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54:結んだ糸は

 神社で、女性の参拝客をあしらって──いや、親切に案内していた美丈夫が、目の前にいる。黒い髪、切れ長の双眸、そして藍色の浴衣もあって肌は周りの女性よりも白く見える。

 役者のように人目を引く立ち姿なのだ。近衛の姿が周りから切り取られたように見えるのも頷ける。

「良いな、その浴衣。似合っている。ゆい──」

「待って、近衛さん、だめ」

「どうした」

「いつもどおり、名字で呼んでください。名前で呼ばれたら、多分もう無理です」

 名前で呼ばれるのはこれが初めてではない。だが、あの時と今は違うのだ。今は──。

「分かった、分かった」

 近衛は苦笑を浮かべて言う。

「花火大会なんて来たことがないから、わたしも浮かれているんだろうな」

 ただ浮かれているだけで、特別な理由はないから、と。それが事実か偽りかは分からないけれど。いや、事実は近衛が言ったことだ。浮かれているから、名前で呼んでみただけ。他に何の理由もない。

「あの、近衛さん。もうひとつ良いですか?」

「どうした?」

「どうして……人、の……姿なんですか」

「せっかくだから、大手を振って歩いたほうが楽しいだろう。あのままでは出店も楽しめんからな」

「まあ、確かに……」

 何か気になるものがあったとしても、結子を経由しなければならないのでは近衛も楽しめない。

「名前を呼べないのなら、せめてこれくらいは許してもらえないだろうか。

 そう言うと、近衛は結子の手を握る。いつもの姿と違い、少し温かい。

「いやいやいや、近衛さん、ちょっと」

「人混みではこうしていないとはぐれてしまうだろう?」

「でも、糸があるから──」

 はぐれたとしても、糸があるからすぐに見付けられるだろうに。

「この前もそう言っていたが──神崎ははぐれても糸を引かないだろう」

「そんなことありませんよ」

「ある」

「……どうしてそんなにきっぱりと断言できるんです」

 神使はそんな先読みまでできるのか。唇を尖らせながら訊ねる。

「何かあれば呼べと言ったのに、呼ばないだろう」

「それは──……何もないからで……」

 だから、呼びたくても呼べなかったのだ。それでも、何度となく糸を引こうかと思案していた現実があったから、言葉は尻すぼみになった。

「どちらにせよ、こうしていればはぐれることはないんだ」

 結ばれた手が解かれることはなかった。


 人混みを縫いながら、とりどりの光に照らされた出店を覗く。

 かき氷、箸巻き、ベビーカステラ、綿菓子、たこ焼き。

 ヨーヨー釣り、金魚すくい。何の変哲もない出店が、宝石箱をひっくり返したかのようにきらきらと輝いて見えた。

 花火が上る前にと出店を覗き、皆が皆、楽しそうに今日を楽しんでいる。

 今日が終わっても、楽しみは終わらないのだろう。次は海に行こうか、いや山がいい、せっかくだからちょっと遠出をして──そんな計画を立てるのだろう。家族と、友人と、恋人と。

「神崎、射的がある」

 まだ夏は半ばで、楽しむための時間はたっぷりと残されているのだ。

「神崎」

「はいっ?」

「──……もうすぐ花火が上がる。時間まで、座って待っていようか」

「出店、見なくていいんですか?」

「場所を取っていないと、立って見ることになるだろう」

「そうですね」

 結子の同意を得ると、近衛は繋いだ手を強く握る。人の波に流されてしまわないように。


 土手に座って、暗くなった空に打ち上げられる花火を見ていた。花火は暗い水面に色を落とし、夜空に鮮やかな絵を描く。その度に観客は歓声を上げ、ひと夏の思い出をスマートフォンの中に残していた。

