53:日中、結木神社本殿
いつもは静かな本殿の雰囲気が、今日はどこか落ち着かない。目に見えて、誰かが慌ただしく駆け回っているということはない。目に見えての騒がしさはなかったが、肌に触れる雰囲気が騒がしかった。
今晩なのだ。近衛が神使でなくなるのは。この神社の一番の古参、主にも厳しいことを言える神使は近衛だけだったから、皆、寂しさと不安とでいっぱいなのだ。
その主は、
『近衛は最後まで尽くしてくれたからね。餞別をと思ったんだけれど、今日に間に合わなくてね』
『期待していませんよ』
『……そんなこと言っていいのかな。最後に、あっと驚くことをしてあげようと思ったのに』
『結木様には毎日のように驚かされましたよ』
それは事実だった。もちろん、あまり好ましい意味ではなかったけれど、それも今では良い思い出だと言える。
『そもそも、一度こちらに戻ってきます。神崎を夜道で放り出しはしませんから』
曲がりなりにも少女はいずれこの神社の神職となる大切な身なのだ。夜道で放り出してそのまま──などできるものか。
『神崎結子を送って、ここに挨拶に来て、それでお暇をというつもりだろう』
『そうなるでしょうね』
『近衛は、このまま逃げられると思っているのかな』
『……結木様?』
『このまま、この結木から逃げられると思っているのか?』
曲がりなりにも神と拝まれる者が、そんなやくざな物言いをするのか。
『逃げる訳ではありません。わたしは──』
いや、逃げるのかもしれない。この社の神使であれば、神崎結子を見守ることになるのだ。言葉も交わせぬまま、もしかすると生涯の伴侶と仲睦まじく暮らす様子も見せられる。
人の生涯など一瞬のこと、気付けば神崎結子も亡くなっていた、とはなるのだろう。だが、いずれまた似た娘を見ては思い出してしまう。
それならば、いっそのこと消えてしまった方が楽だ。
『近衛が決めたことだから構わないよ』
そう言ったきり、主は黙ってしまった。
『兄者』
近衛の様子を伺うように、狩衣の袖が引かれた。近衛とは対称的な黒い装いの少年。
『どうした、十夜』
後輩の神使は不安そうな表情を浮かべて訊ねる。
『ちゃんと結子に言ったんだろ? 出店見ようって。花火よりも早い時間に待ち合わせしてるんだろ?』
『ああ、十夜に言われた通り』
あれこれと近衛に助言をしてくれたのだ。せっかくだから出店も見たほうがいい、待ち合わせをした方がいい、まるで彼自身が行くかのようにどこからか仕入れてきた情報を近衛に教えてくれたのだ。
『だろ? あいつ、絶対に疎いと思ったんだよな』
歯を見せて笑ったが、そこにいつものような明るさはなかった。まだ何か言いたいことがあるのだろう。そして、それは急かしていいものではない。近衛に残された時は限られているが──それは、彼も分かっている。
長いような短いような間の後、抱えていたものをようやく吐き出す。
『……兄者、ごめん』
謝罪の後に続く声は震えていた。
『俺、結子にバラしたんだ。兄者の命と引き換えにして、結子が気にしてた病気の人が治ったんだって』
『そうだろうとは思っていたよ』
急に、あの少女が笑うようになった。それも心からのものではなく、懸命に作った笑顔で。十夜の告白には、そうだろうな、としか思わなかった。もっとも、十夜は約束を破ってしまったことを抱えてずっと苦しんでいたのだろう。
『神崎には伝えるなと言ったが、同時にどこか期待もしていた。誰か、伝えてくれはしないかと』
知らせるな、とは言ったが微かに期待もしていた。だから、近衛に彼を責める資格はないのだ。むしろ礼を言うべきなのだから。
目にいっぱいの涙をためて、口をへの字に曲げて、彼はなおも続ける。
『兄者は、最後くらい好きにしてもいいと思う』
『もう充分、好きにさせてもらったろう。最後の最後に、身勝手な我儘を言った』
『じゃあ、あともうひとつくらい我儘言ってもいいと思う』
『ならば、以前、十夜が美味しそうだと言っていたたこ焼きでも──』
『そうじゃなくて! 最後くらい好きなもんに好きって言えって意味!』
言いながら、握りしめた彼の拳が近衛を殴る。何度も、何度も。拳から伝わってくる気持ちが痛い。言葉では言い足りない、補いきれない気持ちが詰まっていたのだから。
『ありがとう』
彼の瞳から大粒の涙が零れた。一度零れてしまったら、後はもう止め処なく、ぼろぼろと頬を伝う。
『わたしは、十夜が好きだよ』
『……言われなくても知ってるよ。俺じゃなくて、言わないと分からないやつに言えよな』
それは我儘が過ぎる。神使にとって人の生は一瞬でも、人にとっては長いのだ。別れ際に気持ちを伝えられても、困るだけだろう。
『兄者は、好きだとか言ったら結子がこれから先、他のやつ好きになれなくなるんじゃないかって心配してるかもしれねえけどな』
まるで考えを読んだかのような発言に、近衛は言葉を挟めなくなる。
『そんな心配するんなら、はなから関わるべきじゃねえし。それならもう伝えた方が楽だろ』
楽だから──その程度の軽い気持ちで伝えていいものではないだろう。
下手をすれば生涯を左右してしまうかもしれないのだ。その責任を、近衛は負えない。
いや、彼の論理に当てはめれば、関わりを持つことが駄目なのか。
『……結子からは言えねえと思う。俺、前に兄者のこと好きになるなって言ったから』
『十夜はよく気がつく神使だな』
『ガキ扱いすんなよな! 兄者には及ばねえけど、俺だってそこそこ長生きしてんだからな!』
近衛から見れば微笑ましいことこの上ないのだが、それを言っても機嫌を損ねるだけなのは見えていた。
『あと、名字はだめだぞ』
『名字?』
『兄者は距離取ろうとして一生懸命名字で呼んでたけどさ。そういうの無駄だから。好きに呼べよな』
表情を崩さず、感情を表に出さずに過ごしてきたつもりだったが──全て見透かされていたのか。
『承知した』
彼の助言に頷き、苦笑するしかなかった。




