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270 サラリーガール瀬古いのり

 年が明けて、1月3日となる。

 もこもこパジャマを着たいのりが、モゾモゾと寝床から出てくる。


「おはよう、いのり。今日も寒いね」


 恋人の体が温かくなるよう、ホットココアを淹れてあげた。


「……ねえ、マサくん」


 いのりはソファのクッションをつかむ。


 真上に向かってトス。

 からのジャンプキックで吹っ飛ばす。


「うおらぁ!」


 さらに追い打ちのかかと落としがクッションを変形させる。

 驚いたワトソンが、


(ご主人様がご乱心だにゃ!)


 とキャットタワーの中に隠れてしまった。


「なんでカノープスの仕事始めは1月3日なんだぁ!」

「いや……仕事が多いからでしょう……」

「普通は1月4日だろうがぁ!」


 クッションにパンチ、パンチ、パンチの拳打ラッシュ。


「カノープスはブラック企業かぁ!」


 社長をやっていた時は年中不休だったくせに。

 サラリーマンに成り下がった途端、この体たらくである。


「クッションに八つ当たりするなんて、お行儀が悪いよ」


 俺は怒りのお尻ペンペンをしておいた。


「私は提案するぞぉ!」

「ん?」

「1月4日を仕事始めとするよう、提案するぞぉ! 第二位の株主として強く求める! 1月3日は緊急時のトラブル対応を除き、働くのは原則禁止! 居心地のいい職場になるよう、労働改革を起こすぞぉ!」


 よくいうぜ。

 昔は大晦日だろうが元旦だろうが嬉々として働いていたのに。

『立場が人をつくる』という言葉の意味をしみじみと考えさせられる。


「初出社すらしていないのに、提案もクソもないよ。とりあえず渋谷のオフィスへいって、流川さんとか、龍造寺さんとか、今日から同僚になる人たちに挨拶しよう」

「いやだ! いやだ! いやだ! いやだ! 出社したくない! 出社したくない! 出社したくない! なんで渋谷なんだよ! 人が多すぎるよ! 遊びにいくならまだしも、仕事で渋谷にいくとか、頭がおかしいよ! インフルエンザウイルスに感染しちゃうよ!」

「まあ……気持ちがわからんでもないが……」

「これはアレと一緒だ……平清盛に捕まってしまった源頼朝のごとき絶望感だ……大人しく仏門に入りたい……」

「頑張ってくださいよ、征夷大将軍」


 こりゃ、不登校になりそうな小学生だな。

 抵抗するようならタクシーにぶち込んで無理やり渋谷へ連れていくしかあるまい。


「あ〜あ、ヤダヤダ〜、捕虜のごとき身分だよ〜、幼コレも奪われたし〜、加賀ちゃんも奪われたし〜、お給料も激減するし〜、役職名とかないし〜、社員番号も三桁だし〜、マイ冷蔵庫もないし〜、クリスティナと遊べなくなるし〜」

「いやいや、望んで平社員になったのでしょうが!」

「ぐすん……嫌々だもん!」

「はいはい」


 頭をポンポンしてあげる。


「いのりちゃん」

「……」

「可愛いいのりちゃん」

「???」

「日本一可愛いいのりちゃん」

「あい!」

「お願いだから、朝ごはん食べて、出社する準備しようね」

「あい!」


 ちくしょう、可愛すぎるな。

 俺まで仕事をサボって遊びにいきたくなってきた。


「いま渋谷で大人気のプレッツェルらしいよ」

「おお〜」


 スマートフォンの画像を見せてあげた。


「こっちはちょっと前に流行ったフィナンシェね」

「おいしそう!」


 興奮して机をバンバンしている。


「こっちは昔から有名なカレーパンのお店だってさ」

「いいね!」


 帰りに買って食べてみよう、と約束した。

 これから毎日渋谷へいくので、お店を開拓するのも楽しいかもしれない。


「神宮寺さんと姫井さん、元旦から一緒に暮らし始めたってさ。今度、家にお邪魔してみよっか?」

「うんうん! 行く行く! 引っ越し祝いを持っていく!」


 社交性の塊みたいな人だから、すぐにカノープス社員と仲良くなって、渋谷へ行きたくない! なんて言わなくなるだろう。


 ……。

 …………。


 悲劇が起こったのは、入社から三日目のことだった。


「うわぁ! 地震だ!」

「震度2か震度3ですね!」


 パリンッ!

 給湯エリアでマグカップを観賞していた時、いのりが揺れのせいで手を滑らせて、誰かのを割ってしまったのである。


 ヒビが入った、なんてレベルじゃない。

 バラバラ殺人事件である。


「マサくん、どうしよう⁉︎」

「これはまずい……」


 砕けたマグカップの所有者が分からないのだ。

 向こうは社会人だから、マグカップ一つくらい許してくれるだろうが、こっちは新参者だから気まずい。


 飛び散った破片の中に名前らしい文字を見つけた。

『R.Hiiragi』


「ヒイラギ? 龍造寺くんだっけ?」

「……だね」

「流川からもらった思い出のマグカップだったらどうしよう……サッカーボールみたいにボコボコ蹴られるかも……」

「いや 、そこまで大切なマグカップなら自宅で使う気がする」


 トコトコと足音が近づいてくる。

 カノープスのナンバーツーが、まずは割れたマグカップを、続いて泣きそうな女の子を見つめた。


「……龍造寺くん……ごめんよ」

「別にいいっすよ。それより怪我は?」

「……うん……平気」


 (ほうき)とチリトリでさっさと床を清めていく。


「友人が、コンビニくじの余った景品とかで、10個くらいタダでくれたやつなので。売っても一個5円か10円だそうです。だったら、割れるまで使ってやった方が、マグカップの生産者も浮かばれるってやつでしょう」

「うぅぅぅぅ……」

「怒ってませんから。そんな顔しないでくださいよ」

「あぅあぅあぅ……でもぉ……」

「参ったな。私が瀬古さんを虐めちゃったみたいだ。アメ玉あげるから、今回のことは忘れるっすよ」


 やべえ……。

 龍造寺はムチャクチャ良い奴だった。


「龍造寺エグゼクティブマネージャー!」

「その役職名、恥ずかしいから嫌なんだよなぁ。テクニカルマネージャーの方が、まだしっくりくるというか……」


 フットサル大会の時はひたすら暴力的なイメージだったけれども、コートの外では人格者なんだなと、感心してしまう俺なのである。

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