 結子はといえば、これが終われば──と、そればかりを考えていた。これまでのご褒美だというのに。


 結局、最後まで見ていては帰れなくなるから、と最後の大連発花火を見ずに会場を後にした。それでも帰りの電車は満員で、押しつぶされないようにするのに必死だった。

 最寄り駅で降りて少し歩くと、それまでの喧騒が嘘のように静かになる。カラコロと下駄の音だけが付いてきていた。

 話したいことはあった。ありすぎて、何から話せばいいか分からないほどに。

「きれいでしたね、花火」

 けれど、話したいことはきっかけがなければ口にするのは難しいのだ。結局、出てきたのはそんな当たり障りのない話題。

「楽しかったか?」

「楽しかったですよ、とても」

「──……そうか」

 そして再び、下駄の音だけになる。

 そうこうしているうちにも家はもうすぐそこだった。このまま別れて終わり──となってしまうのか。

 あと何歩で着くだろう。一歩歩く度に、別れが近くなる。一歩、またもう一歩。

 夜の家々の中に、ぽっかりと開いた暗がりがあった。神社の木々が作る闇だ。

 香菜に言われたことを思い出す。


 ──悔いのないようにね。


 このまま別れては、悔いしか残らない。次の一歩は踏み出さない。足を止めて、近衛を呼び止めるのだ。

「近衛さん」

「神崎」

 それはほぼ同時で、結子だけでなく近衛もまた足を止めていた。

「……」

「……」

 互いに黙ったまま、しばしの沈黙。どちらともなく笑い出す。

「神崎、少し帰りが遅くなっても構わないか?」

「私も。このままさようなら、は寂しいと思っていました」


 神社の境内に入り、近衛はようやくいつもの姿に戻る。繋いだままの手のが、急にひやりと冷たくなった。

『灯りを』

 近衛がどこへとなくそう声を掛けると、蝋燭がふわふわと揺れながら運ばれてくる。ふたつ──みっつ。蝋燭は宙に浮いたまま、結子と近衛の周りを照らした。

『座るものも運ばせようか』

「ここに座るので良いですよ」

 地面を伝う木の根を椅子代わりにして腰を下ろす。近衛も笑って頷き、結子に従った。

 どこかに出掛けるよりも、いつもの慣れた場所が一番落ち着く。近く、遠くに虫の音が聞こえるばかりであとは静かだった。

「花火も綺麗でしたけど……こっちの方が落ち着きます」

『そうだなあ。人混みは時々でいい。……もっとも、昔はここでも祭りをしていたんだが』

「お祭りを?」

『昔の話だ。旅の一座が芸を披露して、村人たちが集まって、それは賑やかだった』

 その"昔の話"がいつの頃かは分からないが、結子が記憶する限り神社で祭りは開かれてはいない。近衛からすれば、寂しくなったのかもしれない。時が過ぎ、伝統が消え、これまでと変わってくる。

