268 十二月と退職金
あっという間に師走がやってきた。
もうすぐ一年が終わり、この会社が短い歴史に幕をおろす、運命の転換ポイントである。
街中には明るいクリスマスソングが流れている。
クリスマスケーキの予約ポスターを毎日のように見かける。
子どもたちがサンタにプレゼントをお願いし、恋人たちが聖夜に思い出を刻む、楽しい楽しいクリスマスシーズンの到来である。
俺はフライパンで二人前のハムエッグを焼いていた。
食パンの上にチーズをのせて、トースターで軽く焼いて、先ほどのハムエッグを重ねると、朝食の完成である。
自己流チーズ・ハム・エッグ・トースト。
字面からあふれる『ザ・タンパク質!』がすごい。
「いのり、朝ごはんができたよ」
「ほ〜い」
いのり。
下の名で呼ぶよう、今月から猛特訓中なのである。
来年からは『社長』=『流川マキ』になるから、今のうちに慣れておかないとね、という単純な話なのだが、これが本当にやりづらい。
「……いのり」
「ん?」
「……呼んでみただけ」
「うん」
「……いのりちゃん」
「あい!」
「ちゃん付けの方が嬉しいの?」
「こくこく」
「いのりちゃん」
「あい!」
「でも人前だと恥ずかしいな」
「むっふっふ」
慣れた呼び方を捨てるのは大変である。
いのり。
いのりさん。
いのりちゃん。
三パターンあるけれども、社長はどれで呼んでも嬉しそう。
「本当にタメ口じゃないとダメかな?」
「うん、来月からは単なる同僚になるしね」
「そっか……」
「嫌なの?」
「そうじゃないけれども……」
「マサくんはいい方だよ〜。私なんて、来年になっても、流川から『瀬古先輩』呼ばわりさせるからね〜」
「へえ……部下だろうが先輩は先輩ということ?」
「うんうん、先に生まれた事実は変わらない」
カノープス社内で会ったとき、
『お伝えしたいことがあるので、社長室まで来てくれませんかね、瀬古先輩』
と流川社長から声をかけられるわけか。
カノープス社員が嫉妬しそうだ。
「だから『瀬古さん』か『瀬古くん』と呼ぶよう変えないか、一度相談してみた」
「それは悪くないアイディアだと思うけれども」
「でも却下された。どうせ私がカノープスに籍を置くのは数年だけで、そのうち出ていくから、という理由らしい」
なるほど。
合理的な流川らしい。
「まあ、たくさん食って、たくさん背を伸ばして、さっさと独り立ちしろという意味だよ。おっ、半熟卵だ!」
卵の黄身がとろりと溶け出して、トーストの中に染み込むのが、いたくお気に入りなのである。
……。
…………。
「来年から〜、平社員〜♪ 来年から〜、サラリーマン〜♪ ぴっかぴっかの〜、子ども社員〜♪」
悲壮感あふれる謎の歌を、明るい声で歌いながら出社する。
自販機のところでホットドリンクを二本買い、その片方をプレゼントしてあげる。
今日は姫井から大切なお話があるらしい。
退職金について、とだけ聞かされている。
ケース・バイ・ケースなのだが、自分の会社がどこかに吸収されても、雇用関係はそのまま引き継がれるので、離職するのとはワケが異なる。
(履歴書に穴が開かない。俺は勤続三年目のサラリーマンとして来年からカノープスに登録される)
なので退職金をもらう権利なんて普通はない。
とはいえカノープスの退職金はカノープスが決める。
はっきりいうと、勤続10年未満とか15年未満とかで辞めた場合、スズメの涙くらいしか支給されない。
どうせ5年か10年したら、元幼女株式会社のメンバーは、半数以上がカノープスを去っているだろう。
だったら、幼女株式会社が生きているうちに退職金を出すべきでは? と姫井は考えたようである。
9時の始業時刻になる。
会議室に集まるよう声をかけられる。
姫井に呼び出されたのは、加賀美、奈良橋、雪森、有栖川、俺の五人。
二つの封筒がそれぞれに配られた。
小さい封筒。
大きい封筒。
「まずは小さい方から開けてください」
中から出てきたのは賞与の明細だった。
そっか。もう12月だから冬ボーナスの季節か。
過去にもらった最高額よりも一回り大きい。
自慢じゃないが、俺と同じ歳でこんな額をもらっているサラリーマン、日本には千人もいないと思う。
「最後のボーナスなので色を付けておきました。みなさん、過去最高の額だと思います。僕たちからの感謝の気持ちです。今まで一緒に働いてくれてありがとう」
姫井が不格好な笑顔をつくる。
元から笑わない人なので、社長や神宮寺がいないと相変わらず上手に笑えない。
「ボーナスは明日振り込まれます。そして大きい方の封筒ですが……」
幼女株式会社の株式を付与する旨が書かれていた。
つまり俺たちは自社の株主になった。
「株式や株主という言葉の説明は、時間がないので割愛します。気になる人は調べてください」
こっちが本当の退職金というわけか。
「もうじき幼女株式会社はなくなります。カノープスに吸収されます。その時、幼女株とカノープス株を交換することが、瀬古コンツェルンの仲介のもと、決定されています。みなさんは来年からカノープスの株主になります。株主名簿の上位に名が載るほどの大株主にはなれませんが、少なくないカノープス株が手に入ります」
経営陣で話し合った結果、
『一生遊んで暮らすには足りないが、何かを始めるには十分な資金』
が手に入るよう計算してくれたのだ。
もちろん、カノープスが経営破綻せずに、いつの日か株式上場すれば、という前提条件付きになるが。
「会社の吸収合併が起こるとき、心配されるのは吸収される側の社員のモチベーション低下です」
違ったコミュニティで、違ったメンバーと一緒に働く。
いくら同業とはいえ、心理的な抵抗がないといったら嘘になる。
不安の方が期待の10倍くらい強い。
「みなさんはカノープスのオーナー兼社員になります。カノープスの利益はみなさんの利益になるのです。だからカノープスが成長できるよう、カノープスが株式上場できるよう、来年からも頑張ってほしいのです。そのために具体的な利益が得られる手段を用意しました。幼女株式会社は、完全に消えるのではなく、カノープスの中で生き続けるということを、どうかお忘れなく」
自分だけじゃない。
カノープスが株式上場すれば、姫井や神宮寺が報われる。
瀬古いのりだって報われる。
新しいモチベーションを植え付けてくれた。
姫井には感謝の念しかない。
「僕が上司でいられる時間も少なくなってきましたね。今日も一日、業務をお願いします」
……。
…………。
姫井と少し立ち話した。
ハロウィンの日こそ神宮寺と大喧嘩したが、すぐに仲直りして、ラブラブの二人に戻ったようである。
「一足早いクリスマスプレゼントを神宮寺さんからいただきました」
嬉しそうに見せてくれたのは家の鍵。
姫井が渋谷へ通勤しやすいよう、新しい物件を見つけて、これから二人暮らしするのだ。
現在の家は今月いっぱいで引き払う予定らしい。
「須田くんたちは引っ越しなさらないのですか?」
「ええ、猫とメノウちゃんがいますし。愛着もありますし」
姫井と神宮寺の二人なら、この先何回喧嘩しようとも、同じ数だけ仲直りするだろう。




