125 喫煙コーナー
「私ってやつは……なんて役立たずなんだ!」
俺が缶コーヒーを手に喫煙コーナーへ向かったとき、仕事のことでしょげている幼女を見つけた。
喫煙者がめっきり減ったせいで、誰も使わなくなったこの空間は、ビルの中で一番落ち着ける場所なのである。
「加賀美さんでも荒れるのですね」
ポニーテールの人物がゆっくりと振り返る。
その頬には抓ったような赤い跡が浮いていた。
「陶器のように綺麗な肌なのに勿体ない」
「須田くん、いまその手の冗談は笑えないよ」
「とか、社長ならいいそうです」
「ああ……そうだね」
タバコの匂いがまったくしない喫煙所。
なんとなく心が落ち着く。
「俺は加賀美さんのこと、すごいと思います。今日だって一回の判断ミスもなかったので」
「ミスがないだけじゃ褒められないんだよ。ミスがなくて当たり前の業界なんだから。そういう意味だと、私は留守を預かる人間として失格だ」
そんなことはありません。
俺は口にしかけた軽はずみな慰めを飲み込む。
「私が神宮寺さんに劣るのは分かっていたよ。あの人は天才だから。でも社長にも技術者として劣るのか。向こうは社長業と二足の草鞋だから、色々とショックでね」
加賀美は本音を吐露しながらため息をついた。
「私って雑魚だなって。そう思わずにはいられないよ」
「それはないです。加賀美さんが雑魚なら、俺はクソ雑魚ナメクジの汚物くらいの存在になります」
「ああ……その手の冗談ならちょっと笑えるかも」
俺は缶コーヒーをそっと差し出した。
「当たりつき自販機で二本出たのです。もしコーヒーが嫌いでなければ、一本受け取ってください」
「そんなこといって、実はコーヒーを二本買っただけじゃないの?」
「バレましたか。さすが加賀美さんです」
「いい性格しているね」
加賀美の指がカチッとタブを持ち上げる。
「もしかして私を探しに来てくれたの?」
「缶コーヒーを二本持ったままウロウロするのは少し恥ずかしかったです」
「須田くんって本当に優しいな。私が受け持ってきた後輩のなかで一番かもしれない」
加賀美が吹っ切れたようにポニーテールの留め具を外した。
「私だけ十年後の体になれたら、本気で須田くんを口説いちゃう」
サラサラと流れる黒髪が光を怪しく反射する。
「……それは割と悩ましい提案です」
「社長がいるから?」
「はい、加賀美さんと社長の仲が悪くなったら俺は困ります」
「あっはっは! 須田くんって生真面目だね! でもその純真さが面白いよね!」
加賀美も少しは気楽になれただろうか?
笑いが戻ってきた横顔を見つめながら、俺はそんなことを考える。
「……秒で否定しろって」
「ん?」
「一分遅れになっちゃいましたが、否定しておきます。加賀美さんは役立たずじゃないです」
「私との約束を守ってくれるんだ。なぜ社長が須田くんを選んだのか、その理由がわかった気がするよ」
俺たちはほぼ同じタイミングで缶コーヒーの中身を飲み干した。
十秒ほど無言の空気が流れる。
加賀美は目の前の壁を見つめたまま……。
俺は軽くなった缶コーヒーのラベルを見つめたまま……。
この空間にピリオドを打つタイミングを探っている。
「戻りましょうか。きっと姫井さんが心細がって泣いています」
「その冗談は笑えるね」
加賀美の指がちょこんとシャツの袖をつまんでくる。
その衝撃はとても柔らかで、指先も震えていなかった。
「あとでボタンを直してあげるね。約束したから」
『幼女の争い醜い』
『足を引っ張り、隙あらば蹴落とす』
流川はそう吐き捨てていたのだが……。
幼女そのものは美しい生き物なんだな、と。
加賀美を見ているとそんなことを考えたくなる。
※ ※
次の月曜日の朝礼。
渋谷へのレスキューを完了させた社長と神宮寺が戻ってきた神田のオフィスは、メンバー八名が揃ったこともあり、どこか締まった雰囲気があった。
「……という方針で進めます。私からの報告は以上です」
社長の口からカノープスの置かれている現状が語られる。
「まさか土日まで駆り出されるとは思わなかったぜ。こうなるんだったら、もう少し受注の金額を盛っておくんだったな」
そういう神宮寺はお疲れの様子だ。
俺はチラリと隣にいる幼女を観察した。
すると加賀美もまったく同じタイミングで俺の方を気にしてきて、互いの視線がかち合い、恥ずかしいことをした気分にさせられる。
よかった。
先週のトラブルをもう引きずっていないようだ。
これからも平穏な毎日が続いていくだろうという俺の願いは、社長の口から飛び出した次の言葉によって、呆気なく打ち砕かれる。
「次のステップの話だけれども……」
ああ、忘れてた、と神宮寺も呟く。
「ガルメモが抱えている不具合について、優先度の高いものから潰していきます。これは時間との戦いなので、うちの会社から作業員を派遣することになりました。期間は五日間。人員は二名。龍造寺くんの指揮下に入ってもらいます」
ガルメモの設計ドキュメントが二冊。
まだ事情を飲み込めきれない俺と加賀美に渡される。
「我が社としても二名をロストするのは痛い。かといって、生半可なヘルプだと向こうに迷惑をかける。そこで加賀ちゃんとマサくんは五日間、渋谷での業務に専念してほしい」
社長としては最適解の人選のつもりだが……。
「ちょっと待ってください!」
いつもは従順な加賀美が声を大にして食いついた。
「どうして私と須田くんなのですか? 一言でいいので理由を教えてもらえますか?」
社長が三秒ばかり黙ったのは、言葉を選んだというよりも、加賀美の心情を探ろうと努力した結果だろう。
「マサくんの場合、体が一番丈夫で体力があるから」
まあ、これは妥当な理由だろう。
俺なんてこの会社じゃ体力お化けが取り柄といえる。
「加賀ちゃんの場合、あすかに次ぐ技術力があるから。それじゃダメかな?」
いつも謙虚な社長は自分の技術力を脇に置いた。
「わかりました。準備ができ次第、すぐにカノープスへ向かいます」
その理由はいまの加賀美にとって、この上なく残酷ともいえる。