 これから──。

『これから、結木神社はどうなるだろうな』

 それは、結子が考えていたことと同じだった。

 近衛は結子以上に神社の移り変わりを見てきた。それも、もうできなくなる。その不安は計り知れないだろう。

「大丈夫ですよ」

 神社は神様だけが頑張ってもどうにもならない。まして神使だけで、神職の力だけでどうにかなるものでもない。お参りする人々がいなければどうにもならないのだ。

 結子にできるのは、その手助けをするくらい。それでも、全くの無力ではないのだ。

「私が跡を継ぐんですから」

 結子ができることならば、どんなことでもしよう。それで、少しでも近衛を安心させられるのなら。

「大学を出て、立派な神職になります。そして──……あと、そうだ。どんな相手がいいかって、話したことがあったでしょう」

『ああ──あったな』

「色々考えてみたんです。いつか、私の赤い糸が誰かと結ばれることがあったら」

『神社が好きで、叱ったり叱られたりできる人、だったか』

「そう。それで、その相手とどうやって知り合うか」

 足元に落ちていた枝を拾い、地面にのの字を書く。

「合コンは苦手だったから、そういう場所で知り合うのは難しいと思うんです。──近衛さんには内緒にしてましたけど、合コンにも行ったんですよ、私。頭数合わせですけど」

 不機嫌そうに、そうか、とだけ返事があった。

「なので、神社で待つことにします」

『自ら行動はしないのか』

「行動しますよ! 私と気が合うような方が訪ねてくるような神社にします」

 少しだけ、そんなことは夢のまた夢だろうと思う気持ちはあったけれど。

「参拝に来るのでも良いし、人手が足りなくなって求人を出して、ここで働きたいと紹介してもらってきた方でもいいです。そして──」

 それが、近衛ならば──。

『それが、わたしであれば嬉しいな』

 手にしていた枝がぽとりと落ちる。近衛を見る結子の表情は、どんな顔をしていただろう。聞き間違いではないのか。結子が望むあまり、相槌を都合の良いように受け取ってしまったのではないか。

