272 八年後 〜ワトソンとの別れ〜
遠い夢を見ていた。
まだ小さい会社で働いていた夢。
俺はパソコンに向かってソースコードを打ち込んでいる。
隣には神宮寺がいて、考え込んでいる顔つきで缶コーヒーを飲んでいる。
向かいの席には加賀美がいる。
電話で話しているのだけれども、夢の中では、いつも龍造寺が相手と決まっていた。
少し離れた位置には雪森、奈良橋、有栖川がいる。
姫井が新キャラのラフスケッチを持ってきて、コンセプトを三人に説明していた。
「マサくん! ランチにいこう!」
いのりが後ろから抱きついてくる。
当時は社長と呼んでいたのだけれども、会社を畳むことが決まって、いのりと呼び捨てにするよう約束した。
「久しぶりに北海道&沖縄料理のお店にしますか?」
「うん! 私はスープカレーにしよう!」
オフィスを出るとき休憩エリアをのぞいた。
スカイブルーのスーツを着た女の子が、あおむけに寝転がって、静かに本を読んでいた。
本のタイトルは『オオカミ王ロボ』。
イギリス出身の博物学者、アーネスト・トンプソン・シートン著。
「それ、悲しいお話ですよね」
「そうね。ロボは害獣なのにね。死ぬシーンは辛いわね」
「どうして名作なのでしょうか?」
シイナは本を畳んでこっちを向いた。
「人の罪深さ。生命の美しさ。狼の気高さ。三つのテーマが、自然への愛をベースとして、完ぺきなバランスで調和しているから。100年以上前のアメリカ人が、狼の死で涙することを証明したのは、とてつもない偉業だと思うの」
ロボは仲間想いのリーダーだった。
作中のどんな人間よりも勇敢で格好よかった。
「狼にも人格はあるのですね」
「人格はあるわ。ペットの猫にもね。名前を与えられた個体にはね」
俺はうなずく。
「生きているうちに、せいぜい可愛がってあげることね」
そこで夢は終わった。
……。
…………。
白衣を着た獣医さんから声をかけられた。
診察台の上には眠そうなワトソンがぐったり横たわっている。
「老衰ですね。お食事の量は?」
先月よりもたくさん残すようになったことを伝えた。
呼びかけても反応が薄いとか、睡眠時間が長くなったとか、下痢をすることが増えたとか、人間のお婆ちゃんと似たような現象が起きている。
ワトソンも19歳が近い。
人間でいうと100歳超だ。
「お注射を打っておきますね」
針が刺さってもまったくの無反応。
獣医さんの腕がいいのか、ワトソンの痛覚が鈍っているのか。
眠そうな表情をしている。
でも、本当はどこか痛いのかもしれない。
注射が終わったあと、いのりが愛猫の名を呼ぶ。
ピクリと前脚が動く。
(早くお家に帰りたいにゃ)
そう訴えたように思えたし、
(最初の飼い主に……京都のお婆ちゃんに会いたいにゃ)
と訴えたようにも思えた。
ちなみに前の飼い主は六年前に亡くなっている。
老衰死だったと教えてもらった。
決断の時がやってきた。
ワトソンを家で看取るのか。
もしくは病院で点滴を受けさせるのか。
ワトソンの気持ちは分からない。
どっちの方が楽なのか、いくら考えても答えが出ない。
「家に連れて帰ります」
いのりが絞り出すような声でいった。
ワトソンと出会って八年と数ヶ月。
いのりは大人と呼べるほど背が伸びて、ワトソンは仔猫みたいに軽くなった。
……。
…………。
ワトソンは食い意地が張った猫だった。
安っぽい餌には振り向かないが、高級そうな餌なら喜んで食べる。
チュールを大量に買ってきた。
あれから数日観察してみた結果、仔猫用のチュールならペロペロと平らげてくれた。
もし俺たちの作戦を知ったら、
(赤ちゃん飯を食べさせるとは、失礼な飼い主だにゃ)
と怒るかもしれない。
いのりの在宅勤務をカノープスに申請しておいた。
ペット好きの流川だからこそ、こんな我がままが許された。
「いってきます」
一人で渋谷へ向かう。
首から社員証をぶら下げる。
こんな俺だけれども、シニアリーダーという地位を与えられ、20代の後輩を5名ほど指導している。
神宮寺や加賀美に育ててもらった経験が、先輩の立場になった時は役に立った。
カノープスはびっくりするほど巨大な組織になっていた。
社員数は2,500人超え。
いくつも子会社があり、人工知能やVRAR分野では、日本一頭がいい大学生が、毎年インターンシップに応募してくる。
瀬古コンツェルンの財政力と政治力を利用できるから。
それが巨大IT企業と伍していける理由だった。
その昔、幼TECとして持て囃された会社は、もうカノープスしか生き残っていない。
8割は倒産し、2割はどこかへ吸収された。
『夏草や 兵どもが 夢の跡』という松尾芭蕉の俳句が思い出される。
サラリーマンの大部分をカノープスで過ごし『327』という比較的古い番号を持つ俺も、カノープス戦士の一員なのかと思うと、複雑な心境である。
「ただいま」
いのりがソファで寝ている。
ワトソンも膝の上で寝ている。
テーブルの上には二人分の料理があり、シンクの蛇口から、ポツリ、ポツリと水滴が落ちている。
「おかえりなさい」
いのりが目を覚ました。
「ワトソンは?」
「今日はね、昨日よりも元気だったよ」
ワトソンがモゾモゾと動く。
「いのりの企画、流川さんのOKが出たってさ。来週からプロジェクトチームが発足するよ」
「むっふっふ。スーパーガールいのりちゃんが本気を出せば、こんなの朝飯前なのです。企画を通すコツは、理屈じゃなくて熱意に訴えることさ」
「さすがだね。最強の平社員の名は伊達じゃない」
つややかな黒髪をなでてあげる。
「えへへ」
と少女のような笑い声がした。
……。
…………。
それから三日かけてワトソンは徐々に元気を取り戻していった。
かつて大好きだった猫じゃらしにも興味を示した。
いのりが家にいるのが嬉しかったのだろうか。
一方、星が死ぬときのような、最期の輝きにも思えた。
そして四日目の明け方。
「うにゃあ!」
と隣で寝ていたいのりが叫んだ。
その背中を追いかけてリビングへと向かう。
「ワトソンが……ワトソンが……」
いのりが泣いていた。
幼女株式会社がなくなって以来、八年ぶりの涙だった。
ワトソンの体には温もりが残っている。
それなのに息をしていない。
「苦しかったのかな?」
「いや、俺にはそうは思えないよ」
ワトソンは幸せそうな寝顔のまま天国へ旅立っていった。




