本気でいってる?」
「うんうん、こう見えても寝技には自信があるんだよね〜♪」
胸を揺らしながら力説するなんて、可愛すぎて食べたくなっちゃう。
「いのりは主導権を握りにいく派? それともカウンターを狙いにいく派?」
「馬乗りになって主導権を取りにいく! マサくんを降参させてやるぜぃ!」
男を悩殺させるための発言じゃないか。
……。
…………。
シンガポールの海の玄関口、マリーナ・サウス・ピアについた。
東南アジア特有の湿っぽい空気を肺いっぱいに吸い込む。
肌にまとわりつくような湿気は沖縄に似ている。
適当にタクシーを一台つかまえた。
「……6 Scotts Rd……」
これだけで目的地が伝わるようだ。
シンガポールの住所は短い。
「都会だけど、のどかだね」
「なんか人の動きがゆったりしているね。東京人ほど忙しくなさそう」
たくさんの肉体労働者が木陰で居眠りしていた。
休憩時間なのだろう。
ぼんやり音楽を聴いている人もいる。
「昔ながらの家は色とりどりだ」
「プラナカン文化というのかな?」
タクシーはシンガポールの都心部に入っていく。
周りは高層ビルだらけ、道路も渋滞気味になってきた。
「やっぱり日本車が多いね」
「日本にいるような安心感だよ。あそこも日本企業の広告だよ」
シンガポールの人口は年々増えており、もう600万人を突破している。
在シンガポール日本人も増加傾向にあり、4万人ほど生活しているらしい。
日本発の飲食店や小売店が大健闘しているようだ。
「ついた!」
43階建の高級集合住宅に到着。
フロアのところで出迎えてくれたのは、カーディガンにかかる茶髪をウェーブさせた女性。
アーモンドのような瞳と果実をつめたような胸元がセクシーだ。
「あすか!」
「ようこそ、いのり、須田ちゃん。迎えに行けなくてすまない。この子がいるから」
そういう神宮寺の腕には、生後三ヶ月くらいの赤ちゃんが抱かれている。
神宮寺クレアちゃんという女の子。
もちろん神宮寺と姫井の子だ。
イエローベースにブルーが入った瞳をしている。
髪色は明るい茶髪といった感じ。
頬っぺたプニプニしてくるいのりを、クレアは不思議そうに見つめている。
「次の子がお腹の中にいるんだよね」
「うん、妊娠一ヶ月だからね。初期症状みたいなやつがあるかないかってレベルだけれども」
「おおっ! マタニティだ! あすかがお母さんになった!」
「恥ずかしいから……住人もいるし……」
42階の部屋を住居兼オフィスにしているらしい。
フィリピン人のメイドさんが一名、シンガポール人のアシスタントが二名、出入りしている。
「いのりはお酒飲めるの?」
「うん! どんと来いなのです!」
「一日一杯だけならね。三杯くらい飲むと道端でも寝るから」
いのりが、あちゃ〜、といって顔を赤らめた。
一滴も飲めなかった昔に比べると、かなり成長した方だ。
「すごい! 物件にジムとプールがついている!」
「滅多に利用しないんだけどね。ゆり姫がここの立地を気に入ってね」
「気になるお家賃は100万円!」
「あ〜、そうだね〜、シンガポールは物価が高いから。東京が安く思えるよね。そもそも物価が下がるって感覚が、こっちの人は理解できないような……」
クレアちゃんをメイドさんに預けて、ホテルのバーへ向かった。
ご当地カクテル、シンガポール・スリングを注文する。
世界一美しいというシンガポールの夕焼けを模したカクテルらしいが、神宮寺いわく、開発が進みすぎて東京の夕焼けと変わらないらしい。
バーの中は欧米人が多かった。
イギリス統治時代の名残で、どこでも英語が通用するから、バカンス先として人気なのだ。
「カクテル一杯が3,000円だとぉ! マジかぁ!」
「観光客向けだからな……」
日本では850円のラーメンも、こっちで食べたら2,200円くらいする。
アルバイトの時給は日本と変わらないので、お金に余裕がある人をターゲットにしているのだろう。
「姫ちゃんはいまどこに?」
「こっちの暑さにダウンして、避暑のためヨーロッパにいる」
「いいの? 別々でも?」
「いいんだよ。昔から我がままだから。あと仕事も一枚噛んでいる。どうしてもヨーロッパじゃないとダメなんだってさ」
「???」
神宮寺にガイドしてもらって、動物園や植物園をめぐった。
どこも屋内は涼しくて、夏バテのような症状にかかることもなかった。
「ねぇねぇ、あすかってお乳は出るの?」
「はぁ⁉︎」
「チュウチュウ、チュウチュウ」
「やめろ! 本当に出るから!」
「一万円あげるから。ね?」
「悪いな……クレアとゆり姫専用なんだ」
「が〜ん!」
「いのりは何歳になってもいのりだな……」
「飲めると思ったのに……」
いのりと神宮寺は本当に仲がいい。
古風に表現するなら、竹馬の友だろうか。