 結子が信じていないのを──自身の耳と近衛の言葉を──感じ取ったのか、近衛は足りない言葉を付け足して結子に告げる。

『神崎の隣がわたしの居場所であれば、これ以上の喜びはない』

 本当か、嘘ではないのか、と確認するのは無粋だ。それでも、これは結子が見ている都合のいい夢ではないかという気がして仕方がない。気付かれないように頬をつねってみる。

『急にこんなことを言われても、信じられないのが当然だろうな』

 近衛はそれをしっかり見ていたらしく、気を悪くする様子もなく笑う。

「いえ、その……私ばかりがそう思っているんじゃないかって……。近衛さんには、好きな方が──……」

 近衛が神使になるきっかけになった女性が居るではないか。

「あ……そうか、私、その方に似てる、とかなんとか……。あっ、すみません、前に十夜くんから聞いてしまって」

 だから、代わりに丁度いいのだろう。そのままの意味で受け取って、一人で浮かれてしまうところだった。とんだ道化になるところだったのだ。

『神崎──』

「早とちりするところでした。すみません」

『話を──』

「いけませんね、花火を見てテンション上がったみたいで──」

『結子』

「──……」

『わたしにも話をさせてはもらえないか』

「……はい……」

 ようやく結子が黙ると、近衛はゆっくりと話し始める。

『昔、わたしが人の娘に好意を抱いたことがあるのは事実だ。遠い、遠い昔の話だ。神崎家の先祖になるのか──……』

 懐かしそうに語るのは、遠い昔に生きていた女性。

 結子の視線は次第に下がっていく。今は近衛に顔を見られたくはなかった。目が合ったところで、隣に居る結子の姿を通してそのひとのことを思い出しているのだろうから。

「だから、何だかんだ気にかけてくれていたんですよね。似ていたから──」

 近頃の近衛の優しさも、結子を通してそのひとへ向けたものだったのならば。

 近衛は否定せず、けれどはっきりとした肯定もしなかった。

『そうだなあ……。結子に似ているような気もするし、記憶違いのようにも思う。今はもう──……その娘の顔が思い出せんのだ』

「昔のことすぎて?」

 記憶がぼやけているのかもしれない。少し似ている──ような気がする、似ていればいい、そんな希望がフィルターとなっている可能性もある。

 別の誰かを通じて好ましく思ってくれている、それは喜んでも良いのではないか。少なくとも嫌われてはいないのだ、それはとても──。

 懸命にそう言い聞かせてみても、気持ちはそれに付いていかない。

 近衛は静かな口調で続ける。それは静かな、静かな告白だった。

『思い出そうとすると、結子の顔になる。結子の顔を、声を思い出す』

「──……」

『初めは結子を通してその娘を見ていた。それは間違いないことだ。だが──いつからだろうな、結子を、結子として見始めたのは。今では──』

 そして、小指に巻かれた糸を引いてみせた。


『これが、赤い糸ならばどれほど良いかと思い始めたのは』


 近衛と結子を結ぶ白い糸。ただ単に業務連絡のためのものに他ならない。その糸は切れることがない代わりに、赤く色付くこともないのだ。

 顔を上げて隣を見ると、蝋燭の灯りに照らされた近衛が微笑んでいる。白い肌が僅かながらにも色を含んでいるように見えたのは、その橙の灯りのせいか。

 いや、どちらでもいい。どちらだって。

「私も──……私も、ずっとそう思っていました」

 近衛も、同じことを考えていたのだと分かったのだから。それが、どうしたって叶わぬことでも。

 結子の小指には、白い糸ともうひとつ、赤い糸。まだ誰とも結ばれておらず、糸の先は暗闇に溶けている。けれど、近衛の小指には赤い糸はないのだ。誰とも結ばれることはない。それが近衛の定め。

「この糸が──……」

 あ、と閃いてその後は許可も取らずに動いていた。糸を結べないのならば、そして白い糸の色が変わらないのならば、別の方法があるではないか。近衛の手を取り、小指に結子の赤い糸を巻き付ける。

「これで、どうです?」

 もちろん、これで近衛と赤い糸で結ばれた訳ではない。このひとときだけの気休め。それでも、構いはしない。

 近衛は、結子の行動に驚いて──そして、笑った。

『ああ、これはいいな──これはいい』

「私、近衛さんに会えたこと、少しも後悔していませんよ。これから先、思い出して寂しいなって思うことは……そりゃあ、あると思います。でも、会わなければ良かったなんて思いません」

 叶わない恋ならばしなければ良かったとは決して思わない。近衛と知り合えなければ、今でも結子は人と関わりを持たず冷めたまま毎日を過ごしていただろうから。


「初めて赤い糸で結ばれたのが近衛さんで、本当に良かった」


 本当に──本当に。

『──誰とも結ばれることのないわたしが、好いた相手と縁を結べたのは──結子のお陰だ』

 何よりの称賛だ。

 これまで他人の糸を見境なく切ってきた結子が行った身勝手な行為は、怒られても仕方がないことなのに。近衛は怒るどころか讃えてくれる。結子のお陰だと言ってくれたのだ。

『だが──……結子。そろそろこの糸を解かなくてはな』

 このひとときは有限なのだと、近衛は穏やかな声で告げた。

「あの、近衛さん。さっきから、結子結子って呼んでますけど、名前で呼ばないでって言ったじゃないですか」

『最後くらい、好きに呼ばせてくれてもいいだろうに』

 だから、名字で呼んで欲しかったのだ。いつもと違うのは、特別なこと。嫌でもそれを意識させられる。

「──……」

 鼻がつんと痛い。溢れるものを抑えようと唇を噛む。その痛みは、けれど抑え込む力はなく口の中に鉄の味を広げるだけになってしまう。

『泣いてくれるな』

「でも」

 泣きたくなくても涙が出てくるのだからどうしようもない。

『結子の笑顔に送られたいのだ』

「……こう、ですか」

 無理やり口角を上げる。まだ視界が揺らめいていて、涙が溢れそうになっているのが分かる。

『そう。ああ──いいな。結子の笑顔は』

 白い糸に触れても、近衛はすぐに解こうとしなかった。この後は、家までこの灯りが送ってくれるから大丈夫だ、今後は十夜が面倒を起こすかもしれないが、迷惑はかからないようにしておく、そんな連絡事項もすぐに尽きてしまう。

 近衛は微笑んで、結子の頬に触れた。冷たい指が、伝い落ちる涙を拭う。


『幸せにな』


 それが最後の言葉だった。

 白い糸が解かれる。どうやっても切れなかった糸は簡単に結子の指から離れてしまった。

 そして、近衛の指に巻き付けていた赤い糸も、主を失って結子の小指から垂れ落ちるだけとなった。

「近衛さん」

 その声は、夜の闇に溶ける。

「──……近衛さん」

 いくら待ってみても、その呼びかけへの返事が返ってくることはなかった。

